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【「私」という超難題】(16) 自己と自己を超えるもの

2012-08-30 00:58:48 | 高森光季>「私」という超難題

 「無力感・ニヒリズム」とか「世界への意志・使命感」といったことを書きましたが、現実的にはこういうことは、やや特殊というか、あまり関係のない人も多いのかもしれませんね。
 自分のことで手一杯、自分の欲求を満たすことで手一杯の人にとっては、そんなことは関係のないこと、いやむしろそんなのは暇人の戯言、となるのかもしれません。
 (そう言えば、この頃ニヒリズムという言葉をあまり聞かなくなったような気がします。近代思想にとってはけっこう大きな問題だったのですけどね。それを言うこともなくなったくらいニヒリズムが拡がったのかも。違うかな?)

 ただ、「世界への意志」や「使命感」を、「それも我欲でしょ」と言うのは、ちょっとそれは違うだろう、不当な貶めだと言っておきたいと思います。
 芸術家が美を、智者が真理を、求道者が善を探求するのは、我欲ではない。「自己実現欲求」ですらない。それは「自己を超えたもの」です。

 ブータンの「農業の父」と呼ばれる日本人農業家・西岡京治さん(1933-1992)は、自らが持っている知識・知恵・力を総動員して、ブータンの農業振興に尽くしたすごい人ですが、おそらく彼を動かしたのは、自分が崇拝されようとかいった我欲ではなく、また「貧しい人たちがかわいそうだから」というような感情でもなく、「そこに良い農業を実現しよう」という思いだったのではないかと思います。自分が学んできたことが、ここでこそ素晴らしいものとして立ち現われる。内なる理想イメージを、ここに具現したい。それこそ「世界への意志」「使命感」だと思うのです。こういう思いを「我欲」だと貶める人は、何かを間違えていると思います。

 人間には、自己の中に自己しか持っていない人と、自己の中に自己を超えるものを持っている人がいるのかもしれません。

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 やっぱり、近代の唯物論、唯物論的世界観というのは、非常にまずいものだと思います。
 それは「超越」を消除してしまうからです。「超越」とは当然「形而上のもの」で、近代哲学・思想はそれを排除してきました。
 しかし、「価値」も、「倫理」も、「使命感」も、「超越」がなければ成り立たないと私は考えています。
 それらがなくなれば、人はただ「我欲」に生きるものとなるでしょう。
 (かろうじてその代理となっているのが「歴史」とか「社会」という観念でしょうか。歴史に名を残すとか、社会に貢献するとか。もっともそれも今では相対化されたり影が薄くなったりしているようです。)
 我欲のみに生きるのは、ケダモノと同等ではないでしょうか。いや、それ以下か。動物たちはたぶん「集合霊」と交信しているから。

 突然思い出したので話が完全にそれますが書いておきたいのですが、昔、たぶんNHKの野生動物ドキュメントで、アフリカの象のことを追求したものがありました。その象の集団は、なぜか忘れましたが、季節的に大移動をする。ところがその道程はけっこう苛酷で、水場が少ない。その年は特に旱魃気味で、象たちは子供を連れての移動の途中、渇きに苦しむ。子供たちはそれこそ瀕死の状態になる。
 そこで象たちが取った行動は、不思議なものでした。
 彼らは突然、目的地へのルートをはずれ、藪のような場所へ向かいました。
 そこは、彼らの群れにとっての「墓場」でした。死期を悟った象はそこへたどり着き、死ぬのです。乾いた大きな骨が散乱していました。
 しかし彼らは死ぬために来たのではありませんでした。
 彼らがやったことは、そこに散乱している死者たちの骨を、足や長い鼻で蹴散らすということだったのです。砂が舞い、骨は跳ねました。
 ナレーションは「意味不明の行動」と言っていました。
 ところが、その後すぐ、雨が降り出したのです。
 水場は復活し、彼らは無事に旅を続けました。
 これを見た時、私は鳥肌が立ちました。
 彼らは雨乞いをやった。それは死者たちに激しく訴えかける行為だった。そして死者たちはそれに応えた。
 ほとんどの人は「偶然」と言うでしょう。しかし何のために彼らは寄り道をして墓場に行ったのでしょう。
 (これ、NHKに行けば探して有料で見せてくれるでしょうかね。)

 ま、「妄想」と言われそうな余談でした。でも、動物たちはけっこう“霊交”しているような気がしますけどねえ。2ちゃんねるの心霊話でも、犬や猫同士のそういう話はかなりありますし。

