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Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

食料自給率と農民④

2009-01-16 12:29:11 | 農村環境
 食料自給率と農民③より

 これまで食料自給率向上に向けた取り組みがまったくなかったわけではないだろう。しかし野党の追及はもちろんのこと、マスコミなどからも食料自給率のことが頻繁に報道されることにより、その数値40%というものは多くの国民が認識するところになった。したがって国も更なる対策をせざるを得ないというのはもちろんのこと、具体的に数値を上げる施策に平成21年度は向かっていくことになるのだろう。容易にはその数値が上がらないと言ったが、とりあえず目に見えてくる行動をとろうとしているのは来年度予算の農林水産省の方向を見れば明確である。報道でも聞いている人が多いだろうが、米粉の利用増大に向けた取り組みが始まる。前回までに触れてきたように、穀類の自給率は極めて低い。麦類の生産を上げられないとなれば、常に余剰米として問題になる米の利用をするのが手っ取り早いことは事実である。

 平成21年度予算に上げられている重点項目を見ると次のようものが上げられている。
 ①水田等の有効活用による食料供給力向上対策
 ②米粉・飼料用米粉の飛躍的利用拡大に向けた供給体制の整備
 ③飼料自給率向上対策
 ④国産野菜・果実等の利用拡大対策
 ⑤耕作放棄地解消対策
 ⑥食料自給率向上、食品廃棄物の発生抑制等に向けた情報発信

以上6点の国内における食料供給力の強化を前面に掲げている。穀物の問題、そして飼料のこと、食品廃棄物の発生抑制のこと、どれもこれまでわたしが触れてきた問題を掲げている。したがってこれらの対策を行うことで、現実的に数値が向上していくと考えられるが、農業農村の課題を解決できるものではない。そして現実の問題の中で果たして可能なのかというものも見受けられる。
耕作放棄地が増えてきた背景には、耕作不利地においてまず放棄が始まった。今やその放棄は不利地でなくとも増大している。不利地で放棄され始めると、付随して耕作地にかかわる環境が悪化していく。例えば用水路を使わなくなって崩壊していく。道路も同様である。国は災害復旧において耕作放棄地については復旧不要という線で査定してきた。そうした流れでどんどん環境が悪化していった。これらを元に戻すのは容易ではない。農林水産省の拡充事業には、中山間地域の小さな集落の耕作放棄地も可能な限り解消に向けたいというものがある。それがために耕作放棄地があれば補助金を出して再生されることを条件にハード事業を認めるというものだ。まったくもってこれまでと相反するような視点がある。なりふり構わずに食料自給率アップを目指そうというのだ。農民の心などそこには関知されていない。地方のリーダーは、ここぞとそうした事業へ飛びついて悪役の公共事業に手を出したりするが、地方のリーダーの多くは課題の本質を見抜いていない。

 いずれにしても食料自給率という数値に目標をあげて取り組むというものだから、その目標を達成できなければ無駄な補助金利用ということになりかねない。これらを会計検査院が調べていくわけだから、上げざるを得ない。ということで食料自給率はおそらく上がることになるのだろう。果たしてここに、再び農村を舞台に悪い物語が出来上がらないことを望むが、すでにその環境と農民との間に横たわった大きな問題は反故にされているようなものである。
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小宇宙の行方③

2009-01-15 12:23:51 | 民俗学
 小宇宙の行方②より

 特定の指導者によって始まった活動がなかなか継続していかないということについては、その特定の人が後継者を育成できなかった、あるいは特定の指導者が大きすぎてそれを引き継ぐ人が出てこないということが要因となる。いずれ設立当初を上回るような活動をみることができなくなる事例は多い。

 福澤昭司氏は「小盆地宇宙の行方」(『日本の民俗2 山と川』)において、農村における現実の問題を的確に捉えている。ヤマ・サト・マチをヤマとサト、サトとマチ、マチとヤマという二者の関係に分解し、その関係を相互の視点から描いてみている。その結果、三者の間には相互補完的な関係があり、「相互依存の関係は、ムラ内ではある程度類型化された生業を営んでいる反面、他のムラとの関係では一体化することなく差異は差異と認め、集団として補い合うことで可能となったのである。つまり、ムラ同士の差異がなければ補い合えないし、個々の才覚に頼ったのでは単発的関係に止まざるを得ないものが、差異を利用し集団としてまとまることで継続した関係となった」と言う。そして「個人的才覚で作られた関係は両者のおかれた状況が安定している間は継続できても、たとえばどちらかが亡くなったりした場合にはたちまち崩壊してしまうだろう。ところが、ある程度集団として補完関係が営まれていれば、たとえ個別の関係に異変が生じても、代替えが可能なのである」とする。前述した特定の指導者による活動は、その特定の人がいなくなることでたちまち崩壊してしまう。いかに個としの対応ではなく、集団それも多くの人たちが同じ作業で関わっていくことが補完可能となるかということである。これもまた個別化する人々の社会構造の事例なのかもしれない。

 農業は他国との競合を勝ち抜くために大規模化の構造を目指した。強いては均一化したモデルを目的に、多くの補助事業を提供した。「それぞれの独自性を認め、不足を補い合うことで初めて存在しえたムラを、全国どこのムラも似たようなものに整えることで、条件の悪いムラ、生産効率の低いムラを排除することになったのではないだろうか」と福澤氏は言う。「農村を均一化することで求められるようになったのは、それとは裏腹の農家の個別化」だったのである。この個別化は「周りと同じ商品を売っていたのでは、わが家の商品は買ってもらえない」というマチの考えであり、商品の差異化を図り自らの商品を売ろうとするものである。それは「能力主義により、周囲を出し抜くことに振り回されている現代サラリーマンのものでもある」と言う。その通りの道をムラも歩んできたわけである。福澤氏は「皮肉なことに平準化した最小単位の個に差異を設けなければならなくなった」とわたしに述べられた。かつて農民の支えであった農協。その農協は今や支えではなく、稼いだものを片っ端から取り上げていく(そうしないと職員を維持できないだろうが)。そしてそうした農協関係者が「現代では農協に頼るのではなく、自らの販路を開拓していかなくてはならない」と、まさに福澤氏の言う個人の才覚によらざるを得ないことを口にする。もはや農村と農民という関係は消えてしまったといっても過言ではないのである。それをこの経済社会は望んでいるようである。この考えに基づけば、農業は、農家は個の事業者として経営していかなくてはならないというシビアなものになっているといってよい。これでは小規模農家がやっていけるはずもないし、若き農家を育てられるはずもないのである。

 小宇宙はいまだ存在するものなのだろうが、果たしてその構造に適正な人種とはどういう人種なのだろうか、などと現在の農村社会に見ている自分がある。
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田舎者

