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浄土の話(2) 還相回向=生まれ変わり

2011-07-08 00:35:34 | 高森光季>仏教論2・浄土の話

 もう一つ、浄土信仰の重要な考え方があります。
 それは、阿弥陀如来の浄土に生まれて、修行をして「仏」になったら、再びこの世に戻って、無明のゆえに輪廻の苦に沈淪している衆生を救うために活動する、という考え方です。
 これが「還相回向(げんそうえこう)」です。(近代の浄土教学ではまったく違う解釈をしているようですが、ちょっと今は置いておきます。)

 ただしこれは阿弥陀信仰の中心経典である浄土三部経の言葉ではないようです。
 管見ですが、「還相」の初出は中国浄土教の祖・曇鸞(北魏後半~北斉)の主著『浄土論註』(『往生論註』とも)のようです。
 《還相とは、かの土に生じをはりて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしむるなり。》
 難しいところですけど、単純に読めば、「阿弥陀様の浄土に生まれ、修行をして叡智を獲得したら、再びこの輪廻の世界に戻って、一切の衆生を仏への道に教え導く、これを“還相”と言う」ということでしょう。

 細かいことですが、親鸞聖人は、この「還相」という概念は魏訳の第二十二願が元で、それを「還相廻向の願・一生補処の願」と名づけると述べました(『浄土文類聚鈔』)。
 第二十二願とは、次のものです。
 《設我得仏 他方仏土 諸菩薩衆 来生我国 究竟必至 一生補処 除其本願 自在所化 為衆生故 被弘誓鎧 積累徳本 度脱一切 遊諸仏国 修菩薩行 供養十方 諸仏如来 開化恒沙 無量衆生 使立無上正真之道 超出常倫 諸地之行現前 修習普賢之徳 若不爾者 不取正覚》
 これも難しい文章ですが、大意はこんな感じでしょうか。「もし私が仏になる時、他の仏国土の菩薩たちが私の国に生まれてくれば、かならず最上位の“一生補処(いっしょうふしょ)”に至らせましょう。ただし、その者が、衆生を自在に済度したいと真に願うなら、誓いの鎧をつけ、あらゆる徳を積み、諸仏の国に行って菩薩行を修め、それら十方の諸仏如来を供養し、無数の衆生を導いて、この上ない悟りの道を得させることができるようにましょう。そうした者は、通常の菩薩道を超え出て、諸地にふさわしい行が現われ(?)、普賢の徳を修めることができるようになるでしょう。それができぬようなら、私は悟りを開きません。」

 で、親鸞聖人は、主著の『教行信証』の第一巻をこう始めています。
 《つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。》(真宗とは宗派のことではなく、「真の教え」ということ。)
 けれども、では「還相」とはどういうことかについては、あまり立ち入って論じていません。
 《『論註』に曰わく、「還相」とは、かの土に生じおわりて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしむるなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて、生死海を渡せんがためなり。このゆえに「回向を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえに、と言えり」と。》(証巻)
 要するに曇鸞の言葉をただ引用しているだけです。
 どうしてもっとはっきり、「仏になったらこの世に生まれ変わり、衆生を済度するのだ」と言ってくれなかったのでしょうか。

      *      *      *

 スピリチュアリストなら、この「還相」という概念がどういうものかは、すぐにわかるのではないでしょうか。
 阿弥陀仏という高級神霊の慈悲によってこの世への生まれ変わりを脱し、阿弥陀浄土という「高級霊界」へ行き、そこでさらに修行を積む。そして自らが高級霊になれたら、再び地上という「汚辱の世界」へ生まれて、未熟な魂たちのために奉仕する。
 それは当たり前の話で、自ら血の出るような修行をしなくても、阿弥陀様の慈悲によって楽土に行くことができ、特別なお計らいによって「仏」になれた。つまり言わば「タダ」で成仏させてもらえた。だったら、仏になったら、他の未成熟な魂をやはり「タダ」で導きなさい、と。で、それは全部、阿弥陀仏の、というより法蔵菩薩の積まれた功徳のおかげ(回向)だよ、と。
 スピリチュアリズムの霊信でも、すでに地上で学ぶことはすべて終えた「成長した魂」が、さらに上の霊界をめざさず、地上に再生して人々を導くことがある、と言っています。それは純粋な「愛と奉仕」のゆえであったり、高級霊の要請によるものであったり、自己のさらなる成長を求めるためであったりする。その数は決して多くありませんが、マイヤーズ通信の言う「霊的な人」がそれにあたり、ブッダやイエスもその内の一人なのでしょう。

 ところが、この「還相回向」、近代浄土教学では全然違う解釈がされているらしい。浄土真宗の人に聞いてみると、たぶん十中八九、ものすごく難しくて頭がくらくらするような教学を説明されるか、説明自体を回避されるか、だと思います(私の経験はそうでした)。
 たとえば、ウィキペディアの「還相回向」の説明にはこうあります。

