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【「私」という超難題】(20) アイデンティティ:私は誰か

2012-09-05 00:29:49 | 高森光季>「私」という超難題

 「アイデンティティ」という概念があります。
 「自己同一性」と訳されます。
 いろいろな見方はありますが、一般的には「私が私であるという感覚、あるいはそれを保証するもの」というような使われ方をすることが多いようです。

 もう少し厳密に考えると、自己同一性という概念の中には、いろいろな相があります。

 ①同一性を保った自己の実在
 ②「自己同一性」の感覚・認知
 ③自己規定(帰属、分類、イメージなど)

 ①の「同一性を保った自己」は実在するかどうかという問題は、“解答不能”です。自己というものはそもそも定義できません(ここでもああじゃこうじゃ述べているように)。また、仮にある種の設定をしてもそこで「A=A」という同一律が成立する条件は設定できないでしょう。「実在」という概念も疑惑ですしね。哲学として延々たる議論をすることはできるでしょうが、あんまり成果は上がらないような気がします。

 ②の「自己同一性感覚」というのは、「私は私だ、昨日の私も明日の私も私だ」という感覚です。
 これを保証しているのは「記憶」です。私をめぐる様々な記憶があって、時間を推移してもそれは連続している。それによって私は私でいられる。
 だから、記憶がカバーできない範囲の自己同一性は怪しくなる。10歳の私はまあおぼろげに私だろうけれども、2歳の私はわからない。写真で見たり人から話を聞いたりして、「これ、お前だぜ」と言われるけれども、「ううむ」となる。
 あるいは、事故で記憶喪失になると、自己同一性感覚は危機になる。「私は誰だかわからない」というのは、自己同一性感覚を保証している記憶がないからです。「お前はお前だ、自分は誰だと問うているけど、その誰は何を意味しているのだ」などと問い詰めても仕方がない。
 乖離性(解離性)人格障害、つまり“多重人格”だと、「私」の記憶にはないのに、肉体としての私が別人格らしきもののもとで行動している。「私」の記憶がありながら変な行動をしてしまったというのとはわけが違う。これはアイデンティティの崩壊です。この病気は難解で、謎ですね。憑霊ということもあるかもしれないし、「当人の意識すらも騙されてしまっている詐病」かもしれない。

 ただ、重要なことは、
 「自己同一性感覚」と「自己同一性を持った自己の実在」とは別である
 ということです。自己同一性感覚を感じていなくても、それを失っていても、自己がなくなったわけではない。自己同一性感覚を持っていない2歳の私も、私であることは変わりない。眠っている時の私は自己同一性感覚をもっていないけれども、私である。
 自己は自己として、生まれてから死ぬまで、というか生まれる前から死んだ後まで、実はある。魂は実在するわけです。自己同一性感覚というのは、それを意識がきちんとモニターできているというだけの問題です。
 だから、たとえ認知症などで自己意識がはっきりしなくなっても、その人の自己は生きている。霊学的に言えば、「脳との接点が失われた」だけで、魂はきちんとその奥で生きて活動している。だから認知症の人の前で、当人にはわからないだろうからと、悪口を言うのはやめましょうね、後ろでちゃんと聞いているから(笑い)。

      *      *      *

 アイデンティティというものが一番問題にされるのは、③の自己規定とそれに関連する心理学的な「安心・不安」の問題でしょう。

 この問題に光を当てたのは、エリク・エリクソン(1902-1994)ですね(催眠のミルトン・エリクソンとは別人・無関係)。
 私事ですが、私は高校生の時、たぶんその頃話題になっていた彼の『アイデンティティ・青年と危機』という分厚い本を読んで、感銘を受けた記憶があります。ただ、まだ無知で読みこなせなかったせいか、内容はほとんど覚えていません。
 彼の概念は社会的に注目されたようで、その後、「アイデンティティ」とか「アイデンティティの危機」といった言葉はあちこちで多用されるようになりました(エリクソン本人は当惑していたそうですが)。

 心理学的な意味でのアイデンティティとは、「安定した、あるいは意味づけられた自己イメージ」と、それがもたらす安心感、あるいはその欠落による不安感の問題と言えるでしょう。

