前回の記事において、私は私の感動を、私はうまく表現できたのだろうかと反省いたしております。
番組(NHKスペシャル「脳梗塞からの“再生”~免疫学者・多田富雄の闘い~」http://www.nhk.or.jp/special/libraly/05/l0012/l1204.html)に関して言えば、「障害を持っているけどがんばってるよ」というような次元を超えたものだと私は感じました。抽象的な言葉で言えば、「尊厳」とか「アイデンティティ」とかいうものへの感動です。人は自分の一部を損なうことが往々にしてある。それは体の一部だったり、目に見えないところのの一部だったりするのだけれど、その時、その人の、その人であるという「尊厳」「アイデンティティ」はいかに持ち続けられるのかということに関してです。「自分の望まない自分」にならざるを得なかったとき、いかに「自分」であり続けることができるのか。自分が心のどこかで忌む姿に自分がなった時、どのように「自分」であり続けようとするのか、ということです。
不能」「無能」「不自由」を自分は差別しないと思いながら、心のどこかでそれを忌避しようとしている。だから、自分がそうなったとき、落ち込んだり、混乱したりする。いくら心の広い、思慮の深い人でも、そういう「差別」は、他のみでなく、自に向かっても持っている。でも、状況がいかに自分の望まぬほうに進んでも、人は生きていかなければならない。その時、本当の「その人」が問われるのではないかと思います。
彼が、「自分の望まぬ自分の姿」に苦しみ、あがき、受け入れ、自らのなすべきことを、「自分」であり続ける中でし続けたことは、美しかった。冴えた、一線の科学者としての頭脳の中で、受け入れがたい不自由な自分を受け入れ、その中で己のなすべきことを考え続けたその精神。
「自分がもはや、弱者の立場になったことを受け入れてかつ、あきらめない」「できぬ自分をできた記憶を持つ自分が冷静に見て、その上で生きる」「できぬ自分として、この世に送られた意味を考える」というところに感動したのです。
もうひとつあります。それは、タイヤ屋さんの話です。「尊厳」「アイデンティティ」のあり方は一様ではないということです。多田さんの仕事は、輝くばかりの世の中で評価されえているものです。しかし、わたしは、タイヤ屋さんにも感動した。だから「尊厳」のあり方はさまざまで、世のつける上下なんて、本当に「瑣事」だと思ったのです。生きていく中で大切なのは、何なのか。ささやかに、しかし、けして絶望することなく、自らの「できなさ」から目をそらさず、その上で「よりよく」生きていくことなのだということです。「できない」自分や、「できないことは負であると思ってしまう」自分を自覚するのはつらい。しかし、そこからしか始まらない。そうわたしは思っています。
以前ちらりとブログにも書きましたが、私自身が、「自分の負の部分」(性格が暗いとかそういうのではなく、社会的なマイノリティーの要素です。いわば、「差別さをうける」要素です。)を持っています。わたしはそれから逃れられないけれど、同じ境遇にある人を、どこか「差別」する自分もいます。そういう自分は弱いと思います。自分が、「恥ずべき要素」と思ってしまうのは、とりもなおさず、その要素への「差別」を私が持っているからです。なんと、だめなやつでしょう。なんと、悲しいことでしょう。でも、それがわたしです。その私がどのように生きるのか。どのように、それらのすべてを抱き、絶望せず生きるのか。「差別される側」でありながら、「差別する意識を消せない側」である自分をどう生きるのかは、わたしの大げさに言えば、人生の課題です。だから、わたしにとっては、「ありがちな感動」などでは済まされないのです。わたしの、「死活問題」なのかもしれません。
番組(NHKスペシャル「脳梗塞からの“再生”~免疫学者・多田富雄の闘い~」http://www.nhk.or.jp/special/libraly/05/l0012/l1204.html)に関して言えば、「障害を持っているけどがんばってるよ」というような次元を超えたものだと私は感じました。抽象的な言葉で言えば、「尊厳」とか「アイデンティティ」とかいうものへの感動です。人は自分の一部を損なうことが往々にしてある。それは体の一部だったり、目に見えないところのの一部だったりするのだけれど、その時、その人の、その人であるという「尊厳」「アイデンティティ」はいかに持ち続けられるのかということに関してです。「自分の望まない自分」にならざるを得なかったとき、いかに「自分」であり続けることができるのか。自分が心のどこかで忌む姿に自分がなった時、どのように「自分」であり続けようとするのか、ということです。
不能」「無能」「不自由」を自分は差別しないと思いながら、心のどこかでそれを忌避しようとしている。だから、自分がそうなったとき、落ち込んだり、混乱したりする。いくら心の広い、思慮の深い人でも、そういう「差別」は、他のみでなく、自に向かっても持っている。でも、状況がいかに自分の望まぬほうに進んでも、人は生きていかなければならない。その時、本当の「その人」が問われるのではないかと思います。
彼が、「自分の望まぬ自分の姿」に苦しみ、あがき、受け入れ、自らのなすべきことを、「自分」であり続ける中でし続けたことは、美しかった。冴えた、一線の科学者としての頭脳の中で、受け入れがたい不自由な自分を受け入れ、その中で己のなすべきことを考え続けたその精神。
「自分がもはや、弱者の立場になったことを受け入れてかつ、あきらめない」「できぬ自分をできた記憶を持つ自分が冷静に見て、その上で生きる」「できぬ自分として、この世に送られた意味を考える」というところに感動したのです。
