Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

年始の飯田線

2009-01-02 23:35:45 | つぶやき
 生家の年始に電車で向かった。電車内はそれぞれのボックス席に、一人、あるいは二人が座り、その空間が余裕を持って車内を演出するも、実際はそこに立ち入る隙を与えない。ようは空いているのはボックスから外れたベンチシートである。そしてよく見るとそれらのシートもまばらではあるが既に座っている先客がいる。穏やかにやってきたワンマンカーは、車内放送だけが騒々しく聞こえ、その余裕のある空間に客の声はない。シーンとした車内に、ひたすら次ぎの駅を、そして昇降のドアを説明する放送が流れる。そういえば路線バスの車内放送に似ている。確かに余裕があった空間に足を踏み入れるも、座るシートは限られており、そこへ腰を下ろす。次ぎの駅で乗車する客はいない。そのまた次ぎの駅で乗車した客は、大きなバッグを持ち入れた。だれの顔を見ても常にこの空間を利用している客ではない。こんな季節に飯田線を満喫している客、そして帰省先から帰るのだろう客が無言で座る。動きのない穏やかな世界である。先日も触れたが、年末はもちろんのこと、正月に電車に乗るのもずいぶん久しぶりのことである。年始まわりに電車を使う人などこのご時勢にはいない。そんな空間に身をゆだねて、三つ目の駅で降車した。もちろん私以外に降りる人などいるはずもない。

 生家では電車でやってきた息子の姿を見て、母がかつての正月のことを口にする。母とともに電車に乗って母の生家をよく訪れたものである。「重い餅を背負って行ったもんだ」というように、年始に餅を土産に持って行ったわけだ。重かった餅のことが母にはすぐに浮かんだのだろう。母とは高遠原の駅で降りては、そこから2キロ近くを何度も歩いたものだ。最寄の駅までも約百メートルほどの高低差があり、餅を背負って坂道を登っていったわけだ。今は餅を土産に持っていくなどということはないから軽いものである。電車で行くと言ったら、少し行く気になっていた息子が敬遠した。「じゃあ車で行く?」と切り返すと、結局あまり乗り気ではなかったようで行かないことになった。かつて何度もあるいた駅からの道を、思い起こしながら段丘を下った。かつては段丘崖の上に立つと下界が広がったのに、いまや針葉樹の林がしっかりと行く手を遮る。やはり下界がすっきりと開けていたから、記憶にも残っているのだ。



 さて、帰りを待つホームで乗車する電車を写真に納めてみた。飯田線は田切地形といわれる川で削り下げられた谷を越えるために線路が迂回する箇所があちこちにある。中でも駒ヶ根市と飯島町の境にある中田切川と飯島町の中を流れている与田切川をまたぐ飯田線は、典型的なU字の迂回を見せる場所である。川の向こう側を電車が谷の中に迂回していくと、しばらくすると突然音も無く段丘を登ってきた電車が現れる。こちら側の段丘を登っている電車の音は、反対側には聞こえるのだろうが、こちらには聞こえない。そして突然現れた電車は、数秒もすればすぐそこまでやってくるのだ。遅そうな電車も、意外に早いと感じるときである。電車の向こう側に見える家並みは、飯島の街である。線路際の木々がなければ、地続きと勘違いしそうなほどに向こう側の街と連続しているように見えるだろうが、実はあの街とこちら側との間には深い谷があるのだ。これほど大きく迂回することで、当然所要時間は長くなる。これが飯田線の特徴的な姿なのである。駅が多いのも事実だが、なかなか客の足を奪えないのはその地形的制約もあるのだ。しかし、本来なら右側の窓に座れば伊那谷のどららかしか車窓に流れないはずなのに、こうした迂回する窓には、時に両側の景色を片側の車窓に眺めることができるのである。

 帰路の車内には総勢数人だけの客である。誰も降りることもなく各駅に停車し、最寄の駅をむかえた。
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