うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

日本の失われた8年

2005年08月27日 | 語る!
今年度は中学教科書選定の年である。来年度4月から、中学では新しい教科書が採用される。今の教科書を使った6年、1度でも使ったことがある生徒を含めれば、8学年の子どもたちがこの教科書を使ったことになる。これはあくまでも私見であり、ご反論をお持ちの方も少なからずおられるだろうと思うが、わたしがこの8学年の子達が使ってきた教科書に思うことを言わせていただきたい。
この教科書が嫌っているもの、それは「単純作業」である。繰り返し、暗記、暗唱、複雑な数値計算。それらがこの教科書では推奨されない。そのような「作業」は、IT 等(パソコン、電卓、電子手帳などなど)を使って行いましょうという意図がありはしないかと、わたしには思われる。単純な作業は、知的ではなく、それらは、機械に任せればよいのだという考えだ。だから、年号も、計算練習も、スペルの暗記も小数点以下2位の円周率も、教科書からは、「無駄な作業」として削除されてしまった。お利口な子はしなくっていいのだよとお墨付きがついているようなものだ。子どもたちの漢字力、計算力、単語力は低下していった。個性重視、「オンリーワンだぜ俺たちは」的風潮の世の中の流れもそれを助長した。辛気臭い、暗記、暗唱などをする子はいなくなった。一桁ならいざ知らず、二桁以上の計算が暗算されることはなくなった。ちょっとした挨拶はできるが、全て英単語を思いつくまま並べ立てる、「しゃべる」だけの英語。グラマーって何ってやつだ。歴史年表も覚えないので、江戸時代が200年以上続いたことがわからない。スミレがいつの季語かわからない。10分の1と0.12のどちらが大きいのかわからない。というのが、この教育の作り出したものだ。確かにできる子はできる。だって、できる子はどうやったってできるから。義務教育とは、なんだったのか。「単純作業」はそんなにも経済発展、技術発展を遂げたニホンにとって、忌み嫌われなければならないものだったのか。
わたしは、思う、単純な繰り返しの作業の向こうに、論理が見えると。
確かに論理は今の義務教育の中で教えられはする。しかし、それで理解できるのは、どんな風にやってもわかる子達だし、論理として教えられた論理に実感は伴いにくい。
学問の悦楽は、単純作業のという名の山を、険しい山道だけを見つめて登っっていった先に、
突然眺望できる下界の景色だ。
あるとき、「わかる」ということが突然やってくる。
それを知らされないことは子どもにとって不幸だ。
文科省は一体、何を目指していたんだろう。
こうやって、ニホンは大きな8年を失ってしまった。
経済界において失われた10年というのはよく言われることであるが、
この教科書の8年の損失は、もう今この時も日本を直撃しており、この先何年も何十年も、日本に影響を与え続けることだろう。この子たちの損失、この子達が作る社会の損失にどのような責任を誰が取るのだろう。
そうして新しい教科書は一体何を目指して、送られてくるのだろう。
コメント (18)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする