Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

諸々の神々に

2009-01-01 21:07:10 | つぶやき
 「今年は・・・」という言葉で交わされる挨拶が、しばらくは続く。「今年は」なのか「今年も」なのかそれぞれに違いはあるかもしれないが、生まれ清まりというか再生の意識をもたらせるには元旦は節目ということなのだろう。このところ年度の境について語ったが、いずれにしても年中行事の一場面ということになるのだろうか。もちろん多くの人が再生される年の初めに期待を込めることになるのだろうが、相変わらずの日々がすぐそこにやってきて、長期休暇から開放されると、現実に苛まれることになるのだろう。みなそんな期待と現実の狭間で気持ちを維持する。

 今朝は午前4時半に氏神様に向かう。ここへ住むようになってはじめての元旦祭の当番である。よそでは元旦祭は神社総代などのふだんお宮に奉仕している人々が担うことが多いのだろうが、ここでは自治会がそれらを担う。宗教分離というところもある中で、完全に自治会と神社は同一のレベルにある。したがって自治会の役員をすれば必ず神社にかかわり、その役をこなさなくてはならない。かかわっていて少し不思議に感じたのは、昨年亡くなった家族がいてもその神事に関わらなくてはならないというところだ。いわゆる「新年の挨拶を遠慮します」と言うのはそこでは通用しないようだ。おそらくかつては通用していたものなのだろうが、自治会というものが変わってきた姿をそこに現しているようにも思う。もちろんそれなら宗教分離というような流れも不思議ではないが、ようは役割は順次担っていかないと地域が成り立たないという危うい現実を垣間見る。だからといってお宮は廃止しよう、などというわけにもいかない。かつてなら地域の有力者がポンとお金を出して工面された金銭も、そういう意味ではなんら格差のない構造になった。ポンと出したからといって落ちぶれてしまっては誰も見向きもしない。助け合いと言うものがなくなったと言うが、目に見える日常のものばかりではなく、構造的にそれが出来なくなっているのも事実。

 まだ夜の明けぬうちからの神事は、寒風の中わずかな時間で終わった。神々の名を読み上げていると「諸々の神々」と省略されて飛んだ。「あれっ」とは思ったがそういえばどこでも同じだ。読み上げる神々をどこで省略するのか知らないが、名も知られぬ諸神の数々をわたしたちは背に暮らしている。自治会が主導しているだけに神々への態度もそれほど規律が厳しくない。親近感がある一方でご利益も控えめなのか、などと思ったりする。なるようになるだろうと思い、楽観的に暮らすしかないと、またまた納得する。年初めにこれほど控えめでは先が思いやられるが、いつものように他人と比較しながら自らを慰めるのはわたしだけのことではない。

 今年も年賀状が届いたが、まだわたしは1枚も書いていない。電車に乗るのはオックウではないのに、年賀状が苦痛になってきた。ふと外を見ると、久しぶりに里帰りした娘が気持ちよさそうに丸くなっている。今度は隣組の新年会である。
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