 《(意訳)「還相回向というのは、阿弥陀如来の浄土に往生して、止観行を成就し教化する力を獲得し、生死の世界、つまりこの世に還り来たって、すべての衆生を教化して、一緒に仏道に向かわせようとする力を、阿弥陀如来から与えられること。」
 ここで注意したいのは、これを単に、
 「浄土に往生した者が、菩薩の相をとり再び穢土に還り来て、衆生を救済するはたらきを阿弥陀如来から与えられること。」
 と解釈すると、浄土から帰ってきた霊魂のようなものを想定してしまう。学者の中にも、そのように理解している者もいる。
 しかし、妙好人の庄松(しょうま)が、「オラが喜んで捨てた「南無阿弥陀仏」を、拾うて喜ぶ者がおる」と端的に表現したように、還相回向を、念仏者の口から出てくる名号を聞いて、称名をする人間がいることを、阿弥陀如来のはたらきととらえ、自らが称えた名号を指して浄土から還ってきた相(すがた)と解する。こちらが浄土教における、還相回向の本来の概念である。》

 これ、わかりますか。(ちなみに「学者の中にも、そのように理解している者もいる」というのは、おそらくないでしょう。)

 まあ、それは仕方がないのでしょう。阿弥陀仏や浄土が“実在”すると主張することでさえ、近代の知性にとってはかなり抵抗があるものです。ましてや、「衆生を済度するためにこの世に生まれ変わってくる」などというのは、とてもとても……
 日本思想史の梅原猛さんは、「還相」を「生まれ変わり」だと素直に捉えて、次のように主張しました。
 《近代真宗学はこの二種廻向の説をほとんど説かない。それは当然ともいえる。なぜなら、科学を信じる近代人にとって、死後、浄土へ行くというのは幻想であり、その浄土からまた帰ってくるというのは幻想の上にまた幻想を重ねるようなものと思われるからである。しかし念仏すれば浄土へ行き、またこの世へ帰り、また念仏すればあの世へ行き、またまたこの世へ帰るというのは、人間は生と死の間を永遠の旅をするという思想である。》(「二種廻向と親鸞」朝日新聞、2005年9月20日)

 さすが梅原大先生、と思いきや、その後はこう続きます。
 《この思想は、個人としての人間を主体にして考える場合、幻想にすぎないかもしれないが、遺伝子を主体にして考える場合、必ずしも幻想とはいえない。遺伝子が生まれ変わり死に変わりして永遠の旅をしているという思想こそ、現代生物学が明らかにした科学的真理なのである。われわれの現在の生命の中には永遠といってもよい何十億年という地球の歴史が宿っているのである。》
 おっと、そっちへ行くかwww
 ……いや、失礼いたしました。
 確かに「魂の死後存続」すら「妄想」と言われるのに、「魂が高級霊界へ行き、高級霊となって地上に再生してくる」などというのは、「ご冗談を」どころか「ご入院を」と言われてしまうかもしれませんね。
 でも、ある意味では事実なんだから仕方がない……
 あわてて付け加えますと、梅原猛さんの文章の最後はこうなっています。
 《悪人正機説に甘える近代真宗学には、永遠性の自覚と利他行の実践の思想が欠如しているように思われる。二種廻向の説を中心として近代を超える真宗学を樹立することが切に望まれる。》
 「永遠性の自覚」というのは、本当は遺伝子のことではなくて、魂の永遠性の問題をおっしゃっているのでしょう(アカデミシャンであろうとする限り、それは言えない。タブーであるということです。だから遺伝子という“科学”的概念に寄り添おうとするわけでしょう)。また「利他行の実践の思想が欠如」というのは、「念仏で救われる」の対として「人に念仏を勧める」だけになっていやしないか、ということなのでしょう。そう捉えると、非常に真摯な批判だと言えるように思います。

 親鸞聖人がそのあたりをどう考えていたのか、それはよくわかりません。『歎異抄』にはこうあります。
 《浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。》
 やはりぼかしている。「仏に成った」ら、衆生を救う。その方法が書いていないのです。
 ご自身、生まれ変わりはあると思っていたけれども、それを真っ向から言うのは憚られたのか、それとも「それはどうかな」と疑義を持っていたのか……


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2 コメント

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追加 (高森光季)
2011-07-14 18:21:01
ある方から親鸞『高僧和讃』に次の一首があると教わりました。
 《願土にいたればすみやかに
  無上涅槃を証してぞ
  すなはち大悲をおこすなり
  これを回向となづけたり》
第20で、天親菩薩(世親、ヴァスバンドゥ)への賛歌です。
世親がこのようなことを言っているのかは小生はわかりません。
 「願土にいたれば」をちょっと除いて、「悟ったら慈悲が起こる。これを回向と言う」と言ったのでしょうか。
 注目は、「願土に至れば速やかに成仏する」という表現ですね。
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学びだしたばかりですが (ごー)
2012-01-16 09:56:46
そんな単純じゃない還相・往相の教義ですよ。
念仏のはたらき、それも複雑です。仏となりて衆生をというのも単純に想像の仏ばかりを考えていたら幻想でしょう。
 とりあえず間違いないのは行ったことのない世界のことなど確証も、真実も見えません。なのでスピリチュアルという霊的な存在も私にとっては戯言でしかありません。難しいですね。
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