tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

書評:橋川文三 『昭和維新試論』 

2006年01月17日 23時54分20秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
(書誌データ:朝日新聞社 1984年 現在版元品切れ)

著者は、1983年11月に死去し、この本が事実上の最終出版物になった。しかし、この本に収録された内容は、この本が上梓される10年も前のある雑誌での連載が中心となっていて、しかも、それだけの時間を置きながら、各項目のタイトルの大部分は、著者の死去に伴いつけることができず、出版元が過去の著作から想定されるタイトルをつけたそうだ。そもそも、雑誌掲載の当時から、とにかく簡単に資料を集めて(本腰ではない)書いたとかで、文章は読みにくくはないが、内容的に少し荒削りの部分があって、本当に資料として採用できるかどうかと言うところである。

さて、昭和維新とは何か。これの対照内容として、教科書でも習う明治維新が挙げられるし、そのほうが多くの人にも馴染み深いだろう。しかし、昭和維新の思想は、太平洋戦争を行った軍部の思想への直結した部分が存在する思想である。

かつて、マルクスはヘーゲルの言葉を借りて、「歴史上の偉大なる事件は二度起こる。一度目は偉大なる悲劇として、二度目はみじめな笑劇として」言った。しかし、この言葉を安易に用いて説明するには、あまりにも言葉の方が貧素であるという事件が起きている。明治維新と昭和維新の間にもこのことは言える。

少なくとも、明治維新による民間人の死亡者は、太平洋戦争のそれよりもはるかに少なかったはずである。だとすると、二度目の維新は、多くの犠牲が払われたから、歴史的に見てはるかに「おろかな」行為をもたらしたのだが、その底流には、政治的指導者の思想よりも、市井の人々の見方や考え方が多く流れていたのが、タチの悪い部分である。

言い直せば、明治維新の原動力には、下級とはいえ、特権階級の武士が多く含まれていた。むしろこういった人しかないのだが、昭和維新は特権階級(もうすでにそのような身分の区分が存在しないという前提での)の政治運動ではないという地点からスタートしている。これはこれで面白いのだが、この本を読んでいると、その四民平等の状況で、どんな人間の「政治運動=ファシズムへの源流」が重要な問題となる。言い直せば、橋川がどんな社会的立場の人間の行動を研究の対象として採用しているかが問題となるのである。

まず作者の経歴について書こう。橋川文三は1922年長崎県で生まれた。胸部の疾患により徴兵を免除され、1945年東京大学法学部を卒業。戦後の混乱により、学者養成コースである大学院進学を行わず、編集者の道を歩む。その傍らで、丸山真男が行う研究会に参加。1957年から59年にかけて雑誌に発表した『日本浪漫派批判序説』で自己の文学体験が戦争や右翼的思想の土壌となっていた事の事実を丹念に調べ上げた。発表当時からその論文が高く評価され、61年に明治大学専任講師となり、後に政治経済学部教授まで昇格する。丸山とは全く違った視点での日本ファシズム論は評価が非常に高い。指導学生の中からは、猪瀬直樹を輩出している。先にも書いたとおり、1983年に死去した。

完全な学者畑を歩いた丸山とは少し違う人生を歩んでいるが、実際のところ、旧制高校から帝国大学へ進学した事から、エリートコースを歩んだ人物である事は事実だ。さて彼は、日本ファシズムの源流の一つとして、本書では渥美勝という人物を分析している。渥美もまた、旧制高校から京都帝国大学へ進学した人物であるが、後に大学を中退。中学校教師、鉄工所作業員、土工、人力車夫、映画館の中売、夜回り、下足番などの職を転々とし、最後にはいわばホームレスに近い生活を送っていた。しかし、この人物は、大正のはじめから街頭演説で「親政維新」の概念で持って、維新の概念を用いた社会改革を訴え始めた。その活動の最中に北一輝(二.二六事件の責任を問われ処刑された思想家)や大川周明(東京裁判で東条英機の頭をたたいたあの人)などの知古を得たが、極端な革命思想を持った訳でもなく、また後に起こる昭和維新への参加も出来なかった(年齢のため)から、後に事件を起こした北や大川の思想を用意しただけの人物であったという事が出来る。

