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うどんのこと香川のこと

開店後、ほぼ週1ペースの更新になってます。
しばらく、主なテーマに信号番号の設置を加えようと思います。

信号番号の効果

2006-11-03 15:31:11 | Weblog
先日、ラジオでお店の場所を説明していて、丸亀市風袋(ふるたい)町の何とかという店の場所を説明してましたが、このときに信号に番号が振ってあったらすごくわかりやすいと思いました。
県道33号の信号交差点を最後まで正しくいければ、間違いなく、近所の人が知っているところまで行けるでしょう。
ラジオでは、よほど注意して関心をもって聴かないと、ごちゃごちゃした説明はわからないと思います。

「高松から県道33号の土器川大橋をわたって、○×町の○○の角をどうしてこうして」より、「高松から県道33号の西向き○△番(「→W○△」)を右に曲がって」だと番号だけ注意していれば、ぼんやり聞いて西向きとかさえ聞こえてなくても行けるでしょう。

わざわざテレビやラジオに出て、お店の宣伝を商売のためにかなりのお金を出してするのに、聴いてわかってもらえるかどうかの意味は、お店の側にとっても、番組制作側にとっても大きいでしょう。

効果をとりあえず整理せずに並べてみると
①香川県が有名になる。
(県は知名度アップ作戦にかなりお金や人手をかけている。知名度が高いと県民が誇りやアイデンティティーを感じるし、企業誘致などにも有利とかいろいろあるかも)

②迷うことによるガソリンのロス、環境への害、わき見などによる交通事故や渋滞を招く運転が減る。

③広告がテレビ・ラジオ、ネット、紙面などあらゆるメディアでわかりやすくできる機会が少なくない。
うどん巡りもたいへんしやすくなるので、迷って3つしか行けなかった人が4つ行けるようになるかもしれません。

④度量衡や緯度・軽度など全体をくくる基準があれば、全体が把握しやすい。
三野・高瀬・豊中・観音寺・大野原・豊浜と国道11号を行くときの順番はわかりにくいけど、県全体に一本軸が11号に通っていれば、西向き160番ぐらいは丸亀のへんとか、80番は松島町のへんとかどんどん把握できるようになり、ゆめタウンとか多く行くところを基準にして、あそこが110番ぐらいだから、120番はあれから数キロだなあとか慣れればどんどん感覚がでてきます。
だいたい、郊外の幹線道路で車両用信号は点滅込みで600mぐらいの間隔が多く、街中では200、300mに詰んでいるところも多いので、11号で500m弱平均になると思う。
ほとんどの幹線道路は同程度だけど、国道377号なんかは1kmぐらい開いてるところが多い。
国道11号の信号番号は、経度のような意味を県民に与えて、県土の把握を楽なものにするでしょう。
いくつかなじみのポイントがあれば、飛躍的に地理勘が増します。

仕入れ業者や宅配業務など初めてのところに行く人やタクシー運転手なんかにはすごく役立っていくでしょうし、児童・生徒が車窓からの景色に関心を示すなど2次的な効果も期待できると思います。

美容やマッサージができる人が在宅で仕事をするのに、場所がわかりやすくなって自宅を仕事場にしやすくなれば、少子化にも意味を持つかもしれません。


観光、環境、交通の円滑、広告効果・宅配業務などの効率アップ、知名度アップ、テレワークの容易化による少子化対策、郷土教育、サイクリングのコース設定の容易化など、あらゆる場面で効果が期待できるでしょう。

また、行政などがタイアップを求めなくても、便利だと思えば、ゼンリンやナビの会社が向こうから表示するようになるでしょう。

さて、いろいろ信号番号は表示方法などに整合性がとりにくいところはあるのですが、効果の大きさ・人々の生活にどれだけ役に立つかから考えて、難が出にくいように知恵を出していく必要があると思っています。
JRのダイヤを組んだり、プロ野球のスケジュールを組むような頭脳があれば、何とかなりそうに思います。

あと、アルミパネルじゃなくても、強度の高い樹脂板でもいけるんでないかとの意見も昨日聞きました。

未履修と英語必修化の問題は同根?

2006-11-03 14:53:04 | Weblog
英語必修化の問題。
生活に必要がなく、活用の機会も乏しいのに受験のウエイトがやたら大きい。
直接、仕事で英語が必要になる人ってほんとに少ないと思います。
でも、それだったら普通科高校でやったことで仕事や生活に直接役立つものなんかほとんど何もないでしょう。
生活や仕事に直接役立つということと勉強の意味ってたぶん関係がなくて良いのだと思います。

未履修問題と英語必修化問題は同根のとこが大きく、受験制度と勉強の意味と親や生徒の意識・欲求、社会制度のひずみなど論点が多いと思います。

世界史や英語をやるなら、外国人に日本の文化や歴史を語れるようになるべきだとかいう人がいますが、そんな機会は実際にほとんどの人に一生おとずれないでしょう。大学受験の機会は多くの人におとずれるのに。

大学受験で英語のウェイトが大きいのは正しいのか正しくないのか?
ここどうなんでしょう?

現実の問題や欲求とかけ離れて教育制度をいじったり、真の勉強の意味をうんぬんしてうまくいくはずがないと思います。

うどんジムは英語の勉強をしなかったらうどん店を開けなかったと自分では思ってますが、ほかの多くの方には当てはまらないと思います。
どう関係があるのかといわれても、納得はしないと思いますが、外国の文化や制度を勉強してみてはじめて、この地域の特色であるうどんというものに漬かってみる生き方はあるなあという感覚ができたと思います。

うどんジムは、普通科高校に進学したけど、大学進学する関心がなく、生活の役に立たない勉強なんかしてもしょうがない。英語なんか日本人のわたしが勉強してもしょうがないと思って、はやく地元の小さな会社に就職して、趣味を大事に生きていこうとか思ってました。

いちおう大学には行きましたが、そんな考えが大間違いだったと気づくのに10年はかかりました。
学校で勉強したことに、役に立たないことなんかほんとうはないんだと今では思ってます。

うどんジムが英語の勉強を始めたのは、高校卒業して10年ぐらい経ったころ、知人がTOEICや英検を受けていて、ちょうどその頃、家族が海外留学などしたので、暇つぶしで受け始めただけで、ほんとは、「英語なんかあほらしい。」と思っていやいややりました。
しかし、それはその後、うどんジムの考え方の中心と深く関わるようになり続けました。

早くからやっていれば、世間的な評価でいえば、いい人生を楽に進めたような気がします。
世間的な評価で楽にいい人生を進むのに一番正しい方法の一つは、今の世の中では英語の勉強を早くからすることではないでしょうか?
世間から離れて考える人には関係ないことかもしれませんが、学童・生徒の時代にはそういうことはわからないと思います。
個々人のことはともかく、政策的なことは一般論からかけ離れてはまずいと思います。

世界史なんかも、「世の中の人は何を求めて、何で困っているんだろう?」とか考えるのに広がりや深みを与えて、ニーズを探るなど商売に役立つと思ってますが、思わない人も多いと思います。

ピッチャーは利き腕だけを鍛えたらいいのでしょうか?
うどんジムは高校のとき、それに近い考えをしたことをアホだったと思ってます。