オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

老齢化

2006年09月19日 | Weblog

父親は80歳を優に超えた。

 親が長生きできるということは、自分も親の遺伝子をもらっているので、自分が長生きできる実証にもなると思う。そういう意味でも大いに長生きしてもらいたいものであるが、このところ父親に元気がない。何をやるのも億劫なようで、食べることと寝ることを中心に生活している。散歩でもいいから少しでも運動するよう勧めるけれども一向に行動に移す気配がない。一度脳卒中で半身の自由が利かなくなってから体を動かすことが億劫になったようである。

父は昔は屈強な人で意志力も強く自尊心も高かった。

 だからこそ、今自由にならない体で人前に出ることが堪えられないのかも知れない。体は動かさなければ退化して行き筋力も衰えてしまう。ますます悪循環となり老齢化に拍車をかける。障害があってもそれなりに体を動かす努力をすれば問題はないのであるが、努力をしようという意志が湧いてこないようである。何のために努力するのかというと、目的があって努力する。目的がなくなってしまえば努力する必要はない。ただ生きていることだけが目的であれば人間は機能しているだけでいいが、生き甲斐を持てば何らかの努力が必要であり具体的に行動しなければならない。

人間は動物であり、動物は動く物である。

 生き甲斐を持って何かをやろうとすると「もう年だから」と言う理由で周囲から反対され制止される。確かに若い時のように体力も持続力も思考力も創造性も衰えていてすばらしい成果を出すことはできない。だからといって生き甲斐を「もう年だから」と言う理由だけで奪われたのでは、目的に向かって努力しようとする意志も萎えてしまう。不思議なもので一度意志が萎えて挫折感を覚えると何でもかんでもやる気を喪失してしまう。父親がまさにその状態ではなかろうか。周囲は身体を気遣って大事にしているつもりかも知れないが、やる気の芽を次々に摘んでいるようなものである。最初は本人は毎日が不満だらけであるが、そのうちに不満も日に日に不満でなくなって行き、最後に不満の種も尽きてしまう。そしてやる気の全く失せた時に今度は健康のために運動しなさいと強制される。これは意味のない強制労働のようなものである。

本人は、「まだ若い」と「老化してしまった」の間で葛藤している。

 本人も不安なのである。「まだやれる」と思って始めたことが「年だから」と言われては自信を失ってしまう。そして徹底的に自信を失うのは、本当に老化してしまった現実を自分自身の目で結果に見る時である。「こんなはずではなかった」と自信を喪失してしまう。自尊心が高ければ高いほどその挫折感は強い。より良く生きるためには自尊心は必要であるが、時には自尊心は挫折感を生む。それを笑って済ませることができるくらいの逞しさを身につけていたいものである。挫折感は昔の栄光とのギャップにおいて生じる。老人には老人にふさわしい目的・目標があり老人にふさわしいやり方があり成果がある。それで十分なはずであり周囲もそれ以上の成果を期待すべきではない。だから「もう年だから」という理由は理不尽である。老齢にふさわしいやり方を考え実践し妥当な評価をすべきである。

生き甲斐は何でもいい。

 自分が楽しくて、熱中できて、癒されて、安心できるようなものであれば何でもいいのである。散歩でもいいし、家族との団欒でもいいし、趣味でもいい。その生き甲斐をより良く実現するために努力し行動することになる。生き甲斐がなければ努力し行動することもない。また生き甲斐を高尚なもの(例えば、仕事、家族など)に求めると具体的な努力と行動が不明確になってしまう。何でもない身近な生き甲斐から新たな生き甲斐が発見できると思うし、より高度な生き甲斐へ発展して行くと思う。最初から気負う必要はないし、気負ったところで中身は何もない。自分に忠実なことが一番大切なことである。

例えば、小学校の学芸会で生徒の発表を見る時、

 技術が稚拙だ、芸術性がない、完成度が低い等と批評しても仕方ないし、総評で「くだらない」と結論づけても仕方ない。発表する子供達も「くだらない」と言われたのではやる気を殺いでしまう。少しでもすばらしい発表になるように一生懸命に努力している姿がすばらしいのであり、その努力と成果に対して賞賛の拍手を送るのである。どんなに見るに耐えられなくても、ひどい失敗があっても最後まで見守ってやる暖かい度量が必要である。見る側は発表する側と心をひとつにしてハラハラしながら見つめ、やっと成功したささやかな成果であっても惜しみない拍手を送るのである。そのような温かい思いやりがなければ学芸会は悲惨な結果になってしまう。

ある人の生き甲斐を潰そうとするのは簡単である。

 その人の成果を全否定すればいいのである。何をやっても成果を認められなければ生き甲斐を諦めざるを得ない。それでも生き甲斐を追求する人は、新たな新天地を開拓して成果を認めてくれる人を見つけ出さなければならない。いかに生き甲斐というものが繊細で華奢であるかが判るし、築き上げるのは難しいが、ぶち壊すのはいとも簡単なようである。そんなことを考えると「褒める」ということが人を活かす上でいかに大切なことかが判ってくる。人の成果を素直に賞賛することは大切なことだが難しいことでもある。その人の器量と心の余裕がないとできない。いつまで経っても人を褒めることができ、人を活かし育てられるような人間でいたいものである。

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