Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「汚い」はエコ?

2009-01-07 12:25:28 | つぶやき
 時おり「ゴミ屋敷」というものが話題になる。そのゴミ屋敷が近隣に迷惑になるといって撤去される光景も見るが、ゴミ屋敷が必ずしも世の中に悪いというばかりではない。処理をしないということはゴミが出ないということになるわけで、CO2の排出は低下する。ゴミを処理しなければエコになるとまでは言わないが、現実的にはゴミをたくさん出せば負荷が大きくなる。ゴミを出さない世の中を形成するのが最短距離だとは思うが、生産しないと労働力に影響するからエネルギーを使っておいてそれを循環させるというのが今の主たる方向だろう。それでもエコバッグではないがレジ袋ノーという流れは、生産に対してノーと言っているひとつの例と言え、この生産物のCO2排出量を数字で掲げるが、実はもっと有効なものもきっとあるのだろう。なぜかレジ袋が悪玉に掲げられた、そういうことだろう。それでもこうした生産ノーの事例は多くはない。前述のように基本的に生産をストップさせて経済を停止させる考えはありえないということになる。だからこそ循環であれば、そこに労働力も生まれ、資源も有効利用できるという主張となる。そういう意味でゴミ屋敷は循環しないから悪玉のような存在になるが、循環ではなく、生産ノーという考えであれば、けして悪い視点ではなくなるのである。

 息子が台所に立ったあとは棚に汚れた皿が並んでいたりする。ようは洗い方が上手でないと言うか、しっかりと洗ってない。母は「水を無駄に使わないように」と言い、水道の蛇口から水がしっかりと流れているのにその水がそのまま流しを流れて出て行く姿をきつくとがめる。なるべくきれいな水はすすぐ際に使うだけにし、洗いおけに溜めた水を使うように促す。農村において水質が悪化した理由に台所などの洗剤の流出があった。洗剤を使えば水は汚れる。したがって各家庭の台所から出る水の汚染度にはかなり格差があるのではないだろうか。昔のように使ったお椀をお膳にそのまましまってしまえば洗うことは常時はしない。そうすれば汚れた水は排出されない。もっといえばゴミ屋敷ではないが洗物をしなければ水は汚れないということになる。エコ生活を営もうとすればこのあたりから始めたいものである。洗うなとは言わないが、いかに洗剤を使わない生活をするかということになる。汚れたままでは使えない、だからしっかりと洗う、そうすれば水をたくさん使う。また食生活が欧米化することにより、日常のように油を利用する。使えば使うほどにその汚れを取ろうと洗剤を使うことになる。これはレジ袋を使わないから「エコ」というのとは次元が違う。

 我が家ではこうした台所で洗剤をあまり使わないことを以前に触れた。アクリルの布切れを使って洗うことで油物もそこそこ除去できる。わたしはどちらかと言うときれい好きな方で、しっかりと洗う方だ。したがって水の利用量は妻に比べると多いだろう。しかし、本当に洗剤は使わない。それでも十分に家族の誰よりもきれいに仕上がる。そしてこの洗物を前述したように頻繁に行わないような暮らしができればそれにこしたことはないが、ここがきれい好きと楽観的なずぼらな人たちでは差が出る。世の中がきれい好きになったから、そのまま否エコという表現ができるが、そういう視点ではゴミ屋敷もエコなのだ。ものには限度というものがあるのだろうが、出来上がった(洗い終えた)物が同じならば、そこまでの過程はあまり数字にも表れないし人との差はわかり難い。実はそうした部分に大きな差があること知っておかなくてはならない。
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