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達人たちの仏教 ⑤悟りとその後

2011-08-08 00:03:51 | 高森光季>仏教論3・達人たちの仏教

 大きな仏教史の流れで見るなら、禅とは「瞑想による悟り」に特化した宗教だと言えます。
 これはもちろん釈迦の探究と軌を一にするものです。ただし、釈迦の「悟り」とは、「叡智を得、無明を脱することで、苦である輪廻を超え出る」というものでした。瞑想はあくまで手段で、関係がはっきりしないけれども他の様々な営為(禁欲[戒]や智慧[慧]や善行[正道]や)とあいまって、その先に悟りがある。初期仏教ではその悟りに達することは並大抵のものではなく、何億年という時間がかかるとまで言われました。大乗仏教では、「悟りを得て、輪廻を超脱すると、仏という神的存在になる」という説も現われました。
 要するに、悟りとはとんでもないことであるわけです。そこに禅は果敢に挑戦し、集中的な瞑想で今生のうちに達成できるものとしました。概して東アジア仏教は、一点主義と単純化が見られます。浄土教はその典型で、ついに仏教を破壊するまでに至りました。禅も、「瞑想による悟り」と「輪廻超脱としての悟り」を同一とみなしているわけで、かなりそれに近いところがあるように感じられます。
 もちろん、禅宗も「悟り」(「見性」)を濫発したわけではありません。「見性」を認められる禅僧は、ごくわずかだと思います(前回に記した「見性を認定されながら癌宣告で自殺した禅僧」の話は、そのわずかな「見性」認定の僧侶だったから、衝撃的だったわけです)。

 ただ、こうやって「悟り」を前面に出してくればくるほど、「では悟りとは何か」という問いを惹起することになります。
 もともとそれまでの仏教でも、「悟り」の明確な定義はありませんでした。自分たちの宗教が一番中心に置いていることを、明確に定義しないというのは、ある意味不思議なことですが、そうなのだから仕方がありません。いわく、「悟りは名状しがたい」「悟りはこういうものだと固定すること自体が無明」「自由な解釈を許すことで多様な現実・情況に対応できる力があった」……まあねえ。(西欧の構造主義批評家ならこれも「中空の構造」というでしょう。あ、仏教は空だったかw。)【注】
 禅も基本的には同じです。「不立文字」、言葉では定義できない。しかし、禅では、問答を通して、師がそれを判定できるとしました。その判断基準や判定プロセスは密義ですから、外部にはわかりません。とにかく師が「見性した」と認めれば、悟ったことになるわけです。
 しかし、一般の仏教では、悟ると「仏」になるわけです。とするなら、「見性」を認められた禅僧は、「仏」なのか。ずいぶん大それたことになりますが、臨済宗は、そうだと言った。「見性成仏」とはっきり言っています。(道元はそれを批判しましたが、「成仏とは何か」がわかりにくい教学になりました)。何度も繰り返して申し訳ないですが、すると、見性した僧が自殺したのは、「仏が自殺した」ことになるのか。(まあ、仏教というのは自殺に寛容なところがあるようですが。)

 でも、こういった批判はある意味では無意味です(あれ、変な表現かな)。というのも、悟りは定義できないのですから。輪廻を超えたかどうかの判定基準はなく、無明を脱したかの証明基準もない。ただ師が認め、自分も自覚すればよい。輪廻を脱したかどうかは検証しようがない。死んでみれば当人にはわかること。一般的な論議にはなじむものではない。
 しかし、それではあまりに曖昧模糊としてしまう。そこで「悟った境地とは」という表現が出てくる。不立文字と言いながら、禅はそういう場面では案外饒舌です。
 そこで出てくる穏当な表現が、「動じない、何も恐れない、落ち着いた心境」です。前に「仏教って何だろう・再び」で引いたある学者さんの
 《〔釈迦は〕ついにどんなことに出会っても、平静な気持で人生を送れる境地に達した。これが悟りである。》
 といった表現が出てきてしまうわけです。
 あるいは「何ものにも捕らわれない自由な心」という表現。
 《さとりの内容が種々異なって伝えられているにもかかわらず、帰するところは同一である。既成の信条や教理にとらわれることなく、現実の人間をあるがままに見て、安心立命の境地を得ようとするのである。》(中村元『ゴータマ・ブッダ』Ⅰ)
 ……。足りない。………………。

 まあ、近代という唯物論支配の中で穏当な説を立てようとしたら、こうならざるを得ないのかもしれません。仏菩薩だの浄土だのを問題にする必要はない。「心境」の問題である。
 とすると、近代で生き残れるのは禅だけかもしれません。

