「市場原理」という概念があります。「自由主義」と重なるものです。
これ、資本主義の権化、金儲け優先・金持ち優先の思想と見る向きもありますが、それは間違いです。
「市場原理」とか「自由主義」というのは、根本的には、
《何がよいかを決定する権利は誰も持ち得ない》
ということを言っているのです。
「何がよいか」というのは、「何が生産されるべきか」「何が有効な生産物であるか」「何がよい価値観であるか」「何が正義であるか」というような実に様々な内容が含まれています。
この奥には、
《人間の知は社会全体を把握し統御することは不可能である》
という命題があります。
「個々の財の生産とその価格を決定する」「財の良悪を判定する」「どういうライフスタイルが望ましいか」「金持ちは貧乏人にどのくらい支援すべきか」といったことは、人間の知では確定できない。
だから、それぞれ自由にやってみるしかない。うまく行くかどうかは、結果が明らかにする。あるいは、それに賛同するか否かは、一人一人が決めるしかない。
甘くて大きくて値段の高いリンゴを作った人と、小さくて酸っぱいが安いリンゴを作った人と、どちらが成功するかは事前には誰にもわからない。(たまたま日本では前者が成功したけれども、欧州では後者が成功して主流になっているようです。)
これの対極にある思想が、「設計主義」です。
この基底には「合理主義」「主知主義」があります。人間の知はあらゆる事物を知的に把握でき、それを合理的に統御したり、設計したりすることができるというものです。
これを現実化したものが「社会主義・共産主義」です。中央政府はすべての知を集結し、何がいつどのくらい生産されるべきか、その値段はいくらになるべきかを、決定できる、という考え方がその基底にあります。「来年度のタワシの生産は何個で、その値段はいくらで、生産者は何個を生産しそれによっていくらをもらうか」を中央政府が決定するということです(あくまで原理的にはということ)。
ちなみにこの「社会主義経済計算」は論理的に不可能であることを、フォン・ミーゼスが明らかにしました。「社会を設計する」ということは、原理的に不可能なのです。
民主主義もこの「市場原理」の考え方の延長にあります。
どんな賢人といえども、「何がいいか」は決定できない。だから、議論をして、多くの人が「こっちの方がよさそうだ」と思えるものを選ぶしかない。
民主主義は、手間がかかり、そしてしばしば衆愚政治になります。その事情に精通した人の多くが「そりゃちょっと無理」と判断するものを、大衆の多数が「いや絶対これがいい」と選んでしまう。案外事情通の方が間違っていることもありますけれども、だいたいは大失敗になる。まあ、中には先の民主党のマニフェストのように、明らかに不可能なのに大衆の欲望をそそり、それを選択させてしまうというようなことも起こります。
「善い独裁者の治世は民主政治よりはるかに優れているが、悪しき独裁者の治世はこの上ない地獄である。そして善い独裁者が生まれることはきわめて稀である。」(アクトン卿だったかしら、ハイエクだったかしら)
知的な人々は民主主義を嫌悪するものですけれども、しょうがない。それ以上のやり方を、現在の人類は持てていないのですから。
要するに、「すべてがうまく行き、万人が納得するような社会の設計図」を、われわれは(われわれの誰もが)持ち得ない、ということです。その表現の一つが「市場原理」、つまり「それぞれが選ぶに任せなさい」ということになるわけです。
さらに言えば、「あなた(がた)がどんなに素晴らしいものだと思っていても、それを社会に強制させることはできない」ということでもあります。
* * *
「政教分離」、つまり宗教と政治は分けるべき、互いに介入しない、ということは、この延長上にあります(由来はともあれ)。「思想・表現の自由」もそうですね(基本的人権という考えは置いておいて)。
これは取りも直さず、社会を「私たちの教えが教えている素晴らしい世界」にしようとする(何らかの強制力をもって)ということは不可であるということを意味します。
ということは、「集団救済」はNGということです。「この世を楽土(天国)にしよう」という主張は、政治的な企図としては「やってはいけない」ことになるわけです。
「いや、われわれは力をもってそうしようとはしていない。人々に説き、同意してもらって、それを成し遂げようとしているのだ」と集団救済論者は言うでしょう。だとしたら、それは不可能な企図だというになります。同意しない人は常にいるものだからです。
それに、「武器や政治権力を利用していない」というのは、案外曖昧なものです。圧迫、利益誘導、いわゆる“洗脳”的宣伝など、かなり「力」に近い手段も用いることになりやすいからです。
まあ、不可能な企図であるけれども努力し続ける、ということは選択としてありでしょう。それが常に失敗に終わり、時には怨嗟や呪詛を自身の心の中に生み出したりすることも自覚しているのならば。
* * *
宗教思想も、また「市場原理」に委ねられるものです。またそうであるべきものでしょう。
