酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

ブレイクタイム アスリートの系譜

2010-03-04 09:56:25 | くだまきアーカイブス
本来ならば、この件(くだり)。前回の記事にしようと考えておりました。が。「平成チリ地震津波」が故郷を強襲。
この事がございましたので、一回ジャンプの記事です。
大和が出撃するまで「あと一日」ではありますが、オリンピックの記憶がまだ新しいうちにこの「くだまき」とすることといたします。

さて、何回か「プロ野球」に関する「くだまき」を語っておりますが、もう一度過去記事をご紹介いたします。
宮城球場に本拠地(準フライチャイアンズ)をおいておりました「ロッテオリオンズ」です。昭和49年には金田正一監督の元で日本一に。
酔漢、塩竈二小時代、小学校六年生でした。
この年、劇的な一年でしたので、「小学校の頃」と題しました「くだまき」は殆どこの年にあった出来事です。
漫画家「さとうただし」君と机を並べておりましたのもこの年です。
では、オリンピックの前に、過去の「くだまき」をもう一度ご紹介いたします。
その日本一に輝いた「ロッテオリオンズ」におられました「背番号15」の「セットアッパー」「近藤重雄」さんとの出会いです。

2008年1月10日 更新「酔漢のくだまき」からでございます。

1973年パリーグ。宮城球場を準フランチャインズとしていたロッテオリオンズは、シーズン終盤に宿敵南海に追いつかれる。阪急最終戦とも負け越し、結局はリーグ3位で終戦を向えた。ロッテはこの年から東京球場から仙台へ移る。監督も金田になり、監督人気もあって、球場は連日賑わっておりました。

 昨年のブログでこのロッテオリオンズの事をお話いたしました。酔漢が初めてプロ野球を観戦したときの話でしたが、この年は3試合ほど観戦いたしました。やはり叔父と一緒でしたが、最初の試合が劇的だったからでしょうか。後の試合については、よく覚えておりません。しかし、ある中継ぎ投手については、よく覚えております。前書きが長くなりました。ではお話いたします。

「後攻 ロッテオリオンズスターティングメンバーの発表です。 一番センター 弘田。二番ショート 飯塚。三番サード 有藤。四番レフト アルトマン。五番ファースト ラフィーバー。六番ライト 池辺。七番セカンド 山崎。八番キャッチャー 村上。九番ピッチャー 八木沢。」(パリーグのDH制は75年から) 
「この前も八木沢だったちゃ」
「最近打たれてばかっりだからっしゃ。今日はだいじょーぶかや」
「相手の太平洋は今打線だけは当たってからな」
すみません。相手の投手は覚えておりません。当時の太平洋はやはりエースは東尾。そして、江藤。白仁天。そうそうたる打線でありました。太田も若くて一発屋の片鱗を見せ始めていた年でした。
僕らは一塁側内野スタンド。ブルペンからすぐ上での試合観戦です。
試合はたんたんと進みます。ロッテ、太平洋とも打線が淡白で各打者とも早撃ちが目立つ試合展開となりました。得点は0対0。イニングは早5回を迎えます。
「なんだや、まだビール1缶しか飲んでねぇおん」叔父が言いました。
5回表。太平洋は助っ人(名前覚えておりません。すみません)のホームランが出て、一挙に3点をあげました。ロッテのブルペンがにわかに慌しくなってきました。
「八木沢のかわすピッチングも限界でしょうか。試合はまだ中盤です。中継ぎが頑張って、なんとか成田までもたせるような試合展開にしないといけません」
TBCダイナミックナイターが隣の席から聞こえてきます。解説は島田源太郎さんです。(大洋OB。完全試合の記録を持つ、気仙沼高校出身)
八木沢は、後続を何とか絶ち、5回の裏、ロッテが飯塚のヒット、ラフィーバーのタイムリーでようやく1点を返しました。
ブルペンでは、2人のピッチャーが投球練習を始めておりました。
「最近よく近藤は抑えていますよ。試合を作れるベテランです」再度島田さんの解説です。
「おんちゃん、どっちのピッチャー投げんだべね」
「最近、金田近藤使う時多いからっしゃ。今日も近藤でねぇか」
6回、イニングの頭。背番号15を着けたピッチャーが、マウンドへと歩き始めました。
球場のアナウンス。「ロッテオリオンズ、ピッチャーの交代です。ピッチャー八木沢に変わりまして、近藤。背番号15」
「どんな人すか?」
「どれ、パンフレット、見っからっしゃ。『近藤重雄。71年ドラフト5位。社会人コロンビア出身。』ベテランでも新人みたいなもんだべ。弘田と同期だなや。高校は福島の学法石川だべ」 
投手交代のとき、監督の金田が往年の投球フォームのまま、ピッチングを披露してくれるのが球場の名物となっておりましたが、今日はそれはありませんでした。
「金田、いらついてんでねぇか」どこからかそんな声が聞こえてきました。
投球練習を終えた近藤。村上のサインに首を振ることなく、第一球を投げました。コントロールよく外角へきれいなストレート。ストライク。このコントロールとバッターとの見事な駆け引きがこのピッチャーの持ち味なのでした。この試合、近藤さんは2イニングを投げ、ヒット2本(だったと記憶しております)太平洋の打線を見事に抑えました。そして8回。ロッテ「ラッキーエイト」を迎えます。案の定、弘田のヒットを足がかりに有藤、アルトマンのタイムリーで逆転。9回押さえの成田が3人で締めゲームセット。ロッテ勝利でした。勝ち投手は成田でしたが(セ-ブポイント制は74年から)崩れかけた試合を作り上げた近藤投手がMVPだったと思います。
試合後、金田の監督インタビュー。「今日はハラハラしましたけど、近藤がよく投げてくれましたねぇ。近藤さまさまでっせ」(かねやん、いつもの金田節の披露です)
酔漢、この試合で、敗戦処理。谷間の先発。そして崩れかけたゲームを作り直す。そういった役目を担う投手が必要なことを知りました。
そういえば、背番号15は試合の中盤で、必ずブルペンで投球練習をしていたことを思い出したのでした。酔漢の中ではロッテの15番は近藤さんのイメージが今でもあります。

