Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

年始まわり

2009-01-11 22:26:58 | 民俗学
 まだ小正月には早いが、ほんやり(どんど焼き)のピークを迎えた。今や小正月もへったくれもない。松の降ろされて近い日曜日あたりといえば、そうした年中行事に人気の日である。義父とお茶を飲みながら少し長い雑談となった。もちろん正月のことである。子どものころの正月の話が湧き上がる。元旦には年始まわりをしたという。大人がするのではなく子どもたちがするのである。常会にあった18軒をくまなくまわり、新年の挨拶をするわけだ。もちろん子どもたちがやってきたら手ぶらで返すわけにはいかない。いわゆるお年玉としてお金ではなく菓子やケンなどを用意しておき、来た子どもたちに与えるというのだ。3、4軒まわると子どもたちには持てなくなるようで、一旦家に帰ってお年玉を置いてくるというのだから、子どもたちにとっては楽しくて仕方がない。昔は子どもか多かったから各家ではたくさんそうしたお駄賃を用意しておいたようだ。義父は大正生まれだから、戦前の話と言うことになる。わたしの子ども時代にそんなことは聞いたこともなかった。正月に年始まわりをする子どもたちの姿は現在でも見ることができるのだろう。小県郡旧長門町では子どもたちが獅子舞をして年始まわりをする。南佐久郡旧臼田町清川のほか、南佐久郡内では同じような獅子舞の年始まわりが行われている。考えてみればそれぞれの子どもたちが「明けましておめでとうございます」といって年始まわりにやってくるよりは、一括して集団でやって来てくれたほうが対応は簡単だ。集団でやってくるとなればただ挨拶してまわるよりは、芸能でもすればみんな喜ぶし、正月らしい。自ずと獅子舞あたりは場面を賑やかにするにはうってつけである。こうして考えてみれば、もしかしたら正月の獅子舞は年始まわりが芸能化したものではないだろうか。

 子どもたちこうして人より物をもらい、人との縁を築いていく。一年にはそうした地域の中で下された子どもたちの役割があった。義父によると、どこの山へ入っても子どもたちには許されたていたという。そして入る際にナタやノコギリは持って行ってはいけないとされ、鎌だけが許された。ようは鎌で取れるほどの枝は取っても良いが、それ以上の枝、もしくは木そのものを取ることは禁止されていたということになる。子どもたちは鎌を持って山へ入ると、焚き木を拾ったりしたのである。その焚き木はムラの中心にあった雑貨屋に持ち込むと引き取ってくれたという。そうした雑貨屋が二軒ほどあったといい、雑貨屋ではそれを商品として店に並べるのではなく、マチの方と取り引きをして出していたようだという。子どもたちは銭を稼ぐために、そうした山へ入ったのである。丁寧に縛ってあればそれだけで銭をよけいにくれたと言う。ようは商品価値がどうすれば上がるかということをそこで教わったのである。少しばかりの銭であったのだろうが、銭はそうして稼ぐものであって、やたらに親から手に入るものではなかったのである。もちろんそうして地域の中で子どもたちの担う仕事があったから、地域の人々にもどこの子どもか認識されたし、子どもたちに許される規範というものが暗黙の中に存在したに違いない。

 年中行事を綴った1年の記録を紐解くと、日を追って何が何時行われたかという記述がされている。しかし、前述したような子どもたちの具体的な生活は紐解けない。民俗というものに関わって年中行事を目にし、そして聞いてきたが、意外にもそうした具体的な生活の姿は把握してこなかった。正月にしても農から離れるに従い、行事そのものの意味もなさなくなった。行事が消えていくのは無理もないことである。意図している生活がなくなっていくのだから。しかし、子どもたちは、そして年寄りは、主人は、主婦は消えはしない。それぞれにとっての年中行事は、けして農から離れようと意味があって伝えられても不思議ではない。年中行事という行事そのものを追っていくのではなく、それぞれの立場にみる1年を捉える必要があるのではないかと、義父の昔語りを聞きながら思った。

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