2009-01-14 12:28:42 | 農村環境
 しばらく前に「田舎」の使い方に注意しようと書いたことがある。例えば「田舎では当たり前なのに都会では違うのである」みたいな書き方は、自らのいる場所を田舎、そして東京のような場所を都会として対比している。しかしこの場合の「田舎」は別に「田舎」という表現でなくても良い。「地方」とか「農村」といった言葉と発している側にしてみれば置き換えても十分なはず。にもかかわらず「田舎」と使うあたりに、不自然さを感じない人も多い。「田舎」は必ずしも地方とは限らないはずなのに、いわゆる「田舎者」という例えに代表されるように、地方を揶揄して表現する場合に使われることも多い。わたしはこうした人々の意識にかんがみ、農村を安易に田舎と言ってしまうところにためらうものがある。農村に住んでいる者が、あまり「田舎」という言葉を意識して使うのは他人へ自らの住む場所を紹介するにも適正ではないと思っている。ようは「そこに住む人たちが「田舎」と表現する必要はないのではないだろうか。とはいえ、そう思いながらも表現し易いということもあるためか、自らの日記に「田舎」を検索するとたくさん使用していることがわかる。ただ以前はともかくとして意識して以降は、よその人たちが捉える「田舎」と総称しているイメージを利用したいときは使用し、自らの地域を、あるいは個別の地域を表現する際には、その場所を「田舎」とは表現しないことにしている。

 意識するもう一つの理由として、日常の会話で「田舎」という言葉を使うことはほとんどない。きっとマチ場の人たちと会話をする際には使う可能性は高まるのだろうが、いずれにしても自らの地域を「田舎くさい」とか「田舎者だから」などと表現することは自らの地域を見下しているようなものでそこに住む人たちが安易には使うものではないと考えている。言いようによっては、「それは差別用語ではないか」などと思ったりする。ところが最近はかつてと異なり、田舎暮らしを望む人もいる。この場合の「田舎」は商品としての地方の表現と言えるだろう。きっと都会やその近在から移り住んでいる人たちは「田舎」という言葉にそうした商品価値を抱いている人もいるのだろうが、もともとそこに住んでいる人にとっては少しばかり「田舎」イメージは違うように思うし、そうした意識が無いというのも嘘であるとわたしは思う。

 あるブログのページでこの「田舎」を検索してみる。この方は都会周辺から駒ヶ根に移り住んだ方である。そこにあるフレーズをいくつか並べてみる。

「田舎者の狭い了見で考えていたら世の中の笑いものになってしまうぞ」
「家庭ごみ処理機に予算をつけた程度で満足しているようでは、「井の中の蛙、大海を知らず」の恥ずかしい田舎者です」
「伊那谷の元祖を争うつもりなら、どちらも恥さらしな伊那か者(田舎者)」
「駒ヶ根ってやっぱり地方の田舎だな」

 このフレーズから解ることは、本人にとって「田舎」は狭い了見のところで、井の中の蛙、そして恥ずかしい人間であるということになるだろうか。その「田舎」に住んで「田舎」を変えようという意識は立派だが逆に捉えると、「田舎」を受け入れるつもりはないという印象も受ける。以前にも触れたが、かつて祭りを盛んに見て歩いたころ、お世話になった先生はよく「この田舎者」という言葉を使って人を見下すことがあった。その方は名古屋市内の方である。祭りという比較的田舎に伝承されているもので自らの名声を高めていたのに、この言葉を聞くたびにわたしの心は痛んだものである。都会の方々が「田舎者」と地方を馬鹿にするのはまだしも、当人が「田舎」とは意識しないところから移り住んでおきながら、「田舎」を馬鹿にする人は、正直言って「田舎」には住まないで欲しいと思うし、そうした人に圧倒されて地域がおかしくなってしまわないようにと思うばかりだ。
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食料自給率と農民③

2009-01-13 12:26:59 | 農村環境
食料自給率と農民②より

 常陸太田市の農業法人水府愛農会は、5人の有志が集まってソバの栽培を始めた。耕作放棄地が農地の3割も占めるようになるなか、高齢化して農業をしなくなった農家が増えていく中そうした農地を活かそうという狙いで始めたものである。愛農会の代表は69歳。49歳のメンバーが最も若く、あとは59歳、68歳、69歳と平均年齢は63歳である。兼業農家が1人いるだけであとは非農家という立場で始めたと言う。20アールから始めた耕作は平成20年には20ヘクタールまで拡大し、300俵を生産するという。栽培から収穫、そしてそば粉として出荷するまですべてを愛農会が担うという。専業でなくともこうしてやっていけるというのはソバという作物の性格もあるのだろうが、平均年齢からすれば退職後でも十分に担っていける分野ということなのだろう。畑を託す農家は100軒を超えているという。そして売上高は2千万近いようだ。

 これを食料自給率を上げるというテーマで紹介しているある全国規模の農業関係団体の広報誌で見た。ここに気になる点がいくつかある。例えば国の補助事業も、また県の動向もいわゆる環境系の整備を行うことに積極的で、かつてのような味気ないコンクリート構造物ではなく環境配慮型を前提にしたまなざしで採択をしている。そうした動向を広報すれば、自ずと生産重視、あるいは農業者重視ではなく、消費者重視の視点をあからさまにし、従来から農業を守ってきた人々へのまなざしはたいへん厳しいものとなる。この事例もまた農業関係団体が紹介するように、どちらかというと新規参入者の事例報告と言ってもよい。ちまたではそういう事例が多く紹介される。もちろんそうしたことで新たな視点、動向というものを広報することで、農業従事者の増大やその分野に将来性を持たせようと言う狙いにはなる。しかし、では農業を専業として担ってきた人々や、その他の農業者にとってどうなのかということになる。事例にもあるように託す農家は100軒を超えるという。もはや従来型の農家は農業をしなくなっているという姿がそこには見える。

 農村と農家という関係をみたとき、こうした気がかりな部分が心の奥底に潜んでいるに違いないとわたしは思っている。ようは国の方針に右往左往しながらも農業を営んできた人々へのまなざしの無さである。あいも変わらず農民は自民党の支持者と勘違いしていた自民党関係者も多かったのだろうが、もはやそんな原則などない。それはまなざしの先が公務員的に1個人に対しての補助はしないという大原則にあったからではないだろうか。直接住民と介す市町村が、個人的な物言いに左右されるのではなく、公を意識するのと同様である。それがため、環境配慮などという視点を持ち出して非農家の理解を得ようとした。これは本質の歪曲と言わざるをえないのである。こうした考えがある限り、農業の衰退を止めることは不可能なのである。