しかし、橋川の分析指針は、草の根的社会改革運動が日本ファシズムという極端な軍事国家の建設をもたらしたということであり、これが彼の研究の最大の特色であるのだが、それは同時に最大の弱点を持っているともいえる。何よりも、草の根的な行動を行っている人間の属性がどこにあるのかという事である。そう考えると、渥美はドロップアウトしたといえ、その出自は完全にエリートのそれであった。市井のどこにでもいる人間とはやはり異なるのである。

ただ、こうした人物を分析の対象に選ぶこと自体、橋川自身もまたエリートコースを歩んできたことの証である。そしてまた橋川はこの事に対して、自覚的であったとは思えないのである。

そしてもっと問題なのは、丸山のファシズム分析の中核が誰も責任を取らないところで行われたあの「戦争」であったのに対し(「超国家主義の論理と心理」)、橋川の分析は草の根的社会改革運動の一つの結束点がファシズムという考え方であるから、その責任は軍部や天皇に押し付けるのではなく、国民のすべてに押し付けられるのである。勿論私自身これに対しては、何の異存もない。ただ、問題なのは、その草の根的思想の源流に置かれた人物の選択が、実は本当に草の根的とも言える人物であったのかという疑問の方なのだ。

良く書かれた本だが、前にも書いたように少し荒削りなのが残念であり、作者が故人である事がもっと残念な事でもある。ただ、もう少し時間をかけてこの橋川の著作については読んでみたいし、それについてもまた報告が出来るだろう。

Nikonが一眼レフフィルムカメラの生産を終了

2006年01月15日 23時58分11秒 | ニュース
おとつい13日の朝日新聞に掲載。

とはいっても、私はNikonのカメラを持っていないが。それでもフィルムカメラの技術の終焉に立ち会うのは、あまり気持ちのいい事ではない。しかもいま、デジカメの販売も頭打ちになってきている。かくいう私も、ここで使う写真は富士フィルムのFinePix601を用いる。暗い場所できれいに撮るにはすごく技術がいるが、逆に明るい場所では、非常にきれいに撮れる。

バブルが崩壊する寸前の1990年、父が一眼レフカメラの購入を考えた。それまで、小型のカメラを使っていたから、なかなか大型の企画となった。私の小学生時代は、父は会社の同僚から、大型のマニュアルカメラを借りていた。勿論望遠レンズ付きで借りて、さして運動神経の良くない息子の運動会の写真を遠くから撮っていた。

話は変わって、近所に住む一学年下の友人の家にパーティーかなんかで、両親と夜訪れたとき、8ミリカメラで撮った映像を上映して見せてもらったことがある。大型のカメラも、8ミリの撮影用カメラも、一般の家庭の機材として購入するには高価だった時代の話だ。父達も若かったから、それほど多くの給料をもらっていない。みんな苦労して、こうした記録用の機材を購入したり、借りたりするという苦労が、私の子どもの頃には存在した。

だから、本格的な一眼レフオートフォーカスのカメラを購入すると言い出した時は、少し驚いた。

当時、父はCanonのAFを念頭に置いていた。それに対して私は一時期Nikonを押していた。というのも月刊Gunで当時、アメリカのシューティングマッチのレポートをしていた上坂光さんが、Nikonを愛用しており、折しもNikonのF801を用いて、8000分の一秒の世界を捉えて、レポートとして載せていたからだ。いわゆる瞬間を捉えるカメラとしては非常に有名だった。少し年をとられた方ならば、当時、Nikonはこのカメラの宣伝に、ブーメランの選手を起用し、彼の頭にリンゴを載せ、彼自身がブーメランを投げ、その反転して帰ってきたブーメランが、頭の上のリンゴを砕く。その瞬間を写真で(F801を利用して)撮るように見せたCMをご記憶の方もいるかも知れない。