昨年12月23日。酔漢仕事の真っ最中。予約のクリスマスケーキの仕分けを弊社店舗で行っておりました。まだ予約受け渡しカウンターの出来上がる前。一人の年配のお客が立っておりました。
「クリスマスケーキ受け取りにまいりました。伝票です」
スタッフがいない時間です。酔漢自ら対応しました。
「『近藤様』ですね。ゲキレンジャーケーキ2個ですね」とケーキを袋に入れて渡そうとしましたら、「うちの兄です」と店舗アソシエイトの部下がやってきました。
「酔漢さん。兄はロッテの投手だったのよ」
「おい、そんな事言ったってだれも覚えてなんかいないよ。3年しか職業野球してないんだから」
僕は控えの伝票を眺めました
「『近藤重雄』さんって、ロッテ15番の近藤さんですか?僕はよく覚えております」
なんてことでしょうか。あの背番号15のピッチャーが目の前にいるのです。
「僕はブルペンで投げている近藤さんをスタンドからよく見てました」
「覚えている人いたんだねぇ」
「そりゃ、覚えていますよ。格好良かったじゃないですか」
「格好よかった?ハハハ そうだった?よく打たれてたでしょ」
酔漢仕事を忘れました。
近藤さんとしばし野球の話。
「木樽の球には凄みがあった、成田はキレがあったし、投手王国だったなぁ。でもね八木沢のパーフェクトには参った。出来るなんて、今でも信じられないよ」
「八木沢さんの完全試合は観てました。すごく緊張した試合でした」(「宮城球場伝説」過去ブログにて詳細を)
「たった3年しかいなかったし、僕も年を取ってからの選手でしたしね」
「僕ら、小学校時代でしたが、本当にロッテ強くって、いい思いさせていただきました」
30分以上お話しました。近藤さんはお孫さんとクリスマスパーティーをするんだと言って、お店から出て行きました。僕は30年以上経ってから、ようやく近藤さんとお話が出来ました。

1971年。ドラフト5位。(同期で活躍した選手では3位弘田。4位倉持)
1972年。29試合登板。2勝3敗 投球回 59     防御率4.58
1973年。41試合登板。6勝4敗 投球回 81 1/3  防御率 3.56
1974年。37試合登板。2勝2敗2S 投球回 58 2/3  防御率 4.12
生涯成績 107試合登板。10勝9敗2S 投球回 199 防御率 4.03
(ロッテ球団資料より抜粋)

見事な成績です。近藤さんは「10勝しかしてないから」と言っておりましたが、どうしてどうしてプロの世界でしっかり記録を残しておいでです。並の人にできることではありません。
「また、来るよ」
「是非」
またお会いできる日を楽しみにいたしております。