 具体的に一つ事例を上げてみよう。あるため池の話である。県の事業としてあるため池を改修することになった。理由は溜められた水の波で堤体表面が削られて堤体そのものが脆弱化するのを防ぐためである。本来波を除けるための措置をとるわけだから少し前なら波が常に当たる部分に波除護岸というものを施工した。波の当たる部分とはいってもその部分だけに護岸を設置するわけにもいかないから法尻からそれを張っていくわけで、このあたりにあるような小規模なため池ならおおかた池底から護岸を張ることになる。ところが最近は景観を重視して単なるコンクリート製のものを張っていくのではなく、景観配慮型のブロックを使ったり、あるいは自然石を使ったりする。ここでいうあるため池では張っているのではなく厚みが50センチもあろうかという巨石を池底から積んでいる。漏水防止のためにその石積からさらに奥まったところに遮水シートを張る。おそらく昔なら漏水防止と波除を兼ねて表面にゴム状シートを張った。これはけっこう危険で一度落ちたら這い上がれないという欠点があって、事実子どもがため池に落ちて死亡したという事例はこのあたりでも耳にした。しかし、いずれにしても両者の間には大きな金銭的な開きがある。ゴムシートに問題があるのなら波除ブロックの背後に施工するなど経済的な方法はいくらでもあるのだろうが、今は「景観」を盛んに言う。ところがため池は子どもたちの遊び場ではない。昔はそんな場所が子どもたちの重要な遊び場であったが、時代のすう勢とでも言うべきか、それはほとんどありえない。これは社会の意識構造とも絡む。とはいえ「景観」重視で目的以上の河川にでも積むような護岸を積む必要が果たしてあるのかということになる。1年中水の溜まっているといわれるため池で、その姿を見ることはほとんどなく、水面近くにその姿を若干見せるだけなのである。県事業ということで補助の残額を地元で払うわけだが、これがまったくなく単独で行うといったらこんなことはできるはずもない。

 国が財政難であることは言うまでも無く、地方も同じである。しかし「環境」もそうであるが「景観」とか「自然」という言葉に騙されて、わたしたちは本来何をするべきかということを忘れているのではないだろうか。こんな補助制度がその言葉で平然と執行されるなか、老朽化して修繕を待っている多くの水利施設が世の中にはたくさんある。そこにも意識として問題事例はたくさんあるのだが、こうしたちぐはぐな流れは、食料自給率という言葉に踊らされるなか、やはり本質を見失う事例を育むことにならないだろうか。

 続く
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どんど焼きについて

2009-01-12 18:44:25 | 民俗学
 南信州新聞の1/11紙に「祭りの日が変わりゆく」と題して正月飾りを焼く行事、どんど焼きについて記事が掲載されている。1/7に多く実施されていた飯田下伊那地域のどんど焼きが日曜日に変わっていくということについて触れたもので、飯田下伊那はなぜ7日が多いのかということを解明しながら最近年その祭日が変わりつつあることを扱ったものである。「時代とともに祭りが変われば、伝統や伝承は失われていく。悲しい問題点もあるが、絶えることなく人々の暮らしとともにあるのなら、それも一つの、現代の祭りのあり方なのかもしれない」と締めくくっている。伝統や伝承というものは失われても伝えられるのだろうが、可能性としては忘れられてしまう可能性が高いから、まず実施され続けることが必要なのだろう。

 この記事には國學院大学の倉石忠彦氏や飯田市美術博物館の桜井弘人学芸員のコメントを織り交ぜてかなり詳細なイメージを駆り立てて記事をまとめている。しかし、そこからこの記事を信用してしまってもいけない。いくつか問題点がある。まずどんど焼きという行事の名称である。確かにどんど焼きという呼称もあるが、飯田下伊那ではホンヤリという呼称がかなりの範囲にある。ところが記事でも呼称について少し触れられているがまったくホンヤリという呼称は登場しない。おそらく飯田市周辺ではどんど焼きが一般的になっているのかもしれない。まずここで「飯伊」と地域を捉えて紹介しているが、「飯田市」と読み替えたほうが正確になるのかもしれない。



 もうひとつ日程のことである。飯田のマチを中心とした地域では7日という日程が一般的になっていたが、周辺地域は必ずしも7日ではなく、むしろ小正月の14日に行うところが多かった。図は南信地域のどんど焼きの実施日をプロットしたものである。『長野県史民俗編』からプロットしてみたのだが、実は飯田市周辺の担当者が手抜きをしたのかどうか知らないが、同書のデータはこの地域がかなり薄い。図の凡例にない丸印があるが、中を塗り潰してない丸は、外周の色で実施日を捉えることとする。なぜ中抜きしているかというと、『長野県史』のデータ不足で解りにくいため、手元にある村誌などのデータを加えた。中抜きの赤丸は14に実施しているという長野県史以外のデータを示す。だしここでいう『長野県史』のデータは成人の日が1月の第2月曜日に変更される前のものであって、最近は記事でも触れているように、実施日は14日ではなくなっているケースがほとんどである。この図から解るように、飯田市のあたりに青い丸が集中しているが、下伊那地域ではむしろ14日が多いことが解る。さらに良い例が7日に変更したという事例をいくつか見ることができる。『長野県史』のデータでも平谷村のデータは14日を7日に変更したというものであり、また『阿智村誌』によれば、現在は7日に実施しているが、かつては14日であったという記述が見え、詳細にかつての小正月に行われた行事の思い出が綴られている。喬木村でも阿島のマチでは昔から7日であったという村誌の記述もあり、マチ場においては古くから7日に行っていたようである。ここから記事の言う7日が伝統であるという捉え方は、必ずしも正確ではないのである。

 どんど焼きは飾られた松を処分するには必要な行事である。盆の飾りが川に流せなくなって処分に困ったように、松も焼いてはいけないと言われると処分ができなくなる。かろうじて火祭りは許可されて継続しているが、松飾りをしなくなればその行事も不要になってしまう。今はどんど焼きという行事を継続しようというよりは、松を処分するという意味で絶えることなく続けられているという見方もできるかもしれない。

 なお、図の『長野県史』のデータは、「松飾を焼く火祭りをいつしましたか」という調査をしていないため、年中行事の項目から日程を読み取ったものもある。したがって20日とか31日という実施日は、必ずしもどんど焼きの本日ではないかもしれない。ようはたとえば14日に焼いてさらに20日正月に焼いたものかもしれないし、最後の松飾を31日に焼いたというものなのかもしれないが、あくまでも同書から読み取ったデータであることを踏まえておくこととする。
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年始まわり

2009-01-11 22:26:58 | 民俗学
 まだ小正月には早いが、ほんやり(どんど焼き)のピークを迎えた。今や小正月もへったくれもない。松の降ろされて近い日曜日あたりといえば、そうした年中行事に人気の日である。義父とお茶を飲みながら少し長い雑談となった。もちろん正月のことである。子どものころの正月の話が湧き上がる。元旦には年始まわりをしたという。大人がするのではなく子どもたちがするのである。常会にあった18軒をくまなくまわり、新年の挨拶をするわけだ。もちろん子どもたちがやってきたら手ぶらで返すわけにはいかない。いわゆるお年玉としてお金ではなく菓子やケンなどを用意しておき、来た子どもたちに与えるというのだ。3、4軒まわると子どもたちには持てなくなるようで、一旦家に帰ってお年玉を置いてくるというのだから、子どもたちにとっては楽しくて仕方がない。昔は子どもか多かったから各家ではたくさんそうしたお駄賃を用意しておいたようだ。義父は大正生まれだから、戦前の話と言うことになる。わたしの子ども時代にそんなことは聞いたこともなかった。正月に年始まわりをする子どもたちの姿は現在でも見ることができるのだろう。小県郡旧長門町では子どもたちが獅子舞をして年始まわりをする。南佐久郡旧臼田町清川のほか、南佐久郡内では同じような獅子舞の年始まわりが行われている。考えてみればそれぞれの子どもたちが「明けましておめでとうございます」といって年始まわりにやってくるよりは、一括して集団でやって来てくれたほうが対応は簡単だ。集団でやってくるとなればただ挨拶してまわるよりは、芸能でもすればみんな喜ぶし、正月らしい。自ずと獅子舞あたりは場面を賑やかにするにはうってつけである。こうして考えてみれば、もしかしたら正月の獅子舞は年始まわりが芸能化したものではないだろうか。

 子どもたちこうして人より物をもらい、人との縁を築いていく。一年にはそうした地域の中で下された子どもたちの役割があった。義父によると、どこの山へ入っても子どもたちには許されたていたという。そして入る際にナタやノコギリは持って行ってはいけないとされ、鎌だけが許された。ようは鎌で取れるほどの枝は取っても良いが、それ以上の枝、もしくは木そのものを取ることは禁止されていたということになる。子どもたちは鎌を持って山へ入ると、焚き木を拾ったりしたのである。その焚き木はムラの中心にあった雑貨屋に持ち込むと引き取ってくれたという。そうした雑貨屋が二軒ほどあったといい、雑貨屋ではそれを商品として店に並べるのではなく、マチの方と取り引きをして出していたようだという。子どもたちは銭を稼ぐために、そうした山へ入ったのである。丁寧に縛ってあればそれだけで銭をよけいにくれたと言う。ようは商品価値がどうすれば上がるかということをそこで教わったのである。少しばかりの銭であったのだろうが、銭はそうして稼ぐものであって、やたらに親から手に入るものではなかったのである。もちろんそうして地域の中で子どもたちの担う仕事があったから、地域の人々にもどこの子どもか認識されたし、子どもたちに許される規範というものが暗黙の中に存在したに違いない。

 年中行事を綴った1年の記録を紐解くと、日を追って何が何時行われたかという記述がされている。しかし、前述したような子どもたちの具体的な生活は紐解けない。民俗というものに関わって年中行事を目にし、そして聞いてきたが、意外にもそうした具体的な生活の姿は把握してこなかった。正月にしても農から離れるに従い、行事そのものの意味もなさなくなった。行事が消えていくのは無理もないことである。意図している生活がなくなっていくのだから。しかし、子どもたちは、そして年寄りは、主人は、主婦は消えはしない。それぞれにとっての年中行事は、けして農から離れようと意味があって伝えられても不思議ではない。年中行事という行事そのものを追っていくのではなく、それぞれの立場にみる1年を捉える必要があるのではないかと、義父の昔語りを聞きながら思った。
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忘れ物

2009-01-10 14:26:43 | つぶやき
 先日乗客のほとんどいなくなった車両で、年寄り夫婦が隣のボックス席に座っていた。わたしの座っているボックスの真上の網棚になぜかカバンが一つ載っていて、「誰のものだろう、この席に座っていた人が忘れたのだろうか」などと考えていた。もう乗っている人はそのお年より夫婦とあと数人。降車する際にそれでもと思ってお年寄り夫婦に「あの荷物はそうですか」と確認すると「そうです」と言う。少し離れた場所に載っていたので「忘れないでください」と声を掛けて電車を降りた。その翌日である、朝の混雑した電車内で、一旦常に持ち歩いているデジカメをバッグの外に出した。「忘れないようにしなくては」と思っていたのに、見事にそれを忘れて電車を降りた。すぐに気がつけばよいのだが、仕事で現場に出ようとして無いのに気がついた。人の荷物を気にした直後にそんなことが起きるものだ。

 さっそく駅に電話をしようとするが、意外に駅の電話番声がすぐに見つからない。結局104に電話をして聞くのだが駅直接ではなくサービスセンターのようなところの電話番号を教えてくれる。とりあえず電話を掛けるとJR東海のサービスセンターにつながり、いわゆる録音で声が流れてきて問い合わせの内容に合った番号を押せというやつである。忘れ物の問い合わせという番号を押すとしばらくすると係りの人の声がした。ようやくたどり着いたという感じで忘れ物のことを聞くと、「どこ行きの電車ですか」と聞く。「長野行き」と言うと、「辰野より向こうはJR東日本なのでそちらに電話をしてください」という。「おいちょっと待てよ」という感じである。もちろん飯田線より北はJR東日本だということは認識しているがそこまで縦割りなんだとつくづく面倒くさく感じる。一応飯田線内の忘れ物について確認してくれるが「ない」ということらしい。だから「東日本へ問い合わせてください」をまた口にする。仕方なく今度はJR東日本に電話をする。するとすぐに問い合わせてくれて「岡谷駅にはないようです」、「お客様の電話番号をお聞かせいただければ他にも問い合わせてみて解りましたら連絡いたします」と言う。ずいぶん東海とは対応が違う。一旦電話を切って十分もしないうちに電話が鳴った。すると「松本駅にお客様のデジタルカメラらしきものがあるようです、電話番号を言いますので直接駅の担当とお客様の物かどうか問い合わせてみてください」と言う。乗車していた電車で問い合わせていて、その電車から見つかったようだからおそらくわたしのものなのだろう。問い合わせたら係りの方も「お客様のもののようです」と答えてくれた。取りに行くには遠いということで、郵送してくれるというが、「お近くの駅に行っていただき宅送願いを書いてください」と言う。面倒くさいが忘れた自分が悪いわけだから仕方なく伊那市駅へ出向いて申請をした。いずれにしても見つかってホッとしたわけだが、カメラはともかくとして撮影したデータは前日に現場で撮ったもので、それがなくなってしまうのは大きな痛手である。それが帰ってくるだけでもありがたいことである。

 忘れ物をすると容易ではないということが解った。飯田線の終着駅が辰野駅より手前ということはあまりない。ほとんどが岡谷や上諏訪行きである。にもかかわらず辰野駅より向こうは管轄が違うから忘れ物はJR東日本にも問い合わせなくてはならない。上り方向はともかくとして下り方向の電車は気をつけなくてはならない。忘れ物のトップであるだろう傘などこの面倒くささではほとんどの人が届けなど出さないだろう。遠くの駅だったら取りに行く、あるいは送ってもらうだけで傘代が出てしまう。両者の対応がずいぶん違うのが気にかかる。リニアを自費で造ると言って息巻いているだけにJR東海が強気だという雰囲気をそんなところからも感じる。きっとJR東海よりJR東日本の関係者の方が優しいとわたしは思う。
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「民俗コラム」

