Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

現代の罠

2009-01-26 12:27:26 | ひとから学ぶ
 もちろん息子たちのような十代が、気が利く行動を誰しも取るとは思わないが、躾というまなざしでみれば、そう親が願うのも事実である。そして今はできなくとも、いずれ親がそういうことを口にしていたと気がついてくれればよいのだが、なかなかそれは期待薄なものなのである。行動が伴わないことを何度言ったところで、果たして咄嗟にそれができるかどうか、また記憶としてそれを呼び起こすことができるかどうかなどと考えてしまう。同じ作業を、行動をともにしながら覚えるしかないと思うのだが、簡単に言えばなかなか身内ではそれを教え込むことはできない。それほど教育も含め、他人に頼らざるを得ない部分が多いことに気がつく。はっきりいって子どもの教育も同様なのだろう。学校にも行かずに自宅で世の中で通じる人間が育つとはとても思えない。そういう意味で、これほど他人と接しながらでないと育たない動物はいないのかもしれない。もちろんそこには人間なりの能力を発揮するための教育という前提はある。人との係わり合いがなくて、例えば市長になることができるはずもないし、社長になることもできない。ところが現代では、それほど人と関わらずともそうした立場に立っている人が少なくないのかもしれない。とすれば彼らはどこで人との係わり合いに代用できる教育を受けてきたかということになる。教育畑で働いている人ならこういうわたしの疑問に答えてくれるのかもしれないが、またいっぽうで、実は教育者でありながら、その実は不明という人もいるのかもしれない。

 「親の顔を見てみたい」など言ったところで、すべてが親のせいではないということが、ここから解るだろう。「うちの子どもは」などという言葉の背景には、自らの子どもの躾は自ら行っているという自負があるのだろう。しかし、前述したように、親がどれほど完璧に育てたからといって、誰もが同じように育たない。双子を同じように育てても、どれほど顔がそっくりでしぐさまで似ていても、同じ人間ではないのである。性格は違うように育つ。もちろん似ているところを探して、人は「やっぱり双子だねー」などと口にすかもしれけないが、むしろ違うところの方が多いのではないだろうか。環境が同一で、も同じ言葉を聞きながら同じ躾を受けるのだから、似ていて当然であるものの、違う人となりになっていくということは、子どもたちの成長がそれぞれで異なるということになるだろう。ようは生を受けて以降、誰しもが違う道を歩みだしているということなのではないだろうか。そういう意味で、どれほど親が敷いた路線があったとしても、子には個人としての資質が育まれて行くのである。三つ子の魂百までということばがあるが、確かにそれまでの成長が後に関わるのかもしれないが、だからといって、漫然と育った子どもと親の暖かい努力で育った子どもとどちらに勝負がつくというものではないはずである。それ以降成人し、社会に出て行き、さらにはそれ以降墓場に入るまで、人は多用に成長を続けるし、経験を積んでいくものなのである。

 では現代では、そうした背景に照らしてどうなのかということになるだろう。前述したように、人とかかわらずして蓄積はならない。とすれば、現代のように人と話もせず、自分だけの世界に入り込む時代は、自ずと人との接し方は換わる。顔の見えない対話が、相対している会話と違うということは誰しも解っているはず。電話のように声だけでも相手の反応は見えにくいが、これが文字だけともなるとなかなか真意は見えない。おそらく今は相手の顔を浮かべて文字を綴る人も多いだろう。これは手紙を書くのと同じようなものだ。しかし、ネット上で育まれた文字文化は、手紙を書くようなわけにはいかないと思う。変化の途上を見てきた者には解っても、このネット空間だけしか意識しない人たちばかりになったとき、果たして表情から何をうかがい知ることができるだろう。
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