 それを保証するものとして、「帰属意識」というものがあります。
 つまり、「私は××に属している」という自己規定・イメージが、安心感をもたらす。
 日本人は集団主義的メンタリティがありますから、特にこの「帰属による自己規定」は重要視します。「私は○○商事の○○です」と自己紹介するし、自分に対しても同じことをする。で、この○○商事が、社会的に高評価されていれば、私もそれによって大きな安心・自足を得ることができる。
 また、外国で生まれたり育ったりした場合、帰属すべき「国」がわからなくなって、「自分はなに人なのだろう」という「アイデンティティの危機」が生じることも多いようです。

 ただ、こうしたことは「アイデンティティ」というよりは、帰属意識という方が適正だと思います。「お前は日本人としてのアイデンティティがあるのか!」などというのはちょっと不適切な表現で、「日本に対する帰属意識があるのか」という方が正しいでしょう。(帰属意識がないのは、忘恩という誹りは可能でしょうが、違法・悪とまでは言えないでしょうね。)

 馬鹿馬鹿しいと思う人もいるでしょうけれども、案外この帰属意識が心理的安心感をもたらすというケースは多いように思います。たとえば、宗教団体に加入する人は、必ずしもその教義とか修行とかに賛同するのではなく、その集団に属しているという安心感を求めている場合もあるようです。「群れる幸せ」でしょう。そして新興宗教集団はそれをうまく利用して教盛を拡大していくわけです。

 「帰属による自己規定」というのは、どうもベタで成熟していないものです。むしろ幻想とすら言える。「○○商事の○○」さんが、定年で会社をやめた途端、ものすごい空虚感に襲われるというような話はあちこちにあります。

 けれども、もう少し抽象化・洗練された形での自己規定というのは、人間には必須のもののようです。
 「私はこういう人間である」という自己イメージですね。

 (突然思い出した脱線ですが、一時、若者たち、特に女の子たちが「あたしって××な人だからー」という言い方をしていたことがありました。今はどうなのでしょう。えらく気持ちが悪いものでしが、あれ、どういうことなのでしょうかね。)

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 この「自己規定あるいは自己イメージ」は、人によって実に様々で、ポジティブなものもあればネガティブなものもある。ポジティブに働くものもあればネガティブに働くものもある。それによって踊らされたり苦しまされたりすることもあればそれによって覚悟や使命感を得ることもある。なかなか深い問題です。

 エリクソンは、青年期が「自己規定あるいは自己イメージ」を苦闘して確立するステージだということを書いています。これは考えてみれば当たり前のことで、それまでの「保護される子供」から「一人前の人間」になっていく時に、自分をどう規定するかは大問題になるわけです。
 そして、まだ幼児的ナルシシズムを引きずっているため、世の中が提示する「自己イメージ」は「糞」に思える。「自分はもっと素晴らしい存在だ」という思いが、より理想的な自己イメージを希求し、それを供給し得ない社会に、苛立ちや怒りを覚える。ごく自然で、誰もが通る道、通るべき道でしょう。

 この頃「自分探し」という言葉が流行っているらしいですね。時に揶揄的・批判的に使われることもある。
 でも若者が「自分探し」、つまり「自己規定あるいは自己イメージ」としての「アイデンティティ」を必死に模索するのは、当たり前のことだし、昔っからやっていることでしょう。
 「定職にも就かず、趣味や旅行をして何が自分探しだ」と憤る大人たちもいるようですけれども、それはそれだけ世の中が豊かになって、食うや食わずに終始しなくてもよくなったということで、いいことでしょう。いろいろな仕事や生活の可能性を探ることは、個人にとっても社会にとっても、素晴らしいことではないでしょうか。まあそれが「飽きっぽさ」の言い訳になってしまう危険性はあるにしても。

 脱線ついでに言えば、「居場所」という言い方も若者の間で流行っているらしいです。まあ、「家族や地域共同体の崩壊で人のきずなが失われている」という今更の紋切り型社会批判に乗っかって、マスコミがそういう表現をしている場合もあるようですが、もしかするとこれも、「自己規定あるいは自己イメージ」の欠落ということを表現しているのかもしれないなと思ったりします。「アイデンティティの危機」などという大仰な表現を用いるのもダサいので、「なんか居場所がほしい感じなんだよねえ」みたいなことになっているのかな、と。だとすれば、昔っからあることだということになるでしょう。
 (マスコミというのは、以前からあるごく凡庸な現象に、さも新しいことのような名前をつけて大騒ぎする悪癖がありますね。何か耳目を引いて売れればいいみたいなつもりなのか、単に勉強が足りなくて記者も一緒になって大騒ぎしているのか。まあ、マスコミが新語を出してきたら警戒する必要があるでしょうw)