2009-01-09 12:41:49 | 民俗学
 『伊那』(伊那史学会)の1月号は毎年民俗特集ということで長い間発行されてきた。そして今年の1月号も恒例の民俗特集が組まれている。ところがどうも最近の傾向として「これって民俗なの」という内容のものが目次に見える。もちろん民俗関係だけで組めなければ別の論考を掲載するのは「民俗特集」に似合わないというわけではないが、巻頭に並ぶものはとくに「民俗」を意識したものにしてほしいものだ。民俗に関わっている程度のものは掲載しても巻頭は避けるというのが本来だと思うのだが、どうもそのあたりがどういう視点で目次立てをしているのか理解に苦しむわけだ。思うに文量と上下関係みたいなもので並んでいるように見える。文量のすくないものを巻頭に掲載するのはしのびないかもしれないが、「民俗特集」というテーマを意識してもらいたい。加えて『伊那』の目次の欠点は口絵とその解説を目次のトップに載せることだ。本来なら論考のトップを目次のトップに掲載するべきだと思うのだが、解説文もそこそこ長いということもあってか、昔からこのスタイルをとっている。しかし、口絵はコラム的なものであって、それを目次のトップに掲載するのはそれ以降の執筆者に対して配慮が欠けるというようにも思うのだがどうだろう。もしトップに掲載するのなら目次の表現に工夫が欲しいところだ。例えば文字のポイントを落として口絵だということがすぐに解るような配慮である。「口絵」と現在も表示はされているが、並びがまったく他の論考と同等のため、常に巻頭の論考が口絵と見間違えるわけだ。

 今号の巻頭は「小笠原氏の家紋」というもので、前述したようにどことなく「関わっている」というものであって、内容そのものは民俗と歴史という観点でいけば明らかに後者の比重が高い、いやほとんどそれである。二編目は「江戸時代における部奈疎水工事の入札と落札」というものであってこれもまた歴史編といえる。三編目にようやく「江戸時代の婚礼記録の一例」という儀礼に関わったものが見えてくるが、これもまた内容的には古文書を紐解いたもので、歴史編と言ってもよいかもしれない。視点が「民俗」であるかどうかということに照らし合わせるとけして古文書が「民俗」とは無縁ではなく利用することは良いことなのだろうが、視点の置き所はどうみても歴史である。

 ようやく四編目に「折口信夫の三信遠国境の旅を辿る」というものが登場し、「民俗特集」へ突入するという感じである。すでに冊子の半分ほどを経過している。週刊誌の特集記事だって冊子の半分以降に掲載することはないはずだ。以降六編ほど「民俗」という視点のものが続く。文量的に短いものばかりということもあるのだろうが、そうはいっても四編目は7ページある。これを巻頭にあてても十分なはずである。五編目以降は文量が短くなるためか、ページトップの見出しではなくなる。ようは新聞形式にページの途中から論考が始まる。たまたま「民俗」に関係したコラムを集めたみたいな組み方で、こうしてみてくると「民俗特集」とは形式的であるということがわかる。もちろん投稿を募っても「特集」を組む内容で組めないという編者の苦しみもあるのだろうが、短編でも巻頭に掲載してこそ「民俗特集」と言えるような気がする。もちろん四編目のものが巻頭に掲載できるのなら、その方がベストと思うのだが…。

 そんななか興味深いものが桃沢匡行氏の「私の見たワラ人形、聞いたワラ人形」というものである。災いをもたらそうとワラ人形に五寸釘を打つという呪いのことはだれでも知っているだろう。最近はそういう話もあまり聞かなくなったが、むかしは「○○がワラ人形を釘で打ちつけていた」などという噂がよく流れたものである。子どもの世界でもそういう会話で盛り上がったものだ。桃沢氏が飯島町で聞いたワラ人形の事例に「山師が御神木を買うなというのは「神の祟り」と「呪の釘が打たれている」ことがあるから刃物が痛むからだ」というものがある。現代はともかくとして、まことしやかに語られたワラ人形への呪いの話からすれば、神木に打ち付けてより一層呪いを実現させようという考えは当然のことかもしれない。桃沢氏の事例の中にも「七久保芝宮神社の鳥居横の杉の大木の地際にワラ人形が釘で打ち付けられているのを見た」というものがあるし、それ以外にも「観音堂のイチイの大木」とか「白山権現社の古い御神木」「御嶽神社の太い松の木」といった具合に神社の太い御神木らしき木に釘が打ちつけられる例が多いようだ。この興味深い報告は九編目である。郷土史の専門の方だから、巻頭へ掲載することを了解していただければ、それなりにまとめてくださったはずである。「民俗コラム」の末尾に載せるには忍びないとわたしは思う。
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山と谷と

2009-01-08 12:28:52 | つぶやき


 写真は双子の甥が転作している田んぼの中に作り上げた世界である。道具はシャベルと草かきと小型のジョーロである。土の上で同化していて見難いが二つの山が出来上がっている。小さな山であるが作成途中にはもっと高かったのかもしれない。冬の転作してある田んぼの土であるから、水田として利用されていた田んぼよりは土は柔らかい。とはいえ、砂場のようにわけにはいかない。凍結する季節でもあるから、高い山を作るほど土は容易に採取できないかもしれない。いずれにしても山には木の枝が立てられており、どうも松飾りかその残りの木を探し出してきたのか松の枝である。見事に松山が誕生しているのであるが、双子がどんな言葉を交わしながら作り上げたものなのか、その場に居合わせていなかったわたしには解らない。

 翌日子どもたちは田んぼではなく、家の庭先へ座り込んで、ほこりまるけになって乾いた土を盛り上げようとしていた。やはり山を作ろうとする。考えてみれば、平坦な土があって意図もなくその平坦な土地に座り込んだら子どもでなくとも土を盛り上げ始めるかもしれない。平坦な世界に変化をもたらせようとすれば、穴を掘るか山を作るかである。子どもたちが砂場で遊んでいると、確かに穴を掘るように土をつかみ始めるが、結局は掴み取った土を重ねて盛り上げていく。ようは穴を掘るよりは山を造りたがる。おそらくわたしも同じ行動をとるかもしれない。人は凹みよりは山にしてモノを形作っていくのだ。すべての人がそうかは解らないが、1枚の紙から折り紙をするにしても山と谷を駆使して仕上げていく。両者がなくては形にならないのは、砂場で山を造り上げていくのと同じである。平坦地に山を盛り上げようとすれば、周辺に谷ができる。相反する世界があるからこそ、そこに形ができ、また日向や日陰も登場する。当たり前といえば当たり前であるが、そんな当たり前のことを子どもたちは自然とし、またそれが好きである。外へ出ればそれを繰り返す。そしてジョーロで山に水を掛ければ、水は谷に落ちていく。これもまた当たり前のことなのだが、不思議と子どもたちが繰り返すそんな世界が何かを教えてくれる。

 地面の上にもそんな世界を描き、たった1枚の紙ぺらでも折れば山と谷は簡単に示すことができる。そしてそれを好む私たちが平坦な道のりばかりを望んでいるのも不思議だ。知らずに山と谷を作り上げるのに、そこには何も意図はないのか、果たして人は生まれながらにしてそれを望んでいるのではないか、などと考えてしまう。

 殺伐とした世界を子どもたちが描いたわけではない。しかしそこに描かれた世界をどう見るかは人によってさまざまなのだろう。崩されることなく、また片付けられることなく描かれた世界が芸術のように止まっている姿が、わたしを山と谷の世界に導いてくれる。
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「汚い」はエコ?

2009-01-07 12:25:28 | つぶやき
 時おり「ゴミ屋敷」というものが話題になる。そのゴミ屋敷が近隣に迷惑になるといって撤去される光景も見るが、ゴミ屋敷が必ずしも世の中に悪いというばかりではない。処理をしないということはゴミが出ないということになるわけで、CO2の排出は低下する。ゴミを処理しなければエコになるとまでは言わないが、現実的にはゴミをたくさん出せば負荷が大きくなる。ゴミを出さない世の中を形成するのが最短距離だとは思うが、生産しないと労働力に影響するからエネルギーを使っておいてそれを循環させるというのが今の主たる方向だろう。それでもエコバッグではないがレジ袋ノーという流れは、生産に対してノーと言っているひとつの例と言え、この生産物のCO2排出量を数字で掲げるが、実はもっと有効なものもきっとあるのだろう。なぜかレジ袋が悪玉に掲げられた、そういうことだろう。それでもこうした生産ノーの事例は多くはない。前述のように基本的に生産をストップさせて経済を停止させる考えはありえないということになる。だからこそ循環であれば、そこに労働力も生まれ、資源も有効利用できるという主張となる。そういう意味でゴミ屋敷は循環しないから悪玉のような存在になるが、循環ではなく、生産ノーという考えであれば、けして悪い視点ではなくなるのである。

 息子が台所に立ったあとは棚に汚れた皿が並んでいたりする。ようは洗い方が上手でないと言うか、しっかりと洗ってない。母は「水を無駄に使わないように」と言い、水道の蛇口から水がしっかりと流れているのにその水がそのまま流しを流れて出て行く姿をきつくとがめる。なるべくきれいな水はすすぐ際に使うだけにし、洗いおけに溜めた水を使うように促す。農村において水質が悪化した理由に台所などの洗剤の流出があった。洗剤を使えば水は汚れる。したがって各家庭の台所から出る水の汚染度にはかなり格差があるのではないだろうか。昔のように使ったお椀をお膳にそのまましまってしまえば洗うことは常時はしない。そうすれば汚れた水は排出されない。もっといえばゴミ屋敷ではないが洗物をしなければ水は汚れないということになる。エコ生活を営もうとすればこのあたりから始めたいものである。洗うなとは言わないが、いかに洗剤を使わない生活をするかということになる。汚れたままでは使えない、だからしっかりと洗う、そうすれば水をたくさん使う。また食生活が欧米化することにより、日常のように油を利用する。使えば使うほどにその汚れを取ろうと洗剤を使うことになる。これはレジ袋を使わないから「エコ」というのとは次元が違う。

 我が家ではこうした台所で洗剤をあまり使わないことを以前に触れた。アクリルの布切れを使って洗うことで油物もそこそこ除去できる。わたしはどちらかと言うときれい好きな方で、しっかりと洗う方だ。したがって水の利用量は妻に比べると多いだろう。しかし、本当に洗剤は使わない。それでも十分に家族の誰よりもきれいに仕上がる。そしてこの洗物を前述したように頻繁に行わないような暮らしができればそれにこしたことはないが、ここがきれい好きと楽観的なずぼらな人たちでは差が出る。世の中がきれい好きになったから、そのまま否エコという表現ができるが、そういう視点ではゴミ屋敷もエコなのだ。ものには限度というものがあるのだろうが、出来上がった(洗い終えた)物が同じならば、そこまでの過程はあまり数字にも表れないし人との差はわかり難い。実はそうした部分に大きな差があること知っておかなくてはならない。
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食料自給率と農民②

2009-01-06 12:28:11 | 農村環境
食料自給率と農民①より

 現実的には食料自給率アップの鍵は穀類であるということは前回触れた。飼料の中身に穀類が多いことからも、それが数字上の食料自給率を上げる直近の課題であることは国もよく承知している。現在推進されている集落営農の法人化の根底にも法人化した人々が耕地を荒廃せずに維持していく方法として営農作物の主たるものとして穀物を対称にしている。国はみかけの数字を下げることなく、上げていくという方向で策を講じていることは確かなのだが、そうした具体的数値を上げる意味では、民主党の言うような農家への直接払いよりは将来を見通したものといえる。ところが、農業を営む者、農民がこうした国策には乗りたがっていないのも事実である。ようは国策と農民が同一の問題意識を持って目標に進むという方向ではないのである。これは強いて言えばもし数字上の食料自給率が上がろうとも農業の衰退は押し進んでいくということである。

 少し話は変わるが、昭和50年代、山の中、いや山の中ばかりではなく里山周辺や平地農村でもまだ道のない家というものがときおりあった。そうした家あるいは集落までとは言わなくとも数軒あるところに何百万、何千万という金をかけて道を開けた。個人の土地に道が接していないでは利用度の下がるご時勢だけに、そして土地神話とまで言われ土地の価値の高かった時代には当然のように゜みな道を求めたものである。他との交易環境を向上する、これが高度経済成長期やそれ以降も、そして現在もひとつの経済発展の土台とも言われ、そしてそれが格差を無くす指標と考えた。これは間違いではない。そして今もそれを皆が願う。

 月刊タウン情報「いいだ」という無料配布の雑誌がある。その1月号に「『リニアモーターカーについて』一言」という投稿コーナーがある。直線ルートと迂回ルートという議論の中、もちろんのごとく飯田地域の多くの人々はどちらにしても駅ができる可能性が高いと考えている。そうしたなか当然のように歓迎のことばが並ぶ。そうした意見の中に①「早く開通して欲しい。そうすれば長野県内で一番便利な土地になり、飯田がバカにされなくなる筈」。②「人口十万都市で首都東京へ行くのにかかる所要時間は、日本全国広しとはいえ、飯田が一番時間がかかるそうです。なのに村井知事を筆頭に飯田駅設置はつれない。十五年後に「東京は飯田だ」というCMが流れることを期待したいです。(郷土愛)」というものがある。どちらも飯田という地域が「バカにされている」という印象でのものである。世の中は多数決であることは言うまでもない。どれほど実力があろうと、金と人という数には勝つことはできない。とすればバカにされていると思う根底にはよそとの比較があるわけで、それはもしかしたら飯田に対しての同じような周縁部との比較があるはずだ。それを解消できずにいれば結論的に地域は消えていく運命となる。自らの地域にどう価値観を持つかというところは、地域の多くの人々が共有できるものでなくてはならない。そういう意識を持った地域を具体的な事例で説明できるほどわたしはよそを知らない。いずれにしても長野県内のどこの地域を見渡しても、おなじことを繰り返す。かろうじて反対意見もしっかりと掲載されているが、そこでも多数決をとれば歓迎が勝る。かつて道のないところに道を開けたり、あるいは時間短縮のために道を良くすれば、結局そこを出て行くための道の整備になり、また過疎を一層助長することとなった。確かにベッドタウン的な期待はあるが、この価値観の根底には自らの地域の価値観を見出している姿ではなく、相変わらず大都会を目指した価値観しかないのである。地域有力者にかつてなら農業者がいたものだが、今や地域有力者は経済関係者と彼らが支える自治関係者ばかりだ。これでは食料自給率に還元できないシステムが構築されていても不思議ではないのである。

