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【「私」という超難題】番外編 私中心に戻る?

2012-09-01 15:12:20 | 高森光季>「私」という超難題

このシリーズの「(14) 現実認識・自己認識と無力感」で、こんなことを書きました。

 《現実というのはとてつもなく巨大で、われわれの知ではとても把握・理解できるものではない。
 自己客観化を突き詰めていくと、自分というものが、とてつもなく小さな存在で能力も可能性も限定されていることを知る。そこでしばしば出現するのが、「無力感」です。
 だって、私などというものは数十億の人間の「1」に過ぎないし、できることはたかが知れている。何かを成し遂げたとしても、数十年(今は数年かな?)後には「つわものどもが夢の跡」になっている。
 いったい何をなし得るのだ、なしたから何だと言うのだ、と。》

 たまたま目にした記事に、このあたりの感覚の実に率直な吐露がありましたので、引用します。


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人生という名のインターネットはむずかしい:小関悠:BLOGOS

(抜粋)
インターネットむずかしい。最近ほんとうにそう思ってます。インターネットはどんどんむずかしくなっている。
ウェブ2.0というトレンドが生まれて、個人が情報を発信して、個人が能動的に情報を取捨選択するようになった。……個人が個人として声をあげられる。すごい。
ただそうやって、色々な人の生活や行動様式が見えるようになって、人生をどう生きるかという指針はむしろ見えづらくなったように感じる。情報量が増えて……個人のさまざまな生活が明らかになって、人との比較を意識しながら生きることが求められるようになった点かもしれない。
……インターネットにはたくさんの読書家がいて、まあなんというか、この人これだけたくさん本を読んでてどうしてこうなっちゃうの、という人も少なくない。同じような例で、名門と言われる大学を出ておいてダメな人とか、一流と言われる企業で大変そうな生活の人とか、インターネットにはそういう人達がたくさんいる。反対に、たとえば大学をドロップアウトして成功した人とか、全然だめな生活を送ってるのに楽しそうな人とか、そういう人生も見つけられる。
……上には上がいて、下には下がいる。そういうことはみんな知ってるつもりでも、偉人の伝記を読むのとは違って、今日ではソーシャルメディアを通じて、一人一人のリアルが伝わってくる。……
……今日も誰かが成功して持ち上げられ、誰かが語られることなく失敗していく。それを読んでいる自分。インターネットは、自分が凡庸であることを再認させる装置となりつつある。自分はインターネットになにかを残す価値があるのだろうか。この毎日はガイシュツではないだろうか。この生き様はブックマークを集めるに足るものだろうか。〔引用者注:ガイシュツは「既出」の誤読ジョーク〕
……これほど人のリアルが蓄積されていて、私はそれをどう活用すればいいのか、ましてやそこになにかを足すことなどできるのかと。
そういうわけで、けっきょくのところ他人はさておき、好きに生きるしかないという凡庸な結論に辿りつきつつある。他人は他人、自分は自分で、好きなことを見つけて生きていける人達は強い。いつでも他人の声を聞けるようになった今、他人の声に耳を傾けない(こともできる)人が強いというのは、なかなか面白い。あるいは、自分の行動や発言が凡庸かどうかを気にしない人は(多少疎ましいことはあっても)強い。……
インターネットに存在するリアルなあれこれに悩むより、リアルそのものを楽しむためのインターネットという風に頭を切り替えるべきなのだろう。インターネットなんて結局はツールなんだから。重要なのは人生のほうじゃないか。いや、でも、インターネットはそれ以上のものだったのではないか? そんな簡単に切り替えられるだろうか。インターネットはむずかしい。

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 まあ、“凡庸”への恐怖が強すぎるとか、「上・下」「成功・失敗」にこだわっているとか、いろいろツッコミどころはあるでしょうけれども(わざとそうしているのかも)、率直な心情吐露で面白いですね。

 「けっきょくのところ他人はさておき、好きに生きるしかないという凡庸な結論に辿りつきつつある。他人は他人、自分は自分で、好きなことを見つけて生きていける人達は強い。」
 要するに凡庸であること(価値や力がないこと)を認めて、他者と比較せずにやりたいことをやる。それはいたって真っ当な結論だと思います。
 これは幼児的ナルシシズムではないですね。
 改めて、自己絶対に戻ること。単なる幼児的自己愛ではなく、現実認識や自己客観化という鍛錬(ある意味自己否定)を経て、再び自己に戻ってくること。
 そして淡々と自分の現実を生きること。それが達人の人生かもしれません。それを本当にできる人はすごいのかも。

 上記の(14)を書いた後、このテーマ(「自分が好きなように生きる」)についても書こうと思ったのですが、ちょっとうまく表現できないところが多かったのでやめました。その時のメモの中から。

 「随所に主と作(な)れば、立つ処(ところ)自ずから真なり」
 『臨済録』にある禅の叡智の言葉です。
 手前味噌に解釈すれば、肉体や心に振り回されない「真の私(霊の私)」となり、その私が絶対的な主体であり主人公であると体得すれば、その私が体験し、その私に起こってくるすべてのことは「真実」である、ということになるでしょうか。

 本当に「自立自由」「随所作主」になるためには、自己がなにがしかの「超越」に開かれていなければならない。わざわざ臨済大師がこういうふうに言っているわけですから、「随所作主」は簡単ではない。自己が自己で閉じていると、自己は肉体や心に振り回されます。それを「芯を通す」には、「もうひとつ上の視座」がないと難しい。そうではないでしょうか。


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