Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

小宇宙の行方③

2009-01-15 12:23:51 | 民俗学
 小宇宙の行方②より

 特定の指導者によって始まった活動がなかなか継続していかないということについては、その特定の人が後継者を育成できなかった、あるいは特定の指導者が大きすぎてそれを引き継ぐ人が出てこないということが要因となる。いずれ設立当初を上回るような活動をみることができなくなる事例は多い。

 福澤昭司氏は「小盆地宇宙の行方」(『日本の民俗2 山と川』)において、農村における現実の問題を的確に捉えている。ヤマ・サト・マチをヤマとサト、サトとマチ、マチとヤマという二者の関係に分解し、その関係を相互の視点から描いてみている。その結果、三者の間には相互補完的な関係があり、「相互依存の関係は、ムラ内ではある程度類型化された生業を営んでいる反面、他のムラとの関係では一体化することなく差異は差異と認め、集団として補い合うことで可能となったのである。つまり、ムラ同士の差異がなければ補い合えないし、個々の才覚に頼ったのでは単発的関係に止まざるを得ないものが、差異を利用し集団としてまとまることで継続した関係となった」と言う。そして「個人的才覚で作られた関係は両者のおかれた状況が安定している間は継続できても、たとえばどちらかが亡くなったりした場合にはたちまち崩壊してしまうだろう。ところが、ある程度集団として補完関係が営まれていれば、たとえ個別の関係に異変が生じても、代替えが可能なのである」とする。前述した特定の指導者による活動は、その特定の人がいなくなることでたちまち崩壊してしまう。いかに個としの対応ではなく、集団それも多くの人たちが同じ作業で関わっていくことが補完可能となるかということである。これもまた個別化する人々の社会構造の事例なのかもしれない。

 農業は他国との競合を勝ち抜くために大規模化の構造を目指した。強いては均一化したモデルを目的に、多くの補助事業を提供した。「それぞれの独自性を認め、不足を補い合うことで初めて存在しえたムラを、全国どこのムラも似たようなものに整えることで、条件の悪いムラ、生産効率の低いムラを排除することになったのではないだろうか」と福澤氏は言う。「農村を均一化することで求められるようになったのは、それとは裏腹の農家の個別化」だったのである。この個別化は「周りと同じ商品を売っていたのでは、わが家の商品は買ってもらえない」というマチの考えであり、商品の差異化を図り自らの商品を売ろうとするものである。それは「能力主義により、周囲を出し抜くことに振り回されている現代サラリーマンのものでもある」と言う。その通りの道をムラも歩んできたわけである。福澤氏は「皮肉なことに平準化した最小単位の個に差異を設けなければならなくなった」とわたしに述べられた。かつて農民の支えであった農協。その農協は今や支えではなく、稼いだものを片っ端から取り上げていく(そうしないと職員を維持できないだろうが)。そしてそうした農協関係者が「現代では農協に頼るのではなく、自らの販路を開拓していかなくてはならない」と、まさに福澤氏の言う個人の才覚によらざるを得ないことを口にする。もはや農村と農民という関係は消えてしまったといっても過言ではないのである。それをこの経済社会は望んでいるようである。この考えに基づけば、農業は、農家は個の事業者として経営していかなくてはならないというシビアなものになっているといってよい。これでは小規模農家がやっていけるはずもないし、若き農家を育てられるはずもないのである。

 小宇宙はいまだ存在するものなのだろうが、果たしてその構造に適正な人種とはどういう人種なのだろうか、などと現在の農村社会に見ている自分がある。
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