オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

仏の顔も三度まで

2007年04月29日 | Weblog

「仏の顔も三度まで」「三度目の正直」と言う言葉がある。

 良い事をするにしても、悪い事をするにしても三度目が重要であるらしい。ただし、三度目までが許されるのは善悪の判定がはっきりできないことではないか。一度目二度目で善悪の判断が簡単につくものは三度目まで到達する必要はないだろう。どんなものでも三度まで許されると思うのも間違いであるようだ。そして、良いことは何度やっても誰も非難することはないし、かえって無制限に何度でもやってもらいたいものであり、最初から悪いこととはっきりしているものは最初から許されないであろう。三度まで許されるのは、善悪の判断がつきかねないものであるらしい。

善悪の判断がつかないとは、善悪の要素が半々であることだろう。

 一度目に失敗して結果的に悪い成果が出たら、悪いであろう確率が50%以上と言うことになる。二度目も失敗したら確率75%(四分の三)以上で悪いことになる。三度目も失敗したら87.5%(八分の七)以上で悪いことになる。それ以外は少なくとも一回以上は成功していることになる。当然ながら一度目が失敗で二度目が成功すれば振り出しに戻ることになる。一度目で成功すれば許すも許さないもない。ただし、初めての挑戦で失敗した人と、過去に数多く成功している人が失敗したのとではその評価は大きく異なる。「仏の顔も三度まで」「三度目の正直」というのは、どうやら初めての挑戦で失敗した人に対して当てはまる言葉ではないかと思う。

それにしても、三度も許すと言うのは随分と寛容でなければできないようだ。

 87.5%悪いと思っていても、残りの12.5%の良い確率を信じてもう一度許そうと言うのである。普通の人にはできない。仏様にしかできないのであろうか。それでも、仏様の器量の大きさを目指して、我々凡人も少なくても三度までは無理してでも許す心を持たなければならないのではなかろうか。世の中を見渡して見ると、一度目もしくは二度目でさっさと判断を下して、まだ残っている不確定な確率を見捨ててしまって結論を出してしまっている場面をよく見る。初めての挑戦をしている人にとっては、まだ可能性があるのにこれを追求する道をさっさと断たれてしまっていることになる。これは初めての挑戦をする人にとっては不利であり、挑戦する意欲を殺いでしまうことにならないであろうか。

過去に累々とした良好な成果を収めてきたものが二度や三度失敗しても許される。

 これは、過去の成果から許されるものであるが、それでも何度も失敗が続くようであれば考え直さなければならない。今の政治にまつわる不祥事がこれに当たる。我々は政治に対して過去の累々たる良好な成果を認め、これに全幅の信頼を置いている。政治は国民の信頼から出発している。その政治が過去の歴史を見てみると二度三度と言わず、同じような失敗を何度も繰り返している。それでも国民は政治そのものに善悪の判断をつけかねている。これは一体何なのであろう。政治に関しては国民は仏様以上の寛容さを持っているのであろうか。いやこれは寛容と言うのでなく、あきらめと放棄と無関心と言ったほうが適切なようである。

「仏の顔も三度まで」とか「三度目の正直」といっても、

 許す側と許される側の関係は通常上下の関係になる。国と国民の関係は日本の場合、お上と平民の関係になっているので、国が悪い事を繰り返しても国民としては打つ手立てがないし、国も悪い事を繰り返しても平然として反省することも改善することもしないで済ましている。国にとっては許してもらう必要などさらさらないのである。なぜかと言うと、ぼんやりとした概念で国を捉えているため、許される側としての個人を特定することをしないからだろうと思う。個人の責任ではなく組織の役職の責任にしてしまっており、最後は組織全体の責任となって許されるべき主体が有耶無耶になってしまう。

いくら怠け者で物覚えが悪くても過去の三度くらいの行為は覚えておこう。

 当然ながら、失敗した場合は一度目と二度目と三度目でその評価は変わってくる。そのくらいの過去の経緯は評価して把握しておかないと、常に毎回御破算になって何にも積み上がっていかないのではないか、ただ堂々巡りを繰り返しているだけではないかと思えてしまう。「仏の顔も三度まで」と言うからには、三度までは仏様になったつもりで客観的にしっかり評価する必要がある。前の評価を御破算にしてしまったのでは、良くても悪くても常に許さざるを得なくなる。これは寛容であるのでなく、無知と怠慢と無関心以外のなにものでもない。

反対に、一度の失敗で全部が悪いと評価してしまう人達がいる。

 この人達も、三度目まで根気よく見守って評価してやろうとする労力を惜しんでいることになる。目の前の一度の結果だけで全てを判断したほうが楽であるし、二度、三度と観察しその都度評価する手間が省ける。教育現場での様々な評価方法を見てみると、まさにその通りだと思えてくる。評価される側は、この評価に甘んじるか、評価が気に入らなければこれを無視するしかない。いずれも精神衛生上健康的とはいえない。評価する側は何もそこまで決定的な全人格的な評価を下す必要はないと思うし、評価された側もそれほどその評価を気にすることはないと思う。要は実力であり、評価された後であっても実力を養成する機会はたくさんあり、評価を上げることは可能である。

「仏の顔も三度まで」「三度目の正直」という言葉は正しく理解し正しく使おう。

 一度失敗すると統計上は次の成功の確率は50%以下になる。それでも二度目に挑戦しようとするのには勇気がいる。二度目も失敗すると次の成功の確率は25%以下になる。それでも三度目に挑戦しようとするのにはもっと勇気がいる。いや勇気だけでなく、挑戦するだけの価値が十分にあり、成功する確率が非常に困難で希少価値のあるものへの挑戦でなければ三度も挑戦できない。また、漫然と三度の挑戦を試みるのでなく、一度目よりも二度目、二度目よりも三度目と、より完成度に近いものへ改良されてゆかなければならない。この懸命の努力の過程がなければ三度の挑戦もあまり意味がない。

挑戦する者を観察している我々は、

 少なくとも三度目までの挑戦は許さなければならない。そしてその挑戦の内容をつぶさに観察して評価してやらなければならない。もし評価が高く、挑戦するだけの価値を認めれば三度と言わず四度目、五度目にも挑戦させてもいいと思う。失敗は多くの教訓を生み、失敗をばねにして成功を生むのである。挑戦する側は失敗を恐れてはならないし、挑戦させる側は失敗を寛容な気持ちで見守ってやらなければならないと思う。そして最も重要なことは挑戦している人をしっかりと見守り、応援し、観察し、成果を認めてやることだと思う。

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