うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

絶滅危惧種(その1?)

2005年08月31日 | ことばを巡る色色
このごろの巷に絶えて見られぬもの。その名はインテリゲンツァ。
「知識人」という人々。Wikipediaで、「インテリ」を引いてみると、「インテリ」はもはや、死語になり、その代わりに出てきたのが、「ハイソ」で、それも死語になったんで、とりあえず、「セレブ」が関連語としてあるらしい(私としては、インテリゲンチャとハイソ・セレブは別物と思うんだけど)
ついでに言えば、インテリの対義語は「大衆」と言うことであるらしい。

ちょっと前まで、インテリゲンツァは、目指されるべき人であった。単にベンキョーができるというカテゴリーではなかった。大衆がその日々の生業に追われてすることができない学問教養を大衆のかわりに身につけ、大衆に還元する人々であった。それは、奉仕でもあり、名誉でもあった。それぞれの社会にはそれぞれのインテリゲンツァが居り、そのコミュニティの知識源となり、知識バランスをとる役割を担ってきた。「ハイソ」などと違っているのは、インテリが「知識の良心」を体現する役割を自負していたところではなかったか。ただ、正しい知識、新しい知識を教えてくれるだけではないのがインテリゲンツァだ。
「長屋」には、「長屋のインテリ」、「浮世床」には「浮世床のインテリ」が存在したわけだ。

インテリゲンツァが居なくなってしまったのは、教えられるべき大衆がいなくなってしまったからではないか、と思う。「職人」「農民」という自負を持つ対象がいなくなり、「知識の良心」を説くべきインテリゲンツァはその役割を宙吊りにされてしまった。人々は自分がどのカテゴリーの自負を持つのかなど、気にも留めず、この世を泳いでいく。
それはそれでいいことなんだろう。誰もが何にでもなれるし。
ただ、憂うべきは、「知識の良心」が誰にも、どこでも、語られなくなったことである。
「知識」は「知識」としてしか語られないという時代。
「知識」がtoolでしかない時代。
それは、「知識」ある人にとっても、「大衆」にとっても、そうしてインテリゲンツァなど知らない世代にとっても、渡りにくい場所ではないのか。
コメント (16)
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