 エリクソンの本で面白かったのは、「否定的アイデンティティ」とか「反社会的アイデンティティ」です。「私は××だ」という規定・イメージではなく、「私は××ではない」という形を取ることがある、と。それによって「俺は違うぜ、特殊だぜ」というある種の優越感を獲得し、自己イメージを維持するわけです。
 私は“アカピー”(朝日新聞およびその一派に対する2ちゃん罵倒語)などはこの典型ではないかと思いますね。
 彼ら“反体制的進歩的文化人”は、「日本の国家権力」に反逆し、「社会の既得権益集団」を攻撃し、「主流の大衆文化」を軽蔑します。「俺たちはそんなものには乗らないぞ」「もっと素晴らしいものをめざすんだ」というわけです。しかし、彼らは「今あるもの」を否定しているだけで、何かを創り上げるわけではない。具体的な行動を示すわけでもない。そして何より、彼らはすごく傲慢です。何も創っていない、担っていない(責任すら取らない)からいくらでも傲慢になれる。
 私なんかより年上の“ご老体”で、こういう「反社会的アイデンティティ」でずっと生きてきた人もけっこういるみたいですね。「俺は社会に飼い慣らされた存在ではない」と威張る。で、実態はいろんなことに文句を付け回っているだけだったり。中には「ルール無視」がカッコイイと勘違いしている老害もいる。
 しかし、「否定的自己規定」とは、結局「他に反対する」という、いわば他者依存の規定であって、他者をはずしてみたら中身自体は空疎だった、ということになりかねないような気がします。

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 自己規定あるいは自己イメージからも自由になるべきだ、という考えもあります。それが逆に自分を苦しめているのだ、と。そういう面もあります。
 禅なんかだと「あらゆるとらわれからの自由」を言うわけですから、そういう規定やイメージからも自由であるべきだということになるでしょう。

 《赤肉団[しゃくにくだん]上に一無位の真人有り、常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は、看よ、看よ》(『臨済録』)
 (われわれの肉体上に、何の位もない一人の本当の人間、すなわち「真人」がいる。いつでも眼や耳や鼻などの感覚器官を出たり入ったりしている。まだこの真人がわからないものは、はっきり見届けよ)

 あるいはクリシュナムルティの言葉。

 《精神が動機を持っていないとき、それが自由であって、いかなる切望によっても駆り立てられていないとき、それが完全に静謐であるとき、そのとき真理は、それ自体としてある。》

 そうですね。真の私は、自己規定あるいは自己イメージからも自由な存在です。私の人格に関わるすべてのものを捨て去った時に、そこに立ち現われてくる私こそが、真の私なのでしょう。
 そしてそれは達人のみならず、誰もが瞬間的であっても、経験してみるべきものなのかもしれません。
 ただ、その後どうするのか、という問題があります。特に他者に対して(「達人たちの仏教 ⑤悟りとその後」参照)。
 果たして、人は「真っ裸」で普通に生きていけるのか。

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 帰属といった他者依存ではなく、分類といった紋切り型のものでもなく、自己を自己なりに規定すること。
 ネガティブなものでなく、限定するものでもなく、自分が生きる覚悟となるような形で自己イメージを持つこと。
 これはけっこう重要なことのような気がします。
 平たく言えば、「私はキリスト教××派の○○教会に所属する人間です」とか「私はキリスト教徒です」といった外部的な規定ではなく、「私は神の愛を信じ、それを実践する人間です」という規定の方がいいものではないでしょうか。
 自分の魂の色合いを知り、どういう成長の道を歩むか、どうやって“神の創造”に参与するか、それはもっともよい意味での「自己規定あるいは自己イメージ」ではないでしょうか。
 それこそが、「私は私だ」と覚悟を決められるための鍵になるのではないでしょうか。

 さて、あなたは“誰”ですか?


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1 コメント

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新幹線男!?♪。 (電車男!?♪。)
2012-12-15 14:12:21
当然2ちゃんねらーの哲学の弱肉強食で一番強い者が正義と言う考え方は愛が無いと思うよ!?♪。
勿論2ちゃんねらーの愛用の思想の唯我論とか独我論は可笑しいですよ!?♪。
無論2ちゃんねるに反対するよ!?♪。
寧ろ2ちゃんねるを否定するよ!?♪。
多分スピリチュアリズムは最高ですよ!?♪。
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