 ん? 何の話かわからなくなりました。

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 脱線ついでに言えば、これまでも「仏教って何だろう」のシリーズでいろいろと言ってきましたが、「超越」を排除した“近代仏教”は、やっぱり自殺行為だと思わざるを得ません。
 この“近代仏教”は、輪廻を否定し、仏菩薩の実在を否定し、浄土を否定し、そして「私」を否定した、実に奇妙な思想になってしまっています。
 「輪廻超脱」や「仏菩薩になること」という「目標」を否定してしまったら、残るのは「精神衛生学」「心理学」でしょう。「苦悩を超えた生き方をめざす」というのは、結局のところは心理実践に過ぎません。

 宗教とか(近代以前の)哲学というものは、つまるところ、自分(人間)を超えた「超越」とどう切り結ぶかを問題にしたものであって、「苦しみを克服すること」とか「楽に(という言葉が悪ければ平静に)生きる」ことをめざしたものではない、少なくともそれらは副次的な問題だったと思います。

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 「超越」をどのようにつかまえるのか。
 これは難題です。物質のように誰もが合意する客観的基準はない。それぞれに顕われる超越は違っている。
 もちろん捉え間違いもあるでしょう。非常に低劣な思念を、「これこそ超越だ」と勘違いしてしまうこともあるでしょう。飾り立てばかりで内容のない思想に惑わされることもあるでしょう。
 だからといって「超越」がないとか、考えたり論じたりするのは無意味だということにはならないはずです。
 われわれは袋小路や迷路に入り込みながらも、悪戦苦闘して自分なりの「超越」を見いだそうと努めていくしかない。

 「自分を超えたもの」のために「自分」を捨てることはいいことなのか。
 これも難題ですね。簡単には言えない。
 イエスさんは、「自分を超えたもの」のために自分を捨てた(まあこれは人間イエスという視点からの捉え方ですが)。「神の国(高次の秩序)」を来たらせるために、宗教権力に突撃した。そして虐殺された。自分の過去エントリからの引用で恐縮ですが、

 《一次イエス(ガリラヤのイエス)は、治病と説教を通して、「神の秩序」が地上に拡がることを願った。そして二次イエスは、刑死したのち復活することで、生命は死で終わりではないことを示した。これは分裂した主題だが、前者の「現世的価値を超えた神の秩序がある」ということを示すためには、「死は終わりではない」ということを示す後者の行為は意味があった。
 これはあらゆる宗教が直面する難題である。宗教は、現世を超えた世界・価値が実在することを言い立ててきた。だがそれを根拠づけることは非常に困難なことである。イエスは体当たりでそれを突破しようとした。》

 教祖様がこういう死に方(生き方)をしたので、後のキリスト教も「殉教」を美徳としました。
 シニカルな現代人からすれば、「アホやん?」ということになるかと思いますが、これを愚行と断ずる権利は誰にもないでしょう。するにはするなりのことがあるだろうし、しないにもしないなりのことがあるだろう、どちらもその人の選択、ということではないでしょうか。

 「殉教」を全否定しないと、「じゃあ自爆テロも同じか」という問いが出てきます。
 爆弾を抱えて敵に突っ込む、ということですね。最近はイスラーム世界で起こっています。
 とてもデリケートな問題です。ひとつ言えることは、「殺人」は特殊なケースを除いて、やはりまずいだろう、ということです。思想信条のために殺されるのは自由だが、殺してはいけない。
 ただし特殊なケースがあって、それは「戦争」状態の場合(特に戦闘員同士の場合)でしょう。
 戦争自体は人間の愚かさ・未熟さが招くものであることは確かで、「戦争反対」は人類の普遍的な目標だと思いますけれども、その現場においてはそういう原理論は通じないことが多々ある。「敵の侵略」に対して、命を賭けて同朋や社会を守るということは、やむを得ないどころか、立派な行為であることもあるわけです。
 旧日本軍の特攻隊も、その作戦自体は忌むべき愚劣なものであったかもしれませんが、そこで死んだ人たちを愚かだと言う権利は誰にもないでしょう。強制されていたとか、騙されていたとか、いろいろな面はあるでしょうが、あの方々の多くの胸には、「国を守るために死ぬ」という覚悟があったはずです。それは「超越」への自己投企であって、人間の本性にある聖なる意志だと思います。(もうひとつ、彼らが命を賭して守ろうとした「国」を、今のわれわれはどう捉えるのかという別の倫理問題もありますが、それはまた別の話として。)

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 なんかずいぶんあちこちに行きましたが。
 「超越」という問題は難しい。正しい答えなど永遠に出ないものかもしれない。
 でも、「超越」というものを失ったら、人間は大変なことになるのではないでしょうか。


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