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食料自給率と農民③

2009-01-13 12:26:59 | 農村環境
食料自給率と農民②より

 常陸太田市の農業法人水府愛農会は、5人の有志が集まってソバの栽培を始めた。耕作放棄地が農地の3割も占めるようになるなか、高齢化して農業をしなくなった農家が増えていく中そうした農地を活かそうという狙いで始めたものである。愛農会の代表は69歳。49歳のメンバーが最も若く、あとは59歳、68歳、69歳と平均年齢は63歳である。兼業農家が1人いるだけであとは非農家という立場で始めたと言う。20アールから始めた耕作は平成20年には20ヘクタールまで拡大し、300俵を生産するという。栽培から収穫、そしてそば粉として出荷するまですべてを愛農会が担うという。専業でなくともこうしてやっていけるというのはソバという作物の性格もあるのだろうが、平均年齢からすれば退職後でも十分に担っていける分野ということなのだろう。畑を託す農家は100軒を超えているという。そして売上高は2千万近いようだ。

 これを食料自給率を上げるというテーマで紹介しているある全国規模の農業関係団体の広報誌で見た。ここに気になる点がいくつかある。例えば国の補助事業も、また県の動向もいわゆる環境系の整備を行うことに積極的で、かつてのような味気ないコンクリート構造物ではなく環境配慮型を前提にしたまなざしで採択をしている。そうした動向を広報すれば、自ずと生産重視、あるいは農業者重視ではなく、消費者重視の視点をあからさまにし、従来から農業を守ってきた人々へのまなざしはたいへん厳しいものとなる。この事例もまた農業関係団体が紹介するように、どちらかというと新規参入者の事例報告と言ってもよい。ちまたではそういう事例が多く紹介される。もちろんそうしたことで新たな視点、動向というものを広報することで、農業従事者の増大やその分野に将来性を持たせようと言う狙いにはなる。しかし、では農業を専業として担ってきた人々や、その他の農業者にとってどうなのかということになる。事例にもあるように託す農家は100軒を超えるという。もはや従来型の農家は農業をしなくなっているという姿がそこには見える。

 農村と農家という関係をみたとき、こうした気がかりな部分が心の奥底に潜んでいるに違いないとわたしは思っている。ようは国の方針に右往左往しながらも農業を営んできた人々へのまなざしの無さである。あいも変わらず農民は自民党の支持者と勘違いしていた自民党関係者も多かったのだろうが、もはやそんな原則などない。それはまなざしの先が公務員的に1個人に対しての補助はしないという大原則にあったからではないだろうか。直接住民と介す市町村が、個人的な物言いに左右されるのではなく、公を意識するのと同様である。それがため、環境配慮などという視点を持ち出して非農家の理解を得ようとした。これは本質の歪曲と言わざるをえないのである。こうした考えがある限り、農業の衰退を止めることは不可能なのである。

 具体的に一つ事例を上げてみよう。あるため池の話である。県の事業としてあるため池を改修することになった。理由は溜められた水の波で堤体表面が削られて堤体そのものが脆弱化するのを防ぐためである。本来波を除けるための措置をとるわけだから少し前なら波が常に当たる部分に波除護岸というものを施工した。波の当たる部分とはいってもその部分だけに護岸を設置するわけにもいかないから法尻からそれを張っていくわけで、このあたりにあるような小規模なため池ならおおかた池底から護岸を張ることになる。ところが最近は景観を重視して単なるコンクリート製のものを張っていくのではなく、景観配慮型のブロックを使ったり、あるいは自然石を使ったりする。ここでいうあるため池では張っているのではなく厚みが50センチもあろうかという巨石を池底から積んでいる。漏水防止のためにその石積からさらに奥まったところに遮水シートを張る。おそらく昔なら漏水防止と波除を兼ねて表面にゴム状シートを張った。これはけっこう危険で一度落ちたら這い上がれないという欠点があって、事実子どもがため池に落ちて死亡したという事例はこのあたりでも耳にした。しかし、いずれにしても両者の間には大きな金銭的な開きがある。ゴムシートに問題があるのなら波除ブロックの背後に施工するなど経済的な方法はいくらでもあるのだろうが、今は「景観」を盛んに言う。ところがため池は子どもたちの遊び場ではない。昔はそんな場所が子どもたちの重要な遊び場であったが、時代のすう勢とでも言うべきか、それはほとんどありえない。これは社会の意識構造とも絡む。とはいえ「景観」重視で目的以上の河川にでも積むような護岸を積む必要が果たしてあるのかということになる。1年中水の溜まっているといわれるため池で、その姿を見ることはほとんどなく、水面近くにその姿を若干見せるだけなのである。県事業ということで補助の残額を地元で払うわけだが、これがまったくなく単独で行うといったらこんなことはできるはずもない。

 国が財政難であることは言うまでも無く、地方も同じである。しかし「環境」もそうであるが「景観」とか「自然」という言葉に騙されて、わたしたちは本来何をするべきかということを忘れているのではないだろうか。こんな補助制度がその言葉で平然と執行されるなか、老朽化して修繕を待っている多くの水利施設が世の中にはたくさんある。そこにも意識として問題事例はたくさんあるのだが、こうしたちぐはぐな流れは、食料自給率という言葉に踊らされるなか、やはり本質を見失う事例を育むことにならないだろうか。

 続く

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