歴史を見ると、この市場原理はかなりいびつです。ある宗教思想を「公教」として選択した国家ないし地域が、それゆえに興隆したりする。古代ローマ、中世キリスト教圏、イスラーム圏、チベット仏教圏、上座部仏教圏、そして唐とか日本とか。それは「世界的市場競争」におけるその宗教の勝利なのかもしれません。ただ、逆にそれが衰退要因になるということもあるようで(現代のイスラームとか、インドのヒンドゥー教とか)、もしかすると国家の栄枯盛衰に宗教思想は直接的な因数にはならないのかもしれないとも思えます。
それはともかくとして、少なくとも、キリスト教、イスラーム、仏教などの「超民族的大宗教」は、他の宗教と「競争」して生き残ってきたものである。あるいはヒンドゥー教、神道などの「民族内宗教」も、その民族内では競争して生き残ってきた(ちょっと神道は微妙ですけどそれはちょっと置いておいて)。一時は拡がりながら、消滅した宗教もかなりあるわけで、それはそれなりの意味があります。
なぜそれらが発展し生き残れたのかというのは、実に大問題で、いろいろと考える余地はあって面白いと思いますが、そんな大問題はここではパスします。
まあ、ともかく、時に権力による強制というものはあったにせよ、それらは現在のところ、市場原理を生き延びて、今ある。
そのほかに、新興宗教もありますね。これは一応、政治権力の庇護なしに、市場原理によって支持を得ている。強引な勧誘があるにしても、力による強制ではない。「んなもんに引っ掛かって」と眉をひそめる人も多いかもしれませんが、最終的には個人の選択なのだから、違法行為がない限り、人がどうこう言えるものではない。
そうした宗教思想が、今、ものすごい勢いで消滅しつつあることは確かでしょう。
いわゆる「世俗化」が進み、神仏、霊、天国・浄土といった「超越的なもの」を消去しようという世界観が拡がっています。唯物論とそれがもたらす、「平板世界観」の影響も大きいでしょう。一方では、個人が国や文化的背景とは関係なく特定の宗教思想を選択したり、あちこちから部分的に拾い集めて自分なりの宗教思想を作ったりということもあります。
それもまた「市場原理」のいたすところ。いいか悪いかは誰にも言えない。これからどうなるのかも誰にもわからない。
もちろんこう書いている私は、「そりゃないぜよ」と思うところもあるわけですが、それは私の感想でしかない。高級霊たちはなぜそれを許しているのか、とも思いますが、それもよくわからない。
* * *
さて、そういう様々な宗教思想がある。かなり消えつつもある。
その中で、スピリチュアリズムが言っている考え方はどういう位置になるか。
スピリチュアリズムが主張している最低限のことは、次の2点です。
①「私」は死後も存続する。
②存続した「私」が行く世界=霊界とこの世は交信が可能である。
そして後期に追加されたこととして、
③「私」は、生まれ変わりなどをしつつ、無限の成長の道を歩む。
これらの主張は、部分的には他の宗教と重なります。
一神教は、審判の後、天国か地獄かで魂は存続することになっています(生まれ変わりや霊界との交信は断固として認めません)。仏教はもともとは「私」は輪廻を繰り返して成長の道(成仏への道)を歩むと捉えていたと思われます。神道を始めとする土着的・原始的宗教は上記にかなり近い考え方をしていました。
けれども、宗教が組織的になり、社会制度に組み込まれるようになると、そうした考え方は薄まっていきました。死後問題よりも、現世での生活規範や修行法が関心の中心となっていく傾向が強まりました。
そして今現在、「死後存続」「霊界の実在」「生まれ変わり」「無限の成長」といったことを中心的主張として掲げるのは、ごく限られた宗教だけとなっています。
つまり、スピリチュアリズムが、(一定の論拠と共に「事実である」と)主張している考え方――霊魂・霊界実在説――は、「市場原理」としては、「成功していない」と言えそうです。
端的に言えば、霊魂・霊界実在説は、この二、三千年の歴史で、負け続けており、今も負けているということです。
* * *
市場原理において負け続けてきたということ、多くの支持を得られないまま来たということは、正当性や妥当性が乏しいということなのでしょうか。
しかし正当性や妥当性が全くなかったら、とっくに消滅していたのではないでしょうか。常に少数派ながら、ずっと闘い続けているというのは、なにがしかの意味があるのではないでしょうか。
これは負け惜しみとか悪あがきとか言われても全くかまわないのですが、逆にここにこそ重大な意味が隠されているのかもしれません。
スピリチュアリズムが「事実」として主張している考え方(世界認識)は、決して市場原理において「勝ち」を得ることはない。そういうものとされている。なぜなのかはわからないけれども。
イエスの言葉に、「狭き門より入れ」というものがあります。
これ、普通は「競争が激しくて入りにくいところ」というような意味に解釈されていますけれども、全然そういう意味ではありません。また、一部のクリスチャンが大仰に「苦しみを伴う道」と解釈していますが、そういうことでもありません。
原文はこうです。
《狭い門を通って入れ。広い門を通る人間は多い。しかしそれは命に至る門ではない。命に至る門は狭く、人には知られないものである。》(マタイ7:13-14)
「狭い」というのは、単に「小さくて人が気付くことがない」という意味です。ルカはこのことがまったく理解できなかったようで、全然由来が違う譬え話の前振りにしてしまって、わけのわからないことになっています。
要するに、世間に知られていて、人が集まるようなところには真理はない、真理は人が顧みないようなところにある、ということです。一種の警句であり、アイロニーであって、お説教ではありません。
宗教でも、権威で人をひれ伏せさせたり、現世利益を説いたり、お手軽な約束手形を発行したりするものは、人気があって、人が集まっている。けれどもそこには「永遠の命への道」はないよ、と。
これは言わば「叡智の言葉」であって、事実描写としてあるいは絶対的法則としていつも正しいかどうかということはあまり論じても意味ないように思います。
しかし、どうもやはり、「多くの人に知られ、多くの人が通る」門は、真実へ到る門ではない。そういう逆説があるのではないか。
スピリチュアリズムは「人に知られない」門です。スピリチュアリズムだけがそうだとは言えないかもしれません。有名宗教の中にも、狭き門はあるのかもしれません。主流派・主流教義とは異なるものとして。(ダスカロスさんはギリシャ正教徒を自認していましたが正統派からは弾圧を受けました。ちなみに私は、異端として徹底弾圧されたグノーシス=カタリ派の思想――その後もちょくちょく顔を覗かせます――は、正統教義よりよっぽどイエスの思想に近いと思っています。)
命の道の探求においては、市場原理と全く逆のことが成立するのかもしれません。後のものが先になるように、負けたものが勝つのかもしれません。
もっとも、「人に知られない門」がすべて命へと通じているかどうかは怪しいのであって、わざと異端のゲテモノを取り出してこようというのは、ちょっと間違いでしょう。
さらにもうひとつ進めて、非難覚悟で言えば、この世には、何度もこの世に生まれ成長を果たした魂にしか、理解できない・受け入れられない真理というものがあるのかもしれません。そういう魂は数が少なく、従って多数派になることはない。狭い門というのは、そういう魂にしか見つけられない門なのかもしれません。
* * *
もっとも、一部のニューエイジャーの言うように、
「今の地球と人類は数千年にわたる次元下降をしている。しかし近いうちにそれは上昇へと転ずる。そうなれば多くの人に“覚醒”が起こり、霊的認識を肯定するようになるだろう」
ということがあるのかもしれません。ホワイト・イーグル霊も、ほぼ同じようなことを言っています。
いわゆる「アセンション」論ですね。
そういうことはあるのかもしれません。否定する論拠はありません。
ただ、「地球という鈍重な物質世界は、それに見合う未熟な魂の鍛錬場(つまりは幼稚園)」というようなことがあるとすれば、この地球は今のレベルで留まるような気もします。
それとも大規模な「教育システム再編」があって、地球自体のレベル格上げがあるのかも。まあそれがあるとしても、数年先というような問題ではないと思います。
少なくとも、何とかの予言とか、地球が何とかベルトを通過してとか、そういうことでそれが起こるとは、ちょっと私には考えられません。
* * *
いったい何の話だったのか(笑い)。
要するに、「公共」の場では、市場原理が正しいだろう、と。宗教もそれに従うべきで、公教を求めてはいけないだろう、と。
しかし、それぞれの「命の探求」は、市場原理とは関係ない、むしろ逆のことがあるよ、と。
そして、少数派は、怨嗟を持つことなく、むしろ矜持と責務を持つべきではなかろうか、ということかな。
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- マルテンサイト千年ものづくりイノベーション (サムライグローバル)
- 2024-08-12 09:06:46
- 最近はChatGPTや生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタイン物理学のような理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズム人間の思考を模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな科学哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。こういうのは従来の科学技術の一神教的観点でなく日本らしさとも呼べるような多神教的発想と考えられる。
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