オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

「無い事」を証明するのは難しい。

2006年05月24日 | Weblog

「在る事」は、その対象物に焦点をあてて証明することは可能である。

 しかし、無い事を証明するには、全ての領域で無い事を確認するか、対象物が存在した証拠がないことを証明しなければならない。これは無理な話であるし、際限なく無限の領域に及び最終的には発散してしまう。最初から無い物はこの世に何の痕跡も残さないが、その無い物がどんな痕跡を残すのかも定かでないし、実世界で起こっている全ての現象が「無いはずの物」と関係が無いと断定できるはずがない。そんな得体の知れないものを「無かった」と証明するのは神様でも不可能である。ところが人間社会では時々「無い事」を証明せよと主張する人達がいる。「在る事」を証明するのでも困難を強いられるのにである。

「アリバイ」という言葉がある。

 ラテン語で「他の所」という意味で、「私はその時他の所に居たのでその件には関係ありません」という事件現場に存在しない事を証明することである。日本ではあまり使われないが、言い訳するときの「私には関係ありません」と言う口実も「アリバイ」という言葉を使う。「アリバイ」が証明されないと疑われるが、証明されないと即犯人だと言うのは確実に間違いである。ただ証明できなかっただけで、たとえ証明できた人達が居たとしてもその証明が正しいとは断定できないのが事実である。「アリバイ」は一つの手法ではあるが、間接的であり直接的でないところに弱点があり、あくまで二次的な手段に過ぎない。最も効率的な手法は直接的に事件に関係する「在る事」を証明してゆくことである。

欠陥品を販売して、販売した人が欠陥品と知っていたか知らなかったかが議論の焦点となる。

 私に言わせれば、知っていようと知るまいと欠陥品を販売した事実に間違いはないし、販売した人は欠陥品であったことによる損害は補償してもらわなければならない。「知らなかった」と言い訳をして許されるはずもないし、知らないで欠陥品を販売した罪は免れない。悪意であろうと悪意でなかろうと結果として発生した損害には責任を持って対処してもらわなければならない。それを「知らなかった」で済ませるのは責任逃れであるし、責任を転嫁するつもりなら損害を補償した後、欠陥品を納入した業者にその損害賠償を訴えればいいのである。それは販売業者と納入業者がやることであって消費者には関係ない。欠陥品と知っていたか知らなかったは、この時に必要なことであるが、それは意識や記憶の話ではなくて相互に取り交わした契約書によらなければならないと思う。

よくマスコミで、「知っていたか知らなかったか」「故意(悪意)かそうでないか」などが問われるが、

 ここに焦点をあわせるのは無理があるしおかしいと思う。まずはこの証明が難しいことと、証明できたとして、知っていなければ、故意でなければ許されると言う誤解を生む。前にも言ったが、知っていようと知るまいと、故意であろうとなかろうと、やったことの責任はきっちり取ってもらわなければならないし、やったことへの賠償責任はいかなる理由があろうと免れるものではない。賄賂についても同じである。知っていようと知るまいと、故意であろうとなかろうと、結果として賄賂を受け取っていれば犯罪なのであり、その賄賂によって不法な便宜を図った事実があればこれは確信犯である。不正な意図があったかなかったかではなく、職務に関する不法な金銭授受があったかなかったかを問題にしなければならない。

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