Tsuki軍団の野望

模型・廃墟・本・毎日のちょっとしたくだらない出来事を紹介するでござる。

東京出張 其の四 旧前田侯爵邸 洋館

2011-12-30 06:12:20 | 日記

12月上旬に東京に出張に行ったのでござるが,
遅ればせながら,本日,画像をUPしようと思うのでござる。

いいじゃん!付き合って!



旧前田侯爵邸 和館から出て,芝生公園に向けて歩き出す。
そうすると,見えてきました洋館。
あっ!スクラッチタイルだ。

少し,雨が強くなってきて,カメラをかばいながらの撮影でござる。



あちきが説明するのも何なので,
此処からはパンフレット等に沿って説明するでござる。



区立公園の中で二番目の面積をもつ駒場公園は,
加賀百万石の当主だった旧前田家の前田利為侯爵駒場跡でござる。



前田侯爵がこの地に邸宅をかまえたのは昭和の初め,
明治11年設立以来,近代農業に輝かしい業績を残した駒場農学校が
本郷に移転した跡地を,第一高等学校(今の東京大学教養学部),
東京農業教育専門学校(後の東京教育大学農学部)とともに
分割使用したものでござる。



他の資料によると・・・
明治17年,華族令発布により,前田家は侯爵の爵位を授与されて,
百万石大名の威信を保ったが,
隣接して建てられた東京帝国大学の敷地拡張のため,
本郷の地も駒場の東京帝国大学農学部実習地4万坪と交換されることになった。


こう云った小さいモノも綺麗なのでござる。

こうして,はからずも加賀百万石大名の子孫の屋敷が,
目黒は駒場の地に出現することとなった。と。



建物は,昭和初期の和洋両建築の粋を集めたもので,
化粧煉瓦やタイル張りの施された洋館は,
昭和4年,書院造りの和館は昭和5年に完成。



えっと,自然の巨木を生かし,
名石をあしらった幽邃な奥庭や,芝生の広場が設けられたでござる。



他の資料によると,
昭和4年から5年にかけて,前田家16代当主前田利為侯爵は,



駒場の約1万坪の敷地に,地上3階地下1階建ての洋館と,
これを渡り廊下で結んだ2階建て純日本風の和館とを相次いで竣工させた。



マツ・ケヤキ・イチョウ・シラカシなどうっそうと茂る
駒場野の林をそのまま生かした奥庭や芝生の広場。
使用人も100人以上いたという前田侯爵邸は,
当時東洋一の大邸宅と人々の目を見張らせたものだった。と。



しかし、栄華も永くは続かなかった。



昭和16年に第二次世界大戦が勃発すると,
翌年には,ボルネオ方面軍司令官として従軍中の利為侯が,
不慮の死を遂げてしまったのだ。



夫人をはじめ一家は他へ移り,
戦局がますます厳しくなる中で,
昭和19年,邸内の一部を譲り受け,中島飛行機の本社が疎開してきた。



そして,終戦。
前田邸は,昭和20年9月,連合軍に接収され,
第5空軍司令官ホワイトヘッドの官邸となり,



続いて26年4月からは,
極東総司令官リッジウェイの官邸として使用された。



その後,富士産業(旧中島飛行機)の手を経て,
昭和31年に和館及び一部の土地が国の所有となり,
翌年,ようやく接収が解除となったのである。



昭和38年,旧前田邸に公園を建設することが決定し,
翌年,洋館を東京都が買収,



国有地については,東京都に無償貸与され,
都はさらに民有地を買い足して,
昭和42年7月,旧前田邸は,東京都立駒場公園として生まれ変わった。



その後、昭和50年に公園の管理が目黒区へ移管されて現在に至る。



って,ちょいと長い説明でござったかな?
時代の中で人々も建物も
様々な歴史の波に呑まれ,時を刻んできたのでござるね。



こう云った建物は補強や修理,
手入れがなされてその形を維持することができる。



この日も,多くの職員の方々が,
丁寧に掃除をされていた。
御苦労様でござる。



中は,はじめて来る人間にとっては,迷路のように感じられる。
しかし,不思議なもので,
和室を観るとホッとするのでござる。



下から見上げた銀杏の木を上から眺める。
多くの人々がこのような景色を観てきたのでござろう。
そして,銀杏の木は,
そういう人々を眺めてきたのでござろう。

もうすぐ,葉も落ちてしまうそうだ。



此処もあちき一人きりの貸し切り。
贅沢な気持ちにさせてくれた。



外は少し雨が小降りになった。



さて,仕事先に向かうことにする。



Diorama Photo Club
ゆるゆる模型軍団 Yuru Yuru Mokei Corps

コメント (3)
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