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 「自由な心」というのは、禅の真骨頂なのかもしれません。
 臨済録などを読めばわかるように、禅では固定観念を次々に破壊していきます。「○○は××だ」と思っていること自体が捕らわれである。無明である。そういったすべての既成観念を捨て去ったところに、真なる純粋体験としての悟りがある。
 まさしく「仏に遭うては仏を殺し、始めて解脱を得ん」です。
 これは瞑想の内的体験に沿う論理です。瞑想の中で、すべての存在(宇宙)は「知覚体験」に変換されます。そしてその知覚体験を「無自性=空」として観じていくと、存在は融解し、従前の構造は破壊され、そこに新たな、超越的な知覚世界が生じます。そしてこれを突き詰めていくと、(おそらく)「一則多、多則一」「色即是空、空即是色」といった言葉で表現される知覚世界、すべての弁別・対立が消失し自己も世界も区別がなくなる「純粋体験」「非想非非想処」の境域に到達します。
 そこは当然、何かを信じたり、何かを恐れたりすることのない世界です。この境域を現世に投射すれば、「どんなことに出会っても平静な気持ちで人生を送れる」「既成の信条や教理にとらわれることなく、現実をあるがままに見て安心立命の境地を得る」ということになるのでしょう。
 絶対自由こそ悟りだ。これはこれで、素晴らしい考え方だと思います(これを「悟り」と定義することには私はちょっと賛成しかねますが)。
 人は生きているといいながら、実は様々な捕らわれの中にいる。真の自己を見いだすには、その捕らわれを脱して、自らの主体的働きによって、その奥の真実を見つけていかなければならない。
 臨済録の超有名な言葉で言えば、
 《随処に主となれば立処みな真なり(随処作主立処皆真)》
 考え、感情、思想、信条、そういったものの奴隷になるのではない、自分が主となれば、至るところに真実が現われる。
 (ちなみにこういった考え方・実践は、若者の教育としても意義があるのではないかと思います。人の考えに頼るな、自分で考えろ、精神の自由を求めろ。これはある発達段階の人間には有益なものだと思います。)

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 禅宗僧侶ではありませんが、このような境地を生きた達人がいます。近代の聖者ジッドゥ・クリシュナムルティ(1895-1986)です。『生と覚醒のコメンタリー』から。

 《ただひとりある者だけが、原因を持たないもの、不可測のものと交わりうる。ただひとりある者にとって、死はない。ただひとりある者には、終りはありえない。》

 《あるがままの真理を見ることの中にのみ自由があり、そして知恵は、その真理の知覚である。あるがままは決して静止的ではなく、それを受動的に注視するためには、あらゆる蓄積からの自由がなければならない。》

 《あなたがそんなに閉鎖し、束縛されていたら、果たして助けがあなたに届くだろうか? あなたの心が開かれていれば、鳥のさえずりから人の呼び声まで、草の葉から天空の果てしない広がりまで、あらゆるものの中に限りない助けがある。》

 《精神が動機を持っていないとき、それが自由であって、いかなる切望によっても駆り立てられていないとき、それが完全に静謐であるとき、そのとき真理は、それ自体としてある。》

 まるで禅語録のようです。しかも美しい言葉です。
 そしてクリシュナムルティのモットーは「私は何も信じない」です。

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 この話題は、ついこの間このブログで書いたこととつながってきます。
 「ケン・ウィルバーの「今ここ」主義批判」です。

 《反実在論は、釈迦に淵源はありますが、大乗仏教になって、さらにそれを敷衍し、中観や唯識の哲学が花開きました。それは、現実を解体し、私を解体し、輪廻を解体し、魂も仏菩薩も浄土も解体していきました。
 そこに残るのは、「体験」です。ただし主体-客体といった分節もない「純粋体験」。そこに立ち現われる現実世界や高次他界は、「実在」や「存在」の問題ではなく、すべて「体験」(性質=境域の高低はあるのでしょうが)の問題になるわけです。
 そしてそれが「現在の生」の中で起こっていることだけは否定できないので、結局、「今ここ」にならざるを得ない。そうすることによって、「超越者」「この世とは別の他界」は見事に捨象されます。》

 そう、もはや死も死後生も他界も輪廻も、問題ではなくなるのです。すべてが「今ここ」の中に融かし込まれているのですから。

 こうした世界観というか哲学というか思想というかは、論駁できるものでも論破できるものでもないでしょう。人はどういう世界観を持つことも自由ですから、こういう方向に行きたいのなら、それでいいと思います。
 ただ、前にも述べたように、そこで問題になるのは、「他者」です。こうした世界観は、いわば「独我論」に近いものになります。そこには「他者」は存在しない。
 (ちなみに言えば、スピリチュアリズムが示す「他界」は住人がたくさんいていろいろなことを発言する世界ですが、内的体験派の「他界」にそういった「他者」がいるようには思えません。)
 クリシュナムルティは相談にやってくる人を受け入れていますが、決して他者に共感したり寄り添ったりすることはない。相談者のありようが彼の「真理の世界」にどう映るかを伝えるだけです。がっかりして帰る人もいれば、それに目を開かれる人もいる。決して悪い意味ではなく、それで彼にはいいわけです。(でも何で彼は本を書いたのですかね。)