 続く
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食料自給率と農民①

2009-01-05 20:15:08 | 農村環境
 『日本の民俗 2山と川』(2008/12吉川弘文館)へ執筆された方から年賀状をいただいた。そこに「食料自給率を上げるというけれど、いったいどうすりゃいいんでしょうね」という言葉が書き添えられていた。この国で最も根源的な課題となるのは食料を供給している者、いわゆる農業従事者がいかに供給しえるかということにつながるのだろう。よく言われる40%という食料自給率はカロリーベースである。これは国民1人1日当たり国産熱量を国民1人1日当たり供給熱量で割ったものであくまでもカロリー値の数値であって、実際の食料、たとえば重さとか栄養といった視点ではない。もちろんカロリーの低いものをいくら自給率を上げたとしても、カロリーベースの自給率は上がらないということになる。野菜や果樹については同じ重量でもカロリーが低いことから自給率に影響しにくい。ようはカロリーが高いものをいかに自給することによりその数値が上がるかということになる。したがって40%だからといって国内生産物の自給率が単純に低いとは言えない。これは日本人の食料環境とも関係するだろう。かつてのようにカロリーの低いものばかり食していた日本人であれば、もう少し食料自給率は高かったのかもしれない。ところが欧米化した食事情にもよるだろうが、メタボ化している日本人は1日あたりのカロリー供給量が多くなったともいえるだろう。加えて穀物類の生産量低下がそれを助長した。米はともかくとしてそれ以外の穀物類の自給率はきわめて低い。だからだろう穀物の主要品目に対しての補助が現在は手厚い。転作を推し進めることにより、野菜や果樹といった高付加価値なものへと生産量は転移していった。それはカロリーベースの食料自給率を下げることにもなるわけで、国の補助制度は生産調整以降、自ずと食料自給率を下げる方向だったといえるだろう。さらにいけなかったのは畜産物の問題である。カロリーベースで計算する際に、飼料自給率が輸入量で減じられる。これが大きなマイナス要因となる。今や飼料のほとんどを国外に依存している。100%国内産の肉で供給したところで、このマイナス要因が大きく食料自給率を下げることになる。ただでさえそういう計算がされるのに国外からたんぱく質を輸入しているのだからそのカロリーベース自給率がびっくりするほど低くなることは言うまでもない。平成15年データでは牛肉10%、豚肉5%、鶏肉7%、鶏卵9%という低さである。日本人が明日からいきなり1年間これらの肉を食べなければかなり食料自給率は上がることになるだろう。もっといえば国民みんなが貧乏になれば、自給率は上がる可能性が高いといえる。そしてもちろんのことであるが、食料を捨てていれば、それだけで自給率を下げる結果を招くことも言うまでもない。

 とはいえ、今の農業環境を見る限り国はこれらカロリーベースの自給率に着目して対策を講じているが、そうした部分を意識しすぎているうちに、カロリーベースで低い生産者がどんどんこの世界から減少していくことにもなる。ようは生産額ベースの食料自給率は70%と言われているが、そちらが下がっていくということにもなりかねない。最近地産地消ということをよく聞く。国の食育政策の重点的な視点なのだろうが、国産農産物を自給したところで、飼料をこれほど輸入に頼っている状態ではそれほど目に見えた向上は期待できないのだろう。そのうちに国はカロリーベースよりも生産額ベースの自給率を表面に上げてくるかもしれない。いずれにしても蛋白源である畜産をどうするか、そして食品産業の考え方を改める必要があるだろう。もちろんそこには国民の食生活事情の転換も必要だろう。

 続く
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もう一度「立石」

2009-01-04 23:12:41 | 歴史から学ぶ
 「大泉の里 その参」で立石について触れた。辻に建っていたと言われるこの石は、地元では何の石かあまり理解されていなかった。調べたところ「青面金剛」とわかったが、伝承ではそれとは理解されていなかった。何度か道の拡幅で場所を移動したというが、もともとはほとんど埋まっていて頭だけ出ていたともいう。「奉供養青面金剛」と掘られたのは、並んで刻まれている年号の宝永8年と思われるが果たしてそれが建立年とは必ずしも言えないだろう。その碑が立つ場所を立石と言うあたりから、地名の方が古いかもしれない。あるいはもともとあった立石に、後に「奉供養青面金剛」と刻まれたかもしれない。

 この立石の建つ場所も見晴らしの良い場所だったという。そして元は頭だけ見せていたというあたりから、以前触れた松本市島立の立石を思い出す。その立石は現在地の南南東25メートル地点にもとはあって、「字立石地籍の田の畦に、30センチメートルほど頭部を表し、地中に埋没され」ていたと言う。そのまま大泉の立石の説明に流用しても十分なほど似ている。松本市島立の立石でも触れたように、もしかしたら古い時代の測量基準点という捉え方もある。当然のこと見晴らしの良い場所というのはその条件になる。

 立石というと葛飾区立石がよく知られている。そこの立石は今も頭だけ出した小さな石だという。ところが江戸時代には逆にもっと大きかったと絵図から推定できる。応永5年(1398)の『下総国葛西御厨注文』という文献に見えると言うから、大泉よりもさらにさかのぼる時代のもののようだ。いや、前述したように「青面金剛」と刻まれるより早くから立石と呼ばれていたかもしれないから、かなり古いものなのかもしれない。葛飾の立石には「文化2年(1805年)に地元の人々が、石の下はどうなってるんだということで石の根元を掘り進めたそうです。しかし掘っても掘っても石の根元は見えず、そんなこんなしている内に石を掘っていた人や近在の人々の間に悪病が蔓延。これは立石の崇りだということで、さっそく掘削作業は中止され、石祠を設け立石稲荷神社として奉祭するに至った」とも言う。頭だけ見せてはいるものの、根は深いのだろう。そして「掘ってはいけない」という戒めの意味も込めて伝承が今に伝わる。松本市島立でもこの石は「地球の真ん中までつながっている」などと言われていたようで、「掘ってはいけない」とまでは言われていなかったようだが、いずれにしても簡単には掘り出せない石であったことは確かなようだ。

 他にも少し立石を探ってみよう。諏訪湖を一望できる立石展望公園は字のごとく展望がきく場所のよう。日向の米の山にも公園があり、三角点がある。その脇にも立石群があるという。山梨県の旧牧丘町にある立石神社の祠のまわりには立石状の巨石群が連なっているという。下北半島にある立石大明神には「むかし、の漁民が沖に出漁していると、突然シケになって船が流され、方向を見失ってしまった。困っていると、この大岩の上に灯明が輝いた。これを目当てにしてようやく岸にたどり着くことができた。これから村人は、海の神として立石大明神とあがめている」と言う伝承がある。いずれも見通しの良い場所ということになる。丸森町のシンボルは巨大な立石である。これほど大きければ見事というしかない。どこからでもシンボリックに見えるはずだ。

 大泉の立石もやはり信仰対象の庚申さまではつまらない。もともと立石というところにこの石は埋没していた、あるいは別にそうした石があったのかもしれない。長い間に現在言われている石を「立石」と言うようになってしまったとも言えないだろうか。
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合併後の思い