「こんどぉ、たのむぞぉー」
土のグランド。「い・ろ・は」で始まる座席順。
宮城球場をもう一度振り返りました。
背番号15の小さな伝説を紹介いたしました。

以上ではございます。さて、ここで御登場いたしております、近藤重雄さんの妹さんです。
(彼女は酔漢の優秀な部下でございました)
彼女から一通のメールが届きます。

「昨日、ワールドカップ 複合団体でメダルを獲得したメンバー『湊君』は甥です。オリンピックでの応援お願いします」と。

酔漢、そこで、ふと気付くのでした。
「んで、あれだっちゃ『近藤重雄』さんの甥でもあるのすかや!」

バンクバーオリンピックの開催。
酔漢は正直オリンピックにはあまり興味がございませんでした。ですが上記のメールです。
やはりそこは「地元好き?」な酔漢ではあります故、フィギュアスケートの「鈴木 明子」さん(母校、東北福祉大学卒業生です。やはり同じキャンパスにいたという理由です)と共に「湊 祐介」君を応援いたしておりました。
ですが、団体、ノーマルヒル個人でのエントリーは、なし。
バンクーバー入りしてから「ジャンプ」が不調だったようです。
しかし最終競技「ラージヒル個人」でのエントリーが決まりました。
結果は、次回に繫がる「26位」
入賞にはいたりませんでしたが、しっかり「複合日本」を背負って立つ若者でございました。TVで素顔を拝見いたしましたが目鼻立ちはどこか「近藤さん」に似ている趣がございました。
「何で、酔漢がオリンピック?」
そう、こんな繫がりは誰しもあるものです。が。
「アスリートの血は継がれている」と感じ、その事を語りたくなったわけでした。
そりゃ「大好きだったプロ野球選手の甥」でございますから「応援しましょう」となったわけでございます。
かつて、世界を席捲いたしました「日本 複合」。今回の結果はこれでよし!
ワールドカップ、そして次回のソチでは「完全復活」
体操のように、不死鳥の如く世界が驚く結果を残すこととなります。
その時、主人公として「湊君」が活躍する。4年後への楽しみができました。
ところで、彼の活躍を近藤さんはどのように見ておられたのでしょう。少しばかり興味がございます。
皆様、「湊祐介」君を是非お見知りおきを。彼の活躍を是非応援してあげて下さい。

そばで今、家内が見ております。
「こういう記事ってオリンピック始まる前に更新するんじゃないの?終わってから応援って言われても・・・」
「しまった、気付くのが遅かった!」
そうですよね。
「もっと早く宣伝しておけばよかったなや」
皆様、申し訳ございません。「抜け作」=「酔漢」でございました。

そうそう、仙台発世界へ。
フィギュアは「名古屋」と「仙台」・・・?
仙台は世界に近い!

近藤さんを球場で応援してから35年が経ちました。そして今その血を継いだ若者が世界で羽ばたく姿を目の当たりにしております。
「歴史の交差点を実感する」
そんな感じがいたしました。

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10 コメント

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思い出します (丹治)
2010-03-04 15:58:49
そう、ロッテが宮城球場にいたことがありましたね。
ファンクラブもありました。
名前は確か「バブルボーイズ」。
風船ガムの風船からイメージしたのでしょうが、
今なら絶対につかない名前でしたね。

小生の高一の時の同級生に、ファンクラブ会員がいましたよ。
ホームルーム解散の際の一言が、

「カムバック、ロッテ!!」

でした。

女子フィギュアの鈴木選手は酔漢さんの後輩でしたか。
男子スピードで銅メダルの加藤選手は山形出身なのですね。
蔵王に滑りに行ったら、
温泉街にも山形駅前にも名前の入った幟が並んでました。
「三位!」のニュースは宿でウダウダしてる時にみました。

女子カーリングもそうですが、
東北に関係のある選手が出てると聞くと、
なぜか血が騒ぎます。
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エピソード (ひー)
2010-03-04 21:28:48
酔漢さんのエピソードは色々ありますね~
とても嬉しいエピソードでしたね。
野球の試合をあそこまで記憶しているとは恐れ入りました。
野球はそれほど詳しく無いのですが、ロッテが仙台に来た時は、あの球場で申し訳ないなぁと思いましたね。
それに、今もですが最初と最後は寒いですよね。
宮城県は利府にサッカーのワールドカップの時にグランディ21を作りましたが、毎年2億の赤字とか?
アクセスは悪いしそれだったらドームを作って欲しかった。
今更ですがね・・・

奥様の言う通り、それは大々的に五輪の始まる前に発表しないと・・・・
奥さんの方が一枚上でしたね。
我が家と同じです。それが一番お家安泰なのです。ww
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ケーキ渡しって必ずミスが・・・ (クロンシュタット)
2010-03-05 05:32:02
金やんを先頭に選手が仙台市街を走るのが名物でした。
コーチャーズボックスでの「踊り」とともに、いろいろやってくれてましたよね。
金田といい野村といい、集客にも気を使ってくれる監督に恵まれました。
それにしても万全の投手陣や球界トップクラスのクリーンナップ!
近鉄ファンだった私には眩しくかつ恨めしく感じておりました。

