スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

東京の状況など

2011-03-15 01:09:15 | 高森光季>その他
 夜中にちょっと、ならインターネットしてもOKかな、と。
 どうも情報が錯綜していて、電力がどうなっているのか、計画停電はやるのかやらないのか、どういう区割りとスケジュールなのか、など、非常にわかりにくくなっています。
 東京では、どういうわけか、牛乳、電池、トイレット・ペーパー、ガソリン、カセットボンベなどがまったく品切れになっています。って、牛乳がどうして品切れなのか全然わからないw
 おそらく、東京以北では、一時的に最小生産・最小消費に努めればよいのだろうけれども(物資とエネルギーの集中効率化という観点から見れば外食を選ぶ方がいいという可能性も考えられますね)、中部以西の方々は、ひょっとしたらがんがん経済活動に励んでもらうのが、日本経済という面から見ればいいのかもしれません(ちょっと不確か)。ただ、西の人は、非常時備蓄品(電池、ラジオ、軍手、缶詰……)の買い溜めは今の一時期は控えてもらった方がいいようです。

 原発をめぐってはいろいろな情報とともに「政治的」意見が飛び交っていまして、それについてはあまり深入りするつもりはありませんが、この災害を、「生活(あるいは生そのもの)を、見直す機会」と捉えることはありかなと思います。確かに私たちは余計なものを帯びすぎている、ちょっとエネルギーを使いすぎている……
 ただ、経済というものは、無駄・過剰を含むものだけれども、それが活性化することで貧乏な人も恩恵を受ける、「清貧」「最小消費」では、逆に貧民が増える、という、実に皮肉な構造になっているようで、そのあたりはなかなか難しいものがあるようです。

      *      *      *

 災害で愛する人を喪い悲痛にくれている方々へ、何か言葉をかけるというようなことはできません。
 「神も仏もあるものか」と思う人がいても、何とも致し方ありません。
 でも、スピリチュアリズムを受け入れた人、それを広めることに協力しようとする人は、
 ・死は終わりではない
 ・愛する人と死別しても再会することができる
ということを、静かに言い続けるしかないと思います。
 猛然たる反発、嘲笑、糾弾に遭うかもしれませんが、それも厭ってはいけないのでしょう。

 霊信の中には、「地球もまた進化途次で、地震といった災害があるのはやむを得ない。それで多くの人が死ぬのは、人間は『神は残酷だ』というかもしれないが、そもそも死は悲劇ではないのだから、それはお門違いだ」という主旨の言葉があります(ちょっと出典が思い出せません)。ただ、それを人間の口が言うと、どうしても傲岸不遜になってしまう。そのあたりは難しいです。

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 もうひとつ、非常に書きにくいことですが、あえて書きます。
 NHKの津波の実況で、真っ黒い波が迫っている道を、二台の車が走っている。その先に、おそらく女性らしい人影が一人、走っている。しかし車は停止することなくその人影を追い越していった。ただし、津波の勢いはものすごく、車も人影も、呑み込んでいった……。
 私はそのシーンを見ていましたが、意識から消そうとしていたらしく、しばらくの間、忘れていました。ところが、やはりその実況を見ていた人が、2ちゃんねるでそのことを問題にしていました。
 (一応まとめブログ http://vipvipnews.com/archives/3598017.html に載っていますが、悲痛な動画も含まれていますので、クリックする際はご注意ください。)
 「自分の命が切羽詰まっているのだから、停めて乗せなかったことは何ら非難されない」という意見がかなり多くありました。
 それに対して「いや、やはり停めて乗せるべきだった。自分ならそうする」という意見もありました。この意見には激しい攻撃的反論が寄せられていました。「今そんな綺麗事を言ってても、その場でできるかどうかはわからないだろう」という言い方もありました。
 あまり「議論」すべき問題ではありません。乗せなかった人を非難する権利は誰にもありません(気づかなかった可能性もわずかにせよありますし)。というか、非難してはいけない。通常の倫理では、自分の命の危機に際して、自分の命を賭してまで人を助けることはしなくてもいい。それは正論だと思います。自分の生命を守る権利はかなり絶対的な権利ですから。それを取ることは何ら問題にならない。
 でも、「たとえそのために波に呑まれたとしても、停めて乗せる」という意見には、私は感動しますし、私もそうしたいと思います。「実際その場でできるのか」と言われるかもしれません。実際その場になったら、動転してアクセルを踏んでしまうかもしれません。でも、「今の」思いとしては、そうしたい。そしてこういう意見が2ちゃんねらーの中に少数派としてでもあることに、なにがしか感動しました。
 なぜ「乗せる」方を選ぶか。それには二つあります。一つは、たとえ停めないことによって生き延びたとしても、そのことに後悔を感じ続けるだろうということ。もう一つは、「死は終わりではない」から、たとえ双方が結局助からなかったとしても、その行為は確実に意味があるということ。

 V・E・フランクルの『それでも人生にイエスと言う』の中に、ダハウのユダヤ人強制収容所の話が出てきます。ガス室送りが迫っている収容所の中で、ドイツ人監督に取り入り仲間のユダヤ人を虐待し、わずかでも食物や延命を勝ち取ろうとする人もいました。逆に、若い人をかばって、自らを先にガス室に入れてくれと申し出た人もいました。
 いずれ誰もが死ぬ情況でした。どういう態度を取ろうと、何も残ることはありませんでした。
 それでもフランクルは、「態度価値」というものがあると言います。「何かを体験する価値」や「何かを創造する価値」は一般の人に開かれていますが、数日で死ぬことになっている収容所で、あるいは何もできなくなっている病室のベッドの上で、「態度」を持つことはできる。それが何かの現実的成果を生まなくとも、そこには「価値」がある。あるユダヤ人囚人は、順番を告げられた時、毅然と背を伸ばし、神への祈りを唱えながらガス室へ向かいました。ある病人は、自分は今夜で死ぬだろうから、看護婦に夜中の投薬を前倒しにして今やってくれ(起きなくてよい)と告げました。これらのことは、ほとんど何の成果も残しませんが、しかしそういう「態度」を取ることは価値だというのです。
 フランクルは死後存続説を受け入れていませんでした。その分、逆に必死にこうした価値を力説しました。

 スピリチュアリズムを受け入れた人の多くは、「停めて乗せる」を選ぼうとするのではないかなと思います。「死は終わりではない」ことを知っているから、またすべての行ないは死を超えて残り続けることを知っているから。崇高で悲劇的な決断ではなく、ごく当然のこと、偉いことでも何でもないこととして。
 ただ繰り返しますけど、これは議論すべき問題ではありません。人の選択、思いの問題です。人は人を裁く権利はありません。

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