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 そしてこのところが、禅のある種の弱みとなるようです。
 ある禅僧は「悟りへ行く“往相”の思想はあるが、この世へ帰る“還相”の思想、慈悲の思想がないとよく批判される」と述べ、「私自身も常々それを感じている」と素直に告白しています。禅修行だけしていて、自分が悟ることばかりで、他者への慈悲、菩薩行がない、と。
 でも、いいのではないですか、という言い方もありだと思います。もともと釈迦の求道は、いかにして自己が輪廻を超脱するかというものでした。「梵天に説得されて」教えを説いて人々を助けるようになりましたが、晩年は「私は誰も教えたり導いたりはしていない」「それぞれ自分と法を拠り所として探究の道を進みなさい」と言っているわけで、これも何度も言っていますが、初期仏教に慈悲の思想はないのです。(末木文美士氏も「原始仏教以来、慈悲ということが説かれるが、それは必ずしも理論的に必然的なものとして基礎づけられていない」と言っています。『思想としての仏教』110頁)
 そんな馬鹿なとおっしゃる方もいるかもしれませんが、慈悲というのは自明の前提ではありません。なぜ人を救わなくてはいけないのか。人を救うことは本当にできるのか。それを悟りの探究と同じ程度の深度で考究したことがありますか。霊的事実をしっかりと見れば、ヒューマニズム的な「他者救済」などということはおいそれと言えるものではありません(奉仕は別の話です)。
 いいじゃないですか。人は自由意志を持っているのだから、その応果を引き受ける気なら、何をやってもいいわけです。全員が「衆生救済に献身しなさい」というのはファッショです。

 だから、禅者は、勝手に求道して、勝手に悟ればいいのです。インドと文明が違うため無条件の喜捨はもらえませんが、禅宗では自給自足、「一日なさねば一日食らわず」で、経済的にも自活して閉じているわけですから、衆生に教えを説いて、その代わりに食糧をもらうという必要もないでしょう。(もちろんこれは原理的な話ですが。)
 で、たまには俗世にひょこっと出てきて、豪放闊達な禅問答で一般人を驚かせて楽しむ、とか(笑い)。

 ここで、密教も含む、宗教の達人は、他者にどう対するのかという問題になっていきます。そしてそれは達人だけではなく、宗教者全般にも拡げるべき問題だと思われます。

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【注】ノートをひっくり返していたら、こういうものが出てきたので、追加しておきます。

《仏教の歴史を通じて、出家であれ在家であれ仏教者たちは、禅定もしくは三昧に入るように修行し、禅定や三昧において仏教的真理を知る知恵を得、悟りを悟っていたと考えられる。禅定や三昧によって表層意識を消滅させつつ深層意識を自覚化していき、最深層意識をも消滅させると同時に、彼自身の実存においてあらゆる衆生にゆきわたる根本真理を知る知恵を得、悟りを悟ったのである。したがって悟りとは、そのようなしかたで自我的な人格から解脱して自由になり、衆生に対して無礙(むげ)自在にはたらく新しい仏菩薩的人格へと生まれ変わることであるといってよい。》(CD版平凡社世界大百科事典、「仏教におけるさとり」荒牧典俊)

まあ事典の記述ですから致し方ないのかもしれませんが、私には正直こういう言葉は観念的大言壮語にしか聞こえません。

 


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3 コメント

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他者 (今来学人)
2011-08-08 14:52:20
たった2日ですが大槌町でボランティアしてきました。現に生存している方であれ、(またお亡くなりになった方であれ)、他者へのニーズに応じた活動が求められているようですが、実際、現場に立つと灼熱の太陽の下、厚着で泥掻きをするためか私自身朦朧としながら何も考えることが出来ない状態になっていました。そのため反省すべき点が多々ありました。横倒しになった墓石に乗っかりながらの泥掻き、または休憩中、墓場の一区画内での休憩、これは故人や参詣者にも不快な思いを抱かせたかもしれません。

達人ならばどうしたのか。先人のことばを聞いてみたい。私も癌の宣告を受けたら自殺するかもしれません(笑。

しかし今回の活動では女性人の活躍が目覚しく、また逞しくもありました。私を含め「ガンバレ男たち!」と言いたい。
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ちなみに (今来学人)
2011-08-08 15:09:34
今回の主催者からは事前のオリエンテーションで次のような説明がありました。老人ホームなどに行くボランティアは自分のためになるもの、災害ボランティアはあくまでサポートに過ぎない、と。私は確かに理念としてはそうなんだろなと思いましたが、災害ボランティアの場合も暗に「自分のため」というか経験値を積むための場ではないかと感じざるを得ませんでした。

主催者も実際に我々の住んでいる町でこのような災害が起こったときにどういう対応をすべきなのか現場から学びたい、という旨の発言もありましたし、また参加者はよい経験となったという発言も多々ありました。いや、ほんと細かいことなんですが、やはり無私無欲のような立場ってほんとに難しいのではないかと思った次第です。

高森さまならどのようにお考えになりますか?
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Unknown (高森光季)
2011-08-13 23:05:47
ご返答が遅れてすみません。ちょっと自分なりの“夏安居”に入っていた(いる)もので。
ボランティア、お疲れ様でございました。良い体験をされたようで、おめでとうございます。

愚生の考えなぞ別にございません(笑い)。「自分のためにやる」というのが、一番穏当なあり方なのではないでしょうか。……ちょっと頭が働きません。すみません。


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