うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

義なきところ

2024年05月28日 | ことばを巡る色色
慶應は慶應義塾大学である。が、最近、ニュースだけでなく出版物まで、慶應大学と義塾を省略しているのをよく見かけるようになった。確かに2字の画数の多い漢字を略した方が面倒はないだろう、とも思うが、今までのメディア、公式のものなどは律儀に慶應義塾と書いていたのに、どうしてしまったことなのだろうと思う。ひょっとして、これまでは慶應義塾自体が、慶應と略すものには「うちは慶應義塾です」といっていたのに、最近は緩くなったとも考えられなくない。

さて、その慶應であるが最近、塾長(学長)が、国立大学の授業料を上げるよう文科省の会合で国に提案したらしい。半世紀ほど前にも国立大学の授業料は値上げされたが、その時も私立大学から国への要望によるものであった。
その時も今回も私立大学の経営が厳しく、学問の充実のために学費を上げるべきというものであった。

設置形態に関わらず、大学教育の質を上げていくためには公平な競争環境を整えることが必要」とし、国公立大学の学納金(学費)を年150万円程度、現状の3倍近くに引き上げることを提言した。「このことで一部の私立大学では経営努力により、国立より低水準の学納金設定で公平な競争に参加できる」とし、奨学金制度や貸与制度についても公私大共通の土壌で整備する必要性を訴えた

とのことである。
殿様は自分のお国の年貢による藩の経営が思うようにならぬから、隣の藩のお殿様に(オタクの年貢あげてくれんかな、みんなが隣は安いのにと不満を言って値上げできないんだよね)ってことか?国立大学が、私立大との兼ね合いで学費を決めるというとんでもない非常識で道理の通らぬことを、この国は過去にして来た、というのは事実であるが、それを今回も繰り返して良いのか。
高校を無償化し、或いは不要な進学まで推進して、国を支える国立大学による人材の育成は、学費という形で家庭に負担を押し付けるのか。それも慶應義塾の提案を受けてであるのか。発言した伊藤塾長、その発言を会合で許した文科省は正気でそんなことをやりとりしていたのだろうか。

奨学金等も統合するという提案であるが、国立大学には現在、学費全額、あるいは一部免除の制度があり、いわゆる難易度の高い大学ほど多くの免除枠をもっている。学費の払えぬものも、国立大学なら学問を続ける手立てはあるのだ。多くの才ある者に門戸を開き人材を育成するのが国立の使命であろうのに。年額150万の学費がどれだけの人材を切り捨ててしまうこととなるのか。

人を育てるこの国の「義」は一体どこに行ってしまったのか
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