残念ながら、Nikonのこのカメラは、購入対象からはずれ、父が買ったカメラはCanon EOS630であった。しかし、この選択は間違いではなかった。というのも、当時Niconのオートフォーカスの技術はそれほど高いものではなく、Canonのそれに遥かに劣るものであった。したがって、一瞬でピントをあわすAFの性能が高くないという事は、貴重なシャッターチャンスを逃す可能性が高く、だったらまだマニュアルで使う方が良いという人間も多かった。実は、このNikonのカメラが持つ短所は、上坂氏も指摘していた事でもあった。

そんななか、このEOSは確実にピントを合わす事に長けていた。Nikonを持つ中学時代からの友人も、この早さには驚いていた。

ただ、だからNikonの一眼レフAFが悪いという訳ではなかった。カメラとは単に止まった状態でその場の風景なりを映すものではない。実は、その場の空気すらも撮ることが可能になる道具でもある。NikonのFシリーズから生み出される写真は、青色で非常に冴えた写真を生み出す。従って、金属や冷たい空気を持つ写真を撮る事が可能になる。例えば、友人の三樹君は大学時代から、ヨーロッパに足しげく通っては、写真を撮り、その写真を毎年年賀状にして送ってくれるが、その写真は非常に澄み切った冷めた空気を切り取って、清明な印象を与える。彼のカメラも、NikonのFシリーズである。

それに比較して、CanonのEOSシリーズは、赤色の発色が非常に美しい。暖色系に強いとも言える。しかし、その分非常に空気的にぬるくなるような雰囲気を与える危険性も指摘しておかなければならない。

こうした発色の差が生まれるのは、写真という印刷物を念頭に置きながら、色彩再現のどこに重点をおくかという、メーカそれぞれのイデオロギーの発現でもある。また多くの人が知っている事だが、実際の色の多様性に対して、印刷物の色再現域は非常に狭いものでもある。最近でこそ、AdobeRGBというカラーデバイスを利用して、こうしたモニターの色再現と、印刷の再現域を近づける工夫がなされている。

100年前、ドイツの哲学者ヴォルター・ベンヤミンは、こうした写真という複製技術に、オリジナルが持つアウラ(さしあたり英語で言うところの「オーラ」と考えてもらえば良い)をもたないものとして指摘していた。しかし、あれから一世紀もたち、写真という再現物は確実に人々の心に訴えかけるだけの実力を持つにいたった。それは各メーカや、それぞれの持つカメラの固有の性格や技術の発展の成果でもあるのだ。

結婚指輪のゆくえ

2006年01月14日 23時01分37秒 | Weblog
大した事でもないが、いつの頃か女性を見るときに手を見るようになった。左手のクスリ指に指輪があるどうかを確認するためだ。しかし、この判定もあまり意味ない事は、だいぶんと前から知っていた。まあ、法的に定められている事ではないからね。

大学院に在籍した当時、所属大学での授業がどうも息苦しくて、単位互換制度を利用して、兵庫県西宮方面の大学へ週一回授業を受けにいっていた時期がある。所属大学の持つ雰囲気が結構好きだったが、その大学もまた四季の移り変わりを通じて美しい大学だった。結構有名どころの大学である。

さて、受けていた授業に、社会人入学をした国文関係の大学院生がいた。ご存知のかどうか、学部でもらった教職免許は一種免許で、さらに大学院を出ると専修免許というのがもらえる。勿論、所定の単位を取ったら・・・という話だが。地理学専修の人も受けにきていたが、こちらはそれが目的だった。しかし国文学の人は自由科目で受けにきていた。彼は当時、毎日放送のラジオ局のディレクターをしていた。

結構仲が良く、必ずと言っても良いほど、お昼はみんなでまとまって食べにいっていた。その時の事、相手が結婚しているかどうかは、当初どのように判断するか?という話題が出た。

私は「(結婚)指輪しているか?」答えたが、国文科の人は、「私は、結婚して一年くらいで外したよ。」と言っていた。離婚はしていない。確かに四六時中つけるのも面倒だ。うちの父も早い時期に外した。ああいう細かいものをなくす事が多い人だから、外すのは正解かも知れない。

ところで、今勤めている会社では、男性が律儀にはめているのに対して、女性がつけている事が多いように思えた。とはいえ、既婚者が少ないから、大した母集団をもったデータではないが。

