Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

どんど焼きについて

2009-01-12 18:44:25 | 民俗学
 南信州新聞の1/11紙に「祭りの日が変わりゆく」と題して正月飾りを焼く行事、どんど焼きについて記事が掲載されている。1/7に多く実施されていた飯田下伊那地域のどんど焼きが日曜日に変わっていくということについて触れたもので、飯田下伊那はなぜ7日が多いのかということを解明しながら最近年その祭日が変わりつつあることを扱ったものである。「時代とともに祭りが変われば、伝統や伝承は失われていく。悲しい問題点もあるが、絶えることなく人々の暮らしとともにあるのなら、それも一つの、現代の祭りのあり方なのかもしれない」と締めくくっている。伝統や伝承というものは失われても伝えられるのだろうが、可能性としては忘れられてしまう可能性が高いから、まず実施され続けることが必要なのだろう。

 この記事には國學院大学の倉石忠彦氏や飯田市美術博物館の桜井弘人学芸員のコメントを織り交ぜてかなり詳細なイメージを駆り立てて記事をまとめている。しかし、そこからこの記事を信用してしまってもいけない。いくつか問題点がある。まずどんど焼きという行事の名称である。確かにどんど焼きという呼称もあるが、飯田下伊那ではホンヤリという呼称がかなりの範囲にある。ところが記事でも呼称について少し触れられているがまったくホンヤリという呼称は登場しない。おそらく飯田市周辺ではどんど焼きが一般的になっているのかもしれない。まずここで「飯伊」と地域を捉えて紹介しているが、「飯田市」と読み替えたほうが正確になるのかもしれない。



 もうひとつ日程のことである。飯田のマチを中心とした地域では7日という日程が一般的になっていたが、周辺地域は必ずしも7日ではなく、むしろ小正月の14日に行うところが多かった。図は南信地域のどんど焼きの実施日をプロットしたものである。『長野県史民俗編』からプロットしてみたのだが、実は飯田市周辺の担当者が手抜きをしたのかどうか知らないが、同書のデータはこの地域がかなり薄い。図の凡例にない丸印があるが、中を塗り潰してない丸は、外周の色で実施日を捉えることとする。なぜ中抜きしているかというと、『長野県史』のデータ不足で解りにくいため、手元にある村誌などのデータを加えた。中抜きの赤丸は14に実施しているという長野県史以外のデータを示す。だしここでいう『長野県史』のデータは成人の日が1月の第2月曜日に変更される前のものであって、最近は記事でも触れているように、実施日は14日ではなくなっているケースがほとんどである。この図から解るように、飯田市のあたりに青い丸が集中しているが、下伊那地域ではむしろ14日が多いことが解る。さらに良い例が7日に変更したという事例をいくつか見ることができる。『長野県史』のデータでも平谷村のデータは14日を7日に変更したというものであり、また『阿智村誌』によれば、現在は7日に実施しているが、かつては14日であったという記述が見え、詳細にかつての小正月に行われた行事の思い出が綴られている。喬木村でも阿島のマチでは昔から7日であったという村誌の記述もあり、マチ場においては古くから7日に行っていたようである。ここから記事の言う7日が伝統であるという捉え方は、必ずしも正確ではないのである。

 どんど焼きは飾られた松を処分するには必要な行事である。盆の飾りが川に流せなくなって処分に困ったように、松も焼いてはいけないと言われると処分ができなくなる。かろうじて火祭りは許可されて継続しているが、松飾りをしなくなればその行事も不要になってしまう。今はどんど焼きという行事を継続しようというよりは、松を処分するという意味で絶えることなく続けられているという見方もできるかもしれない。

 なお、図の『長野県史』のデータは、「松飾を焼く火祭りをいつしましたか」という調査をしていないため、年中行事の項目から日程を読み取ったものもある。したがって20日とか31日という実施日は、必ずしもどんど焼きの本日ではないかもしれない。ようはたとえば14日に焼いてさらに20日正月に焼いたものかもしれないし、最後の松飾を31日に焼いたというものなのかもしれないが、あくまでも同書から読み取ったデータであることを踏まえておくこととする。
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