大学生の頃、従姉妹がスキー長距離のトップ選手でした。
国体で優勝しオリンピック選手候補(出場は逃しました)でした。
両親の実家、秋田の羽後町周辺は、1晩で1mの豪雪地帯でした。
スキー場ではなく「裏山」で上達した選手だったとのことです。
私のスキー能力?通学の朝に下馬の坂道を直滑降するぐらいです・・・転んだままの姿で・・・
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丹治様へ (酔漢です )
2010-03-07 18:14:04
「カムバックロッテ」ですか。
今のロッテとは雰囲気も違っております。
「野武士集団」と言った趣でした。
やはり、地元の選手を見ますと応援に力が入ります。
日本ハムの試合で「ダルビッシュ」の後「江尻」が投げる。
仙台リレーでしょうか。
ヤクルトの試合で「石川」(秋田)が投げた試合で「畠山」(岩手)が打つとやはり「えがったぁ」と感じます。
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クロンシュタット様へ (酔漢です )
2010-03-07 18:17:31
ケーキの予約受け渡しは緊張します。
こおのところトラブルには会っていない酔漢ですが、いろいろとございました。
さて、なつかしい球場風景です。
いつだったでしょうか。定期戦の翌々日のロッテ戦で外野に巨大メガホンが落ちておりました。定期戦の後掃除していないのが、みえみえでした。
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ひー様へ (酔漢です)
2010-03-07 18:24:47
家内から指摘の通り、オリンピックの前にご紹介すればよかったと思っております。
近藤さんは引退の後、お体を少しばかり悪くされております。
今は元気なおじいちゃんぶりです。ですが、やはり嘗てのプロ野球の選手です。身体付はどこか違っているのでした。
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ブチ切れてしまったw (テラアソシェイト)
2010-03-10 15:39:22
ここではお初で~す^^
酔漢さんはお元気そうで何より。
初見でしたがこちらのブログ以前より聞いていましたが
とても楽しめましたyo!
実は私は酔漢さんがいなくなってから
心身の疲労によりw

脳血管がブチ切れてしまって1月病院送りになってしまったw
おかげでオリンピックは結局見てしまいましたが
忘れないでいてくれたようで幸いです。
ブログもまた楽しみにしていますよ。

酔漢さんも体に気をつけて!

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テラアソシェイト様 御礼 (酔漢です)
2010-03-12 19:05:52
コメントありがとうございます。
お体を悪くされましたこと、少しは聞いておりました。今は大丈夫でしょうか。
心労ですか。もしかしたら私目もその責任があるのかと・・・。
くれぐれもお大事になさって下さい。
すばらしい甥っ子ではないですか!
今後の活躍が楽しみです。
このブログを読まれている方、全員がファンになるかと思います。(結果は気にするようになるものです)シーズンが始まれば、再度紹介いたしましょう。
お兄様はお元気ですか。
度々登場させていただきました。
地元に帰ると、覚えている同輩が多くおります。決して忘れ去られた選手ではないんです。
その勇姿はみんな覚えているんですよ。
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近藤さんについて (OBマニア)
2011-05-29 15:58:32
近藤重雄さんってフォームと球種はどんな球種を持っていたのですか?知りたいです
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OBマニア様へ (酔漢です)
2011-05-30 00:30:17
在籍3三年でした。
近藤さんご自身では「3年間しか職業野球していなかったし」とお話しされておられます。
コロンビア時代は上から投げ下ろす感じだったと記憶してますが、今で現役時代は丁度ヤクルトスワローズの館山投手位より少し上げ気味のスリ-クォーターだったと記憶してます。
フックと今で言えばスライダーそしてシュートとコーナーを投げ分ける投手でした。
すでに肩、肘を壊されてからの入団だったとご本人がはなしておられます。
背番号15はですが、球場では常にブルペン待機でした。ヤクルトから移籍したばかりのサウスポー鬼頭投手と並んで投げている姿は球場の名物(僕らが勝手に名物にしてましたが)でした。先だってお亡くなりになられました成田投手はクローザーの先駆。近藤さんの姿がブルペンからなくなり、勝負所では成田投手が一人でブルペンで投球練習を開始いたします。
リードしている場面ですが、これを見ますと
「今日の勝ち」を信じた僕らでした。
今横浜にお住まいの近藤さんです。持病と戦いながら生活されておられます。
僕は球場で3度程、その投球を見ました。
どれもロッテの勝ちゲームでした。
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