そこで隣の席のヨシダさん(仮名)にインタビュー(笑)。ちなみに彼女は、ブルガリアで仕事をしていた時期に知り合ったブルガリア人のパートナーがいて、保育園と今年小学校に上がる子どもさんがいる。保育園から時々「熱が出ました」という連絡を受けて、ため息付きながら早退する普通の主婦である。たった一つ違うのは、「ダーリンは外国人」であること。

私「ヨシダさんは結婚指輪をつけないの?」
ヨシダさん「つけてるよ。これ。」

そういって、右手の中指の大きな金の指輪を見せる。

私「えっ?、あれって左手の薬指じゃないの」
ヨシダさん「うん、作ったときに、太る事を見越して、大きめに作ったけど、結構ブカブカ。少し太めの右手の中指がちょうどいいくらい。ずっとはめているよ。」
私「・・・・・・。」
ヨシダさん「でもね、これ主人の両親が持っていたものを溶かして作ってくれたの。」

彼女がはめているのは、結婚指輪というには少し大層なデザインのおおきな金の指輪だ。でも、代々受け継いできた金で作った指輪だ。一つの財産であり、いずれまた彼女の子ども達の未来の配偶者が受け継ぐ財産でもあるのだろう。

とりあえず元気です

2006年01月11日 00時49分17秒 | Weblog
月曜日は休日でしたが、家で「冬休みの宿題」と称した仕事を片付けていました。
今日、と言うか昨日の帰りも、12時回っていました。印刷、編集、デザイン関係の方のこの時期の仕事は、みなさんこんな忙しさですよね・・・・。でもSEの方は年から年中忙しいと聞きますから、まだましかもしれない。

近寄れなかった場所に近づく

2006年01月04日 23時24分00秒 | Weblog
人には「もう絶対行きたくない」と言う場所がある。ある意味トラウマになっている場所だ。tyokutakaの場合、もともと勤務していた本屋だ。ほんとーに、あまりいい思い出がない。そこへ今日近づいた。と言っても、ショッピングセンターの中のテナントとして入っているから、遠目に店の外から、中をうかがうことが出来る。

運転用の眼鏡に変えて、レジ周辺などを見渡す。これじゃ万引きなどを行う不審者同様だが、怪しまれないようにする(笑)

少し見ていてわかったけど、どうも、店員の数が非常に少ない。それ以上に、がらりと人の入れ替えが行われたらしい。こりゃいい、誰とも出くわさずにすむし、ケロッとしていられる。

でも・・・
どうしてこんなに引け目に感じるのだろう。今はしっかりとした仕事を持っていて、稼ぎや待遇なども当時よりすっといい。何よりも希望していた内容の仕事に近いしね。「ずっといいぜ!!!」と言うことは、虚勢でもなく出来ることだ。

ほとんどの人は(私もそうだが)、もと居た職場に近づくなんてことはしないだろうと思う、円満退職でもなければ、なおさらだ。

退職した当初は、近づくのが非常に怖かった。今ではそうでもない。恐怖心は最終的に克服されるのだろうな。

特別展「東大寺公慶上人」

2006年01月04日 00時23分23秒 | 都市論
奈良国立博物館で開催。副題は「江戸時代の大仏復興と奈良」)

家で取っている新聞の販売所は時々、美術展のチケットをくれる。今回は、奈良国立博物館のチケットをもらった。

この奈良国立博物館は全国にある4箇所の国立博物館(東京・京都・奈良・九州)の一つであり、かつては奈良帝室博物館と称した。この博物館の年間行事で最もメインなのは11月の上旬に行われる、奈良時代から伝わる東大寺正倉の宝物展示である、「正倉院展」だが。それ以外にも年間を通じて何回か展示を行う。

ちなみに、文豪、森鴎外は亡くなるまでの5年間、こうした国立博物館の総監になっていた。毎年正倉院展の時期になると、奈良へ視察に訪れたのだが、その時期に子ども達に送った手紙が残っている。その一部を書くと、

