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【「私」という超難題】(14) 現実認識・自己認識と無力感

2012-08-22 02:21:39 | 高森光季>「私」という超難題

 現実認識や自己客観化が魂の成長にとって必要という話を書きましたが、これをあまりに突き進んでいくと、どうも窮状に陥ることがあるように思います。
 現実というのはとてつもなく巨大で、われわれの知ではとても把握・理解できるものではない。
 自己客観化を突き詰めていくと、自分というものが、とてつもなく小さな存在で能力も可能性も限定されていることを知る。
 そこでしばしば出現するのが、「無力感」です。
 だって、私などというものは数十億の人間の「1」に過ぎないし、できることはたかが知れている。何かを成し遂げたとしても、数十年(今は数年かな?)後には「つわものどもが夢の跡」になっている。
 いったい何をなし得るのだ、なしたから何だと言うのだ、と。

      *      *      *

 ニーチェの言葉にこんなものがあります。

 「人間は幻想のヴェールに包まれてのみ行動することができる。」

 「これが絶対だ!」「これですべて解決だ!」という幻想を持つことで、人は熱情を持って行動する、ということでしょう。
 でも、実際には絶対だと言えるものはなく、すべてを解決するものもない。現実認識や自己客観化はそれを明らかにしてしまう。それは行動する情熱を削いでいく。
 現実を深く知れば知るほど、行動することができなくなる。行動の無意味さが明らかになってくる。自己客観化すればするほど、己れの存在は小さくなり、無力感が増大する。

 「世界の困っている人たちを支援しよう」という高邁な理想で、情熱的な行動が生まれます。けれども現実は苛酷ですね。飢えている人への支援物資を官僚が横取りし、他所で売り捌いて金や宝石を貯め込む。マラリアを防ぐために除虫菊成分を練り込んだ蚊帳を無償供与したら、男たちがそれを魚獲りの網にしてしまった。泥水の濾過装置を備えた共同水場を作ってあげたら、皆がその蛇口を盗んで金に換えてしまった。水を保持するための植林をしてもすぐに薪にするため伐られてしまう。学校を建ててあげても教師がいないから運営できず、官僚が建物を企業に貸してその金を横領するだけ。そんな話ばかりで(もちろん成功例もちょぼちょぼとありますけれども)、「もう勝手にせいや」という諦めがあちこちに生まれている。今の2ちゃんねらーなどはこういう「美化する報道」が取り上げない「ぶっちゃけ現実」の情報を知り過ぎていて、かなりシニックというかニヒリスティックになっているようです。

      *      *      *

 レベルが全然違うと言われるかもしれませんが、関連して思い出すのが、お釈迦様の「梵天勧請」の話です。
 以前のエントリから自己引用。

 さとりを開いて後、ブッダはしばらく躊躇する。
 《「私のさとったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。……私が理法を説いたとしても、もしも他の人々が私の言うことを理解してくれなければ、私には疲労が残るだけだ。」……何もしたくないという気持ちに心が傾いて、説法しようとは思われなかった。》(『律蔵』など)
 釈尊伝は、その後に有名な「梵天勧請」という神話を述べる。梵天が出現して、ブッダに教えを説くように促したというものである。
 ……ある見方をすれば、他者に教えを説くというのも、ひとつの欲望であり、苦の原因である。他者への愛は、どれだけ純化されても欲であり、苦を伴う。「もしも他の人々が私の言うことを理解してくれなければ、私には疲労が残るだけだ」というブッダの感想は、異様に正直なもののように思える。

 「人に説いたってわかるものじゃない。そんなことは余計なこと、虚しいことだ」と思った。というか、それぞれの魂はそれぞれのカルマを抱えているから、ちっとやそっとのことでは「脱輪廻」などはできるものではない、と認識したのかもしれません。
 これは「無力感」とも言えるものでしょう(もっと高尚なものだと言う人もいるかもしれませんが)。
 でも、お釈迦さんは説法を始めた。どうして?
 「梵天(最高神ブラーフマン)」が説得したからだ、というのが「梵天勧請」の神話です。こういう神話で説明するしかなかったほど、この「転回」は意味不明なことだったとも考えられます。(“慈悲”からだという説明は当時にはありませんでした。)

 ついでに言えば、イエスさんも、無力感と無縁だったわけではないでしょう。
 「種はあちこちに蒔かれるけれど大半は枯れるよ」と嘆き、自分たちの活動を意に介さなかったテュロスやシドンの民に「地獄に堕ちても知らんぞ」と呪い、「真実は人々が押し寄せるような有名なところではなく、誰も知らないようなところ(狭き門)にあるんだがね」と皮肉を言い、「誰もが踊ってくれと笛を吹いているが誰も踊りはしない。俺もそういう笛吹きの一人かもな」と苦笑する。
 それでも彼は「俺は今日も明日も、病人を癒してまわる」と意気込んだ。「神の国」を地上に来たらせようと悪戦苦闘した。

 彼らには、「梵天」や「我らの父」からの絶対命令があったからでしょうか。

      *      *      *

 人間は個人的存在であり、小さな、無力な存在である。
 そこでニヒリズムに陥ってしまうのか。

 ニヒリズムに陥ってしまっても、誰もが死ぬわけではありません。「生きる意志」はほとんどの人にあるからです。
 じゃあ、ニヒルに生きるか。やりたいように、好き勝手に(ある意味では幼児的ナルシシズムに戻って)生きるか。
 そうする人もいるかもしれません。でも、違うニュアンスの人もいるでしょう。
 人間には「無力感」を超えて、動くものがあるから。
 それは、「世界への意志」とでも言うべきもののように思います。
 そのあたりのことは改めて。


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2 コメント

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初めまして ()
2012-08-26 03:08:00
「無力感」を超えることができるものは「使命感」ではないか。。。と私は思っているのですが、高森さんはどうお考えになりますか。
次回「世界への意志」楽しみにしています。
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葵様へ (高森光季)
2012-08-26 14:21:50
コメ、ありがとうございます。
おっしゃる通り、「使命感」なのかもしれません。
ただ、使命感にもいろいろあって、中にはヒステリックな政治運動を作ってしまうものもある。そのあたりがまだよく見切れていません。ちょっと熟考してみます。
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