Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

田舎者

2009-01-14 12:28:42 | 農村環境
 しばらく前に「田舎」の使い方に注意しようと書いたことがある。例えば「田舎では当たり前なのに都会では違うのである」みたいな書き方は、自らのいる場所を田舎、そして東京のような場所を都会として対比している。しかしこの場合の「田舎」は別に「田舎」という表現でなくても良い。「地方」とか「農村」といった言葉と発している側にしてみれば置き換えても十分なはず。にもかかわらず「田舎」と使うあたりに、不自然さを感じない人も多い。「田舎」は必ずしも地方とは限らないはずなのに、いわゆる「田舎者」という例えに代表されるように、地方を揶揄して表現する場合に使われることも多い。わたしはこうした人々の意識にかんがみ、農村を安易に田舎と言ってしまうところにためらうものがある。農村に住んでいる者が、あまり「田舎」という言葉を意識して使うのは他人へ自らの住む場所を紹介するにも適正ではないと思っている。ようは「そこに住む人たちが「田舎」と表現する必要はないのではないだろうか。とはいえ、そう思いながらも表現し易いということもあるためか、自らの日記に「田舎」を検索するとたくさん使用していることがわかる。ただ以前はともかくとして意識して以降は、よその人たちが捉える「田舎」と総称しているイメージを利用したいときは使用し、自らの地域を、あるいは個別の地域を表現する際には、その場所を「田舎」とは表現しないことにしている。

 意識するもう一つの理由として、日常の会話で「田舎」という言葉を使うことはほとんどない。きっとマチ場の人たちと会話をする際には使う可能性は高まるのだろうが、いずれにしても自らの地域を「田舎くさい」とか「田舎者だから」などと表現することは自らの地域を見下しているようなものでそこに住む人たちが安易には使うものではないと考えている。言いようによっては、「それは差別用語ではないか」などと思ったりする。ところが最近はかつてと異なり、田舎暮らしを望む人もいる。この場合の「田舎」は商品としての地方の表現と言えるだろう。きっと都会やその近在から移り住んでいる人たちは「田舎」という言葉にそうした商品価値を抱いている人もいるのだろうが、もともとそこに住んでいる人にとっては少しばかり「田舎」イメージは違うように思うし、そうした意識が無いというのも嘘であるとわたしは思う。

 あるブログのページでこの「田舎」を検索してみる。この方は都会周辺から駒ヶ根に移り住んだ方である。そこにあるフレーズをいくつか並べてみる。

「田舎者の狭い了見で考えていたら世の中の笑いものになってしまうぞ」
「家庭ごみ処理機に予算をつけた程度で満足しているようでは、「井の中の蛙、大海を知らず」の恥ずかしい田舎者です」
「伊那谷の元祖を争うつもりなら、どちらも恥さらしな伊那か者(田舎者)」
「駒ヶ根ってやっぱり地方の田舎だな」

 このフレーズから解ることは、本人にとって「田舎」は狭い了見のところで、井の中の蛙、そして恥ずかしい人間であるということになるだろうか。その「田舎」に住んで「田舎」を変えようという意識は立派だが逆に捉えると、「田舎」を受け入れるつもりはないという印象も受ける。以前にも触れたが、かつて祭りを盛んに見て歩いたころ、お世話になった先生はよく「この田舎者」という言葉を使って人を見下すことがあった。その方は名古屋市内の方である。祭りという比較的田舎に伝承されているもので自らの名声を高めていたのに、この言葉を聞くたびにわたしの心は痛んだものである。都会の方々が「田舎者」と地方を馬鹿にするのはまだしも、当人が「田舎」とは意識しないところから移り住んでおきながら、「田舎」を馬鹿にする人は、正直言って「田舎」には住まないで欲しいと思うし、そうした人に圧倒されて地域がおかしくなってしまわないようにと思うばかりだ。
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