奈良の郵便局は、とてものろい。東京の手紙は、三日午後三時発のが、四日の昼時に来る。それに、奈良から毎日出しているのに、一日のも届いていないらしい。大阪へ書物の事を尋ねたが、中二日おいて返事が来ない。電車で一時間で行くところじゃないか。この手紙なども、おれが帰ってから後に着くかも知れない。
(小堀鴎一郎、横光桃子編『鴎外の遺産』幻戯書房 2005)

奈良の郵便に、鴎外先生、大変ご立腹である。現代ならブログを御勧めするところだが・・・。

さて、東大寺大仏殿は戦火で二度消失している。早い話が、大仏さんは二回火あぶりになったのだ。一回目は平安時代の末期、平清盛の息子に当たる平重盛が焼き討ちを行い消失。後に鎌倉時代になって、重源上人が再興した。そのときに大仏様(だいぶつよう)と呼ばれる建築様式の南大門が作られ、東大寺再興と同じく文化史でも名前が出てくる。勿論高等学校の日本史にもしっかり出ているが、二回目はどのように消失したのかと言うと、奈良の人間でも詳しく知る者が少ない。二回目は戦国時代である。この周辺を統治していた三好衆は、配下の松永久秀に攻め込まれる状況にあって、東大寺大仏殿に陣取る事になった。1567年、この松永の夜討ちに遭い消失。大仏も頭部が溶け落ちた。その後、時の権力者の援助も受けながら、両手・肩と銅板貼りの頭部で修復されるが、板つけの『仮』大仏殿は、強風で吹き飛ばされるほどであり、百年以上、大仏は鎌倉のそれと同じく雨ざらしの状態であった。

大仏と大仏殿の修復は、江戸時代、それも徳川綱吉の治世であった。その再興の中心人物が、今回の特別展の主役である公慶上人(こうけいしょうにん)である。公慶は12歳のときに東大寺に入り、雨ざらしの大仏をみて、再興を志したといわれる。

公慶は修業熱心であり、寒さ厳しい二月の「お水取り」の中心である連行衆も18年間勤め、教学にも精通した学僧であった。その知識は徳川綱吉にも進講したほどである。これにより、幕府に近づく事が出来、大仏殿再興のための寄進を募る「勧進(かんじん)」の許可も得たといわれるが、それでもかなりの困難を伴った。

最終的に大仏殿の再建まではこぎ付けたが、その規模は天平の頃と比べるとかなり小さなものになった。しかも、大仏復興を見た1705年に全国行脚の過労から死去。その死から4年がたってようやく大仏殿が再建された。ちなみに昨年が没後300年であり、それを偲ぶ形での展示である。

また公慶は今日、我々が見るような観光地としての奈良町の基礎を作った。
本展覧会は、1大仏殿炎上、2公慶上人、3江戸時代の奈良の三部構成になっていたが、1と2を主体とした内容で、3が少し少なかったの残念である。ただし、大仏殿の炎上から再建までの内容が非常に充実していた事が特筆に値する。

いつもニコニコ

2006年01月04日 00時06分06秒 | Weblog
鏡餅の上に置いてある干し柿の数は、10個である。
そのいわれは、
「いつもニコニコ、仲睦まじく」
くしの端にある干し柿は、左右それぞれで2個ずつ。合計で4個。その間(中)にある数は、6個(六つ)。足して10個だ。

昔からある語呂合わせではなさそうだが、なかなか考えてある。

戦後思想(1945-90くらいまで)の「本質」とは何であったのか

2006年01月03日 01時21分38秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
昨年の終わりくらいから、丸山真男の「超国家主義の論理と心理」(『現代政治の思想と構造』未来社 1964)を読んだ。体裁は、一つの論文でA5サイズの紙に18ページくらいの量である。日本ファシズムの研究としては非常に重要な論文であり、その文体もけっしてややこしいというものではないが、読み流すと論旨がつかめない恐れがあり、実際ここのところで手こずって、4回くらい読み直すハメになった。このくらい読んでも、本当に論旨を正確に把握しているように思えず、いつもの書評ではこのくらいでも、軽く流して書くのだが、今回はそれが出来なかった。

