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Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

もう一度「立石」

2009-01-04 23:12:41 | 歴史から学ぶ
 「大泉の里 その参」で立石について触れた。辻に建っていたと言われるこの石は、地元では何の石かあまり理解されていなかった。調べたところ「青面金剛」とわかったが、伝承ではそれとは理解されていなかった。何度か道の拡幅で場所を移動したというが、もともとはほとんど埋まっていて頭だけ出ていたともいう。「奉供養青面金剛」と掘られたのは、並んで刻まれている年号の宝永8年と思われるが果たしてそれが建立年とは必ずしも言えないだろう。その碑が立つ場所を立石と言うあたりから、地名の方が古いかもしれない。あるいはもともとあった立石に、後に「奉供養青面金剛」と刻まれたかもしれない。

 この立石の建つ場所も見晴らしの良い場所だったという。そして元は頭だけ見せていたというあたりから、以前触れた松本市島立の立石を思い出す。その立石は現在地の南南東25メートル地点にもとはあって、「字立石地籍の田の畦に、30センチメートルほど頭部を表し、地中に埋没され」ていたと言う。そのまま大泉の立石の説明に流用しても十分なほど似ている。松本市島立の立石でも触れたように、もしかしたら古い時代の測量基準点という捉え方もある。当然のこと見晴らしの良い場所というのはその条件になる。

 立石というと葛飾区立石がよく知られている。そこの立石は今も頭だけ出した小さな石だという。ところが江戸時代には逆にもっと大きかったと絵図から推定できる。応永5年(1398)の『下総国葛西御厨注文』という文献に見えると言うから、大泉よりもさらにさかのぼる時代のもののようだ。いや、前述したように「青面金剛」と刻まれるより早くから立石と呼ばれていたかもしれないから、かなり古いものなのかもしれない。葛飾の立石には「文化2年(1805年)に地元の人々が、石の下はどうなってるんだということで石の根元を掘り進めたそうです。しかし掘っても掘っても石の根元は見えず、そんなこんなしている内に石を掘っていた人や近在の人々の間に悪病が蔓延。これは立石の崇りだということで、さっそく掘削作業は中止され、石祠を設け立石稲荷神社として奉祭するに至った」とも言う。頭だけ見せてはいるものの、根は深いのだろう。そして「掘ってはいけない」という戒めの意味も込めて伝承が今に伝わる。松本市島立でもこの石は「地球の真ん中までつながっている」などと言われていたようで、「掘ってはいけない」とまでは言われていなかったようだが、いずれにしても簡単には掘り出せない石であったことは確かなようだ。

 他にも少し立石を探ってみよう。諏訪湖を一望できる立石展望公園は字のごとく展望がきく場所のよう。日向の米の山にも公園があり、三角点がある。その脇にも立石群があるという。山梨県の旧牧丘町にある立石神社の祠のまわりには立石状の巨石群が連なっているという。下北半島にある立石大明神には「むかし、の漁民が沖に出漁していると、突然シケになって船が流され、方向を見失ってしまった。困っていると、この大岩の上に灯明が輝いた。これを目当てにしてようやく岸にたどり着くことができた。これから村人は、海の神として立石大明神とあがめている」と言う伝承がある。いずれも見通しの良い場所ということになる。丸森町のシンボルは巨大な立石である。これほど大きければ見事というしかない。どこからでもシンボリックに見えるはずだ。

 大泉の立石もやはり信仰対象の庚申さまではつまらない。もともと立石というところにこの石は埋没していた、あるいは別にそうした石があったのかもしれない。長い間に現在言われている石を「立石」と言うようになってしまったとも言えないだろうか。

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