迦羅求羅虫

小さな寺の日々の出来事

森 達也さんのドキュメント映画を見る

2008-01-27 11:33:40 | つれづれ
明賢寺サイトトップでもお知らせしていますように、2月27日に仙台教務所で、連区仏青の公開講座が開かれます。
といっても、仙台教区ではまだ組織的には仏青というものがありません。
これを機に、正式に立ち上げるのかどうかわかりませんが、今回は一応仙台教区の教研が窓口になっているようです。
仙台教区は現在、寺の若い人たちの顔ぶれが揃ってきて、動きも活発化してきているみたい。
嬉しい事ですし、これからが楽しみです。
あまり内向きにならず、いろいろな枠を越えた歩みをしていってほしいなあと、思っています。

さて、その公開講座の講師、森達也さんの作ったドキュメンタリーを続けて見ました。
そのまま放送禁止となった歌の背景を追った「放送禁止歌」
動物実験がテーマの「1999年のよだかの星」
そして「人間の街ー大阪・被差別」

昨夜は、オウム真理教に取材した「A」に続く「A2」を見ました。
一連の事件のあと、オウムが地域住民との軋轢(あるいは交流)をくり返しながら各地を転々としていく様子。
それでもなお信仰を捨てず修行を続けていく姿を丹念に映していました。
監視テントを作り反対運動に関わる人たち、一方的にオウムに相対しようとする右翼の人たち。
この映像を見ていると、この社会で言われる正義とか悪とか、一人ひとりは何も問題がないように見えるのに、全体となると混沌としてきて、何が何だかわからなくなります。
そのなかで、宗教とはいったいどういう位置にあるのだろう・・・。

話しは違うのですが、オウムの若者が言ったという「寺は風景でしかなかった」という言葉が、しばしば話題になったことがありました。
研修会の講義など、いろいろな場面で取り上げられるので、表現としては少々聞き飽きた感もあるのですが、今回の同朋会議の班別座談でそのことを引用して話された若い方がおられました。
おそらくその方は自分の立っておられる現場で、感じているままの危機感というものをお話しされたのだと思います。
でもそれを受けて、別の方が、それは卑下慢というもので、そのようなところに陥る必要はない、もっと自信を持つべきであると。
そしてご自坊ではいかに門徒の方々と親しく接し法座をひらいているかを滔々と話されました。
私はそのことに何か違和感を感じてしまいました。

そのようなことは、たぶんどこの寺でも、どんな住職でも率先してやっておられることでしょう。
それでもなおそこに、寺と門徒、僧分と門徒、寺と社会との、どこまでいっても接点を見いだせない関係があるのではないか、そこに問題点を見いだすことなく漫然としている事こそが、危機なのではないかな。

公開講座当日は住職が留守。
息子も仙台へ行ってしまうし、でも私もでかけて行って森達也さんの話を聞きたいなあ。






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