2009-01-03 22:48:44 | 歴史から学ぶ
 長野日報元旦版に伊那市合併3年を迎え、市民の評価についてのアンケート調査が掲載された。それによると、合併の評価については旧伊那市民は「良かった」「まあまあ良かった」という肯定派が42.6%、「あまり良くなかった」「良くなかった」の否定派が32.8%だったという。いっぽう旧高遠町市民は肯定派41.1%、否定派52.1%であり、旧長谷村市民は肯定派37.9%、否定派51.5%だったという。旧伊那市民は肯定派が否定派を上回り、旧高遠町と旧長谷村の市民は否定派が肯定派を上回ったということになる。この流れで当然のごとく「三地区のまとまりを感じるか」という問いには、まとまりは感じられないという回答が目立つことになる。合併前にそれぞれの地区で合併の賛否を問う住民意向調査は実施されていない合併である。ようは有力者主導の合併劇だったということになるが、今回この賛否も聞いている。「賛成」が44.2%、「反対」が31.3%だという。この回答についてはわざわざなのだろうか、3地区の回答詳細に触れていない。おそらく旧高遠町と旧長谷村の市民は「反対」が多かったのではないだろうか。

 この質問で問題になる部分は、肯定派と否定派の比率が、旧伊那市民と旧高遠町と長谷村の市民とで異なるということである。人口の多い側は、対等であったとはいえ高遠と長谷の合併は吸収に近いものがあった。したがって大きな側は小さな側をそれほど大きな変化をもたらすとは考えていないということだ。むしろ高遠という桜の名所、そして南アルプスという常に眼前に現れている仙丈ケ岳が自らの市のものになるとなれば、イメージは膨らむ。そのあたりがこの回答結果に十分に現れているといえるだろう。大きな側は、小さな側の良いイメージだけをもってして合併のメリットと考えるかもしれない。同じことが全国で起きたといってもよいだろう。合併の良否はともかくとして、利用されたように小さな側が思えば、そして実際の行政が遠くなったと意識すれば、誰も「良かった」などと思うはずもないが、こうしたアンケートには実数に対してのまやかしがあるとまでは言わないが、否定するわけにはいかない派みたいな回答があって不思議ではない。

 年賀状が届き、そして年賀状を書きながら、最近めっきり郵便を使わなくなっていた自分が気がつくことがある。○○郡といった具合の住所がめっきり減ったことだ。見てみれば多くが○○市なのである。少数派となった郡部。そして合併後にかつての町村名がすっかり消えてしまった住所もある。もちろんそれが合併後の一体感を早期に意識させるためには良策という考えもあるだろうが、とくに消えている「村」の旧名は吸収された側はどう思っているのだろうか。いっぽうで旧名はもちろん自治組織として別待遇されることでより一層一体感が持てなくなることだってあるのだろう。合併したからには消えてしまった方が良いのかもしれないが、それぞれに葛藤をしていることなのだろう。そしておそらく「村」であった地域の多くの人々が「良かった」とは思えずに先々を不安視しているのだろう。それでも後おいで合併していく村があるのだから、国の地方苛めと言われても仕方がないだろう。
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年始の飯田線

2009-01-02 23:35:45 | つぶやき
 生家の年始に電車で向かった。電車内はそれぞれのボックス席に、一人、あるいは二人が座り、その空間が余裕を持って車内を演出するも、実際はそこに立ち入る隙を与えない。ようは空いているのはボックスから外れたベンチシートである。そしてよく見るとそれらのシートもまばらではあるが既に座っている先客がいる。穏やかにやってきたワンマンカーは、車内放送だけが騒々しく聞こえ、その余裕のある空間に客の声はない。シーンとした車内に、ひたすら次ぎの駅を、そして昇降のドアを説明する放送が流れる。そういえば路線バスの車内放送に似ている。確かに余裕があった空間に足を踏み入れるも、座るシートは限られており、そこへ腰を下ろす。次ぎの駅で乗車する客はいない。そのまた次ぎの駅で乗車した客は、大きなバッグを持ち入れた。だれの顔を見ても常にこの空間を利用している客ではない。こんな季節に飯田線を満喫している客、そして帰省先から帰るのだろう客が無言で座る。動きのない穏やかな世界である。先日も触れたが、年末はもちろんのこと、正月に電車に乗るのもずいぶん久しぶりのことである。年始まわりに電車を使う人などこのご時勢にはいない。そんな空間に身をゆだねて、三つ目の駅で降車した。もちろん私以外に降りる人などいるはずもない。

 生家では電車でやってきた息子の姿を見て、母がかつての正月のことを口にする。母とともに電車に乗って母の生家をよく訪れたものである。「重い餅を背負って行ったもんだ」というように、年始に餅を土産に持って行ったわけだ。重かった餅のことが母にはすぐに浮かんだのだろう。母とは高遠原の駅で降りては、そこから2キロ近くを何度も歩いたものだ。最寄の駅までも約百メートルほどの高低差があり、餅を背負って坂道を登っていったわけだ。今は餅を土産に持っていくなどということはないから軽いものである。電車で行くと言ったら、少し行く気になっていた息子が敬遠した。「じゃあ車で行く?」と切り返すと、結局あまり乗り気ではなかったようで行かないことになった。かつて何度もあるいた駅からの道を、思い起こしながら段丘を下った。かつては段丘崖の上に立つと下界が広がったのに、いまや針葉樹の林がしっかりと行く手を遮る。やはり下界がすっきりと開けていたから、記憶にも残っているのだ。



 さて、帰りを待つホームで乗車する電車を写真に納めてみた。飯田線は田切地形といわれる川で削り下げられた谷を越えるために線路が迂回する箇所があちこちにある。中でも駒ヶ根市と飯島町の境にある中田切川と飯島町の中を流れている与田切川をまたぐ飯田線は、典型的なU字の迂回を見せる場所である。川の向こう側を電車が谷の中に迂回していくと、しばらくすると突然音も無く段丘を登ってきた電車が現れる。こちら側の段丘を登っている電車の音は、反対側には聞こえるのだろうが、こちらには聞こえない。そして突然現れた電車は、数秒もすればすぐそこまでやってくるのだ。遅そうな電車も、意外に早いと感じるときである。電車の向こう側に見える家並みは、飯島の街である。線路際の木々がなければ、地続きと勘違いしそうなほどに向こう側の街と連続しているように見えるだろうが、実はあの街とこちら側との間には深い谷があるのだ。これほど大きく迂回することで、当然所要時間は長くなる。これが飯田線の特徴的な姿なのである。駅が多いのも事実だが、なかなか客の足を奪えないのはその地形的制約もあるのだ。しかし、本来なら右側の窓に座れば伊那谷のどららかしか車窓に流れないはずなのに、こうした迂回する窓には、時に両側の景色を片側の車窓に眺めることができるのである。

 帰路の車内には総勢数人だけの客である。誰も降りることもなく各駅に停車し、最寄の駅をむかえた。
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