乱鳥の書きなぐり

遅寝短眠、起床遊喰、趣味没頭、興味津々、一進二退、千鳥前進、見聞散歩、読書妄想、美術芝居、満員御礼、感謝合掌、誤字御免、

節分の豆蒔き

2009年01月31日 | 民俗考・伝承・講演

 

 

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 節分といえば豆蒔きを思い浮かべる事も多い。

 この豆蒔きも地方によって姿を変える。

 元は家の中にケガレを入れない、また、ケガレを外にはき出すという意味があると、先日読んだ民俗学者の神崎宣武氏筆の『ちちんぷいぷい』や他のいろいろな民族学関係の本に記されている。

 現在では豆を蒔くことが定着していることが多いが、元は五穀豊穣や山の生活とも密接な関係があり、穀物や木の実ならば何でも良かった。

 だが、あわやひえ、米では後の処理が困る。

 そうして人間が都合の良いように、つまり拾いやすいように豆を使うようになったと書かれていた。

 

 この蒔かれた穀物は、昔から食べるのが前提であったとのこと。

 ゆえに掃除され清められた居間や生活の間を中心に 炒った穀物を蒔かれ、玄関や外に向けては最後に少量蒔いたとのこと。

 自作穀物を大切にする農耕民族の知恵が習慣となったようだ。 

 

 穀物を蒔く主は大黒柱や長寿者男性が多く、鬼になるのは息子とされていたことが多かった。

 青年部に入団する前の成人にいたらぬ男性はこせがれとされ、父親などに比べ軽視されていた事も理由の一つらしい。

 

 また一説では、炒った豆を年神に供えたあと、その豆を年男(その年の干支の生まれ)が蒔くともいわれている。

 

 上のことを考えると、蒔かれた豆を自分の年の数だけ または 年の数+1だけ拾って食べ、一年の無病息災を願う風習が一般的になって定着したといえよう。 

 

 ではこの蒔く穀物や木の実は五穀豊穣や山の生活だけに関係するのかと言えば、他にも理由が考えられる。

 穀物や木の実には『邪気を払う霊力』があると考えられており、豆などを蒔くことで浄化されると考えられていた。

 豆の霊力により邪気を払い、福を呼び込むと考えたのだ。

 この考え方が この考で初めに書いた『元は家の中にケガレを入れない、また、ケガレを外にはき出すという意味がある』という部分に共通。

 根本は同じである。

 

 節分には太巻きを食べることが日本全国で定着している。

 これは歴史的にはごく最近で、何の根拠もない。

 ただ太巻きが鬼の持つ金棒に見立てられてのこと。

 元は関西のすし屋が節分に商売気を出して太巻きを売り出し、消費者が乗っかった。

 それが日本各地に広がったとのこと。

 何だかバレンタインディに類似。

 こういった些細なきっかけが元となり習慣化して、民俗の歴史となるのかと思うと、まんざら馬鹿にできない・・・というより、そういったお祭りイベントに乗っかる平和な生活に感謝。

 節分には鰯を焼き、太巻きをつくる。

 そうして年の数だけ豆を食べるという我が家の楽しいイベントをたやしてはいけない。

 今年も楽しもうと、本日 節分豆や海苔や干瓢や乾椎茸を購入した私である。

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節分

2009年01月31日 | 民俗考・伝承・講演

 

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 節分とは本来、季節を分ける意。

 つまり季節が移り変わる節日を指す。

 元は 立春・立夏・立秋・立冬の各前日に、節分は設けられていた。

 つまり、一年に四回。

 日本でも立春は年の始まりとして尊ばれ、次第に春の節分だけをそう呼ぶようになった。

 

 平安時代の宮中では、大晦日に陰陽師らによって旧年の厄や災難を厄払いしていた。

 そして室町時代にはいると豆をまいて悪鬼を追い出す行事へと発展。

 

 京都ではこの時期、表鬼門にあたる『吉田神社』と裏鬼門にあたる『壬生寺(みぶでら)』の節分祭がことに有名。

 百万遍は当たり前だが、祇園などを歩いていても『吉田神社』の豆まきのポスターが貼られている。

 また、『壬生寺(みぶでら)』では毎年壬生狂言が行われ、私などはあのデンデケデンデケの音が今も心に響き、懐かしく感じる。

 そういった意味で、節分のころになると心は京都に向かい、幼きころを思い浮かべる。

 柳田國男氏は『都市には民俗はない。従って芸能は民俗ではない。』といいきったとのことだが、節分には狂言、祇園祭が来れば夏、顔見せが来れば年の瀬で正月を迎えるといった感覚が身に付いており、これも一種の民俗であると感じるのは私だけか・・・。

 だが、宮田登氏をさかのぼり、南方熊楠氏や折口信夫氏や赤松啓介氏などの話によるとこういったものもを語らずして 民族学は語れないとのことなので、胸をなで下ろす事しきりなし。

 

 今日は一月三十一日。

 今年も早一ヶ月が過ぎ、明日は二月。

 この頃になると豆を買い、太巻きの食材の用意を始める。

 不思議なことに一月末日、我が家では毎年のように赤飯を炊く。

 これは私が作り出した新しい風習で、赤飯を炊くことにより、良き二月が迎えられると信じてのこと。

 そして 今晩赤飯を食べ終え、今ほっこりとした時間を楽しんでいる。

 もうすぐ節分。

 今年も良い風が我が家の中を流動するだろう・・・、そんな気がする。

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