もうひとつあります。それは、タイヤ屋さんの話です。「尊厳」「アイデンティティ」のあり方は一様ではないということです。多田さんの仕事は、輝くばかりの世の中で評価されえているものです。しかし、わたしは、タイヤ屋さんにも感動した。だから「尊厳」のあり方はさまざまで、世のつける上下なんて、本当に「瑣事」だと思ったのです。生きていく中で大切なのは、何なのか。ささやかに、しかし、けして絶望することなく、自らの「できなさ」から目をそらさず、その上で「よりよく」生きていくことなのだということです。「できない」自分や、「できないことは負であると思ってしまう」自分を自覚するのはつらい。しかし、そこからしか始まらない。そうわたしは思っています。
以前ちらりとブログにも書きましたが、私自身が、「自分の負の部分」(性格が暗いとかそういうのではなく、社会的なマイノリティーの要素です。いわば、「差別さをうける」要素です。)を持っています。わたしはそれから逃れられないけれど、同じ境遇にある人を、どこか「差別」する自分もいます。そういう自分は弱いと思います。自分が、「恥ずべき要素」と思ってしまうのは、とりもなおさず、その要素への「差別」を私が持っているからです。なんと、だめなやつでしょう。なんと、悲しいことでしょう。でも、それがわたしです。その私がどのように生きるのか。どのように、それらのすべてを抱き、絶望せず生きるのか。「差別される側」でありながら、「差別する意識を消せない側」である自分をどう生きるのかは、わたしの大げさに言えば、人生の課題です。だから、わたしにとっては、「ありがちな感動」などでは済まされないのです。わたしの、「死活問題」なのかもしれません。
発病前と発病後の違いに、どうしても拒否反応をしめしてしまう時期は、本人、家族、友人など含めてつらいです。でもあきらめないで生きていくと、時間が解決してくれるような気がしてます。出来ないのが普通になり、話せないのが普通になり、皆がそれに順応していく時間、とても長い時間がかかりました。希望の持ち方が普通とは違いますね、こういった場合。
現在、過去、未来のすべてが自分で、感情は理性とは違うところから湧いてきて、人間は愚かだけれど、だから人間なんだと思って生きています。
障害は個性です。
この人だから、この障害に耐えられる。
耐えられる人が障害を克服できる、克服できるから神様から与えられた。
耐えられる人だから障害をいただいている。
なんか矛盾しているような、心構えなのか、一生付き合っていかなくてはならないものだから、そう考えているのか?
さだかではありませんが、、、こんな話を聞いたことがあります。
たぶん、私も耐えられないでしょう。
克服もできません、たぶん即、死んでしまうかノイローゼになるでしょう。
私も負の部分が沢山あります。
頭が悪い、言葉を知らない、小柄である、顔が悪い、集団行動ができない、自己中である。
差別の対象となったものもありました。
虐めにもあったことがありました。
差別される側から差別する側になったこともありました。
今は、うさとさんのいろんなブログを読みながら、自分なりに考えさせられることや、これからの対処していくことに「人生の課題」となっていくのだと思った。
「慣れていく」けど、「慣れないでい続ける」
そういうことが大切ではないかと思っています。
理性と感情は違うところであり、混ざり合ったところがスペシャルであるとも思っています。
目に見えない「概念」のようなものは、表現しづらく、理解しづらいけど、それを追及することが、実生活を「よりよく」していくのではないかと考えています。
こういうのって、やっぱ、「甘い」かなあ?
「差別」は、心の中にあり、なかなかぬぐえない。少なくとも私はそうです。小さい人間です。「よく」なりたいという心が、それと違う姿の人を差別する心と表裏一体となっています。世の中には、このようなきもちにはない清らかな人もいるけれど、少なくとも私は、そういう大きい人間ではありません。でも、それを抱えて生きていこうという気持ちはあるんです。目をそらさず、自分の「負」を見つめ生きていたいんです。
バルタンさん、バルタンさん、優しいバルタンさん、コメントを、ありがとうございました。
言語をつかさどるところに障害が残っているらしく、昔のような演技は今の彼には出来ません。でも、彼の芝居へのスタンスは昔とまったく変っていません。
出番もセリフも少ないけれど。彼の演じ続けている年輪が、彼の今の演技の幅を作っていると思うのです。これはもしかすると倒れる前の彼では演じられなかったことかもしれません。(私にも真相はわからないけれど。)
うさとさんの記事を見て、私はそのドキュメンタリーを見ていないけれど、柳博士を演じた彼を思い出しながら読みました。
人って、今の自分を生きるしかないんだよね。
なりたい自分がどうであっても、とにかく今の自分からしか始まっていかない。
それをわかっている人は、みている人にいろいろなものをくれます。
「対峙」
なのだと思います。
naoさんのお好きな方と私の文章が同列においていただけて、うれしいです。
両方欲しい、というただの欲張りかもしれませんが、それを追求している人は好きですし、私は両方ないと満足できないです。だから、ここに立寄ってます。また何か投げかけてください。
いろんなものが欲しくて、いろんなものが知りたくて、いろんなものを覗いてみたくて、それをそのように書いてみたくて、私もここに居ます。
「投げかける」ことになっているか自信はありませんが、どうぞ、どうぞ、一緒に覗いてください。