なんで今頃こんな本論文を読まなければならないかと言うと、戦後の思想空間におけるテーマの大半を占めていたのは「なぜあんな戦争が起こったのか」という疑問と、「資本主義にはアイソ付かしたからマルクス主義」の二本柱だった。その前者である「戦争=ファシズム」の研究がその後のナショナリズム研究の流れへつながるのだが、このファシズムの研究の原点とも言えるのが、丸山真男の研究の一角である。そして同時に彼の弟子筋、いわば「丸山シューレ」と言われる人々へ継承されるのだが、今日、本当の意味で、彼の「弟子筋」と言われる人で優秀な研究を行った(現在完了である、この弟子達の大部分も既に鬼籍に入った人が多い)人は、丸山とは異なったアプローチをかけている事が多い。本当はこの弟子達の研究の方が魅力的だが、その前に予習的な意味合いで、この師匠の研究も見ておこうと考えた事に始まった。

先の「丸山シューレ」は完全に大学のゼミのようなスタイルだったようだが、同時期、「個人個人で行っていた研究」スタイルを超えて、多くの人と一つのテーマを追いかける研究スタイルが確立した。その結果、「○○研究会」というのが雨後のタケノコのように設立された。

しかし、

こうした戦後の研究を見ていると、よくも悪くも集団で研究を行う「共同研究」というスタイルがあまりにも鬱陶しい存在に映ってくる時がある。行っている当人達はそれで良かったのかも知れないが、後々、その研究を参照する私たちにその人間関係や派閥、思想勢力の関係の予備知識や学習まで強要するのである。あの研究会は共産党系だとか、右翼的だとか、保守系とか。研究によって何らかのことを明確にするという目的以前に、組織の性格やイデオロギーが、自ずと問題や結論をゆがめたようにすら思える。そうでなくとも、こうした組織の性格や人間関係を念頭に置きながら、研究成果を読むのは非常に苦痛だ。

参加するにしても、個人的にはあまり感心しない研究方法でもある。それでも、大学院の時は、こうした研究会に無理にでも参加させられたし、研究の内容までごく一部の人間が規定する場面もあった。

それはさておき、昨日くらいから、久野収・鶴見俊輔・藤田省三『戦後日本の思想』(岩波同時代ライブラリー 1995)を読んでいると、戦後日本の思想の本質を語るように見せかけて、結局のところ、どこそこの研究会の主張がこうであって、そこには誰それがいて、誰それのお弟子さんがこういったみたいな内容を再確認しているだけの内容で、本当の問題がどこにあって、それに対する回答(あくまで一つの)が見えなくしている、あるいは複雑にしているように思えてくるのである。

1990年代も後半に入って、こうしたある問題の本質を追いかけるように見せかけた研究会を発足させ、その実、大学や派閥、主義主張を根底に置く人間関係の把握や確認といった形式を改めるという動きが出来てきたが、依然として上記のような研究会を理想とし、「ムラ社会」を形成するような研究会を作ろうとする研究者も非常に多い。

研究の方法と言う意味においてではあるが、おそらく戦後思想の最大の功罪であったのだろう。

新年早々健康を心配する。

2006年01月01日 21時59分48秒 | Weblog
あけましておめでとうございます。

昨日の夕食はすき焼きで、年末の乾杯を家族で行い、久々に
母のホステス魂が炸裂しました。仕事でやったこともないのに、
いったいどこで覚えたんだか・・・
おかげで、紅白が終わる頃には、鈍ーく、頭が痛くなりました。
日本酒ばっかりでしたから。

あけて本日元旦、起きたら早速新年の乾杯です。
酒が抜けていたことは抜けていましたが、
低血圧ですから、どうも食欲がない、それでもおせちを「がんばって」食べた
口です。しかしまあ、もう歳なのか、最近体を動かしていないせいか、
なんかダルーの感じです。
確かに、帰りが遅く、夕食をとるとほとんどすぐに寝るような毎日でしたから、
体が鈍っているかも知れません。

元日早々、2月3月の寒さを乗り越えられるか、少し心配です。