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Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

お金の価値

2008-04-15 12:35:03 | ひとから学ぶ
 内山節氏が信濃毎日新聞の連載(「風土と哲学」68)で、貨幣についてこんなことを述べている。「お祭りの日には母から五十円をもらって神社に行った。目当ては神社の境内にならぶ露店である。子どもの頃は誰もがそうであるように、慎重に店をみて歩き、ひとつ、またひとつと決断していく。五十円というお金には、使い切るのにずいぶん長い時間が必要になるだけの価値があった」という。おとなにとってわずかな金でも、子どもにとって価値は大きなものだったというかつての祭りでの意味深い思いである。もちろん1960年ころと言っているから、50円といってもそんなに小さな金額ではなかっただろう。欲しい物はたくさんあっても、その中から何を選択していくかということが、時間を要すことになる。そして選択したものをあとから悔やむこともあるだろうが、悔やんでもけしてそれを粗末にはしない。選択したという思いいれがあるのだ。そんな子どものころの思いは、十分にわたしにもある。あまりお小遣いをもらって、露店で迷うという経験はなかったが、少しばかりその記憶はある。むしろわたしの場合は祭りよりも、欲しいものを買いたいといってなんとか手にしたお金で、どう選択するかという迷いは、露店での品物を物色するのと同様であった。そして、その選択に間違いがあったこともあるが、それを間違いだと自分では認めたくなかったものである。選択したからには、その間違いも自分で消化したいのだ。それほどお金というものが尊かった。無駄銭を使ったなどとけして思いたくなかったのだ。

 内山氏は「お金は主人公ではなく、お金を用いる人間が主人公だという一面を、伝統社会は保持してきたのである。そのことによって、普遍的な交換財にすぎないというお金の一面と、しかしそれを使うのは人間だという面との調整がはかられてきた」が、個人の社会が展開するようになって、お金を使用する際に他者との関係を薄め、個人の所有物にになっていったという。お金に振り回される、従属した生活舞台が、毎日毎日やってくるのである。

 先ごろ、梨の花付けの準備に追われている大正生まれの方に道端で声をかけた。うさんくさくも思わず、いろいろと話をしてくださったが、その中で「アメリカ的貨幣価値」ということを口にされた。身の程をわきまえず、金の亡者となるこの国の流れが、暮らしにくい世の中を作ったという。わたしもその通りだと思ういっぽうで、しかし日々そこに惑わされている自分もいる。きっとその方は、戦争という苦しみの時代を経験したものの、自らの信念で人生を歩まれてきたからこそ言える言葉なのかもしれない。多くの人がどこかでそれを理解できても、すでにほとんどの人が「それでは生きて行けない」と思い込んでいる。しかし違うのである。内山氏が言う。「子どもがお祭りに行くときにポケットに入れた五十円は、夢をふくらませるのに十分な金額であったように。あるいは孫からもらったお小使いには、その金額をこえた価値があったように」その価値は主人公であるそれぞれの人にある価値なのである。「お金は使うもの」ではなく、使わなくとも生きることのできる日々を過ごしたいものである。



○外出するようになると、たくさん写真を撮る。先日までとはまったく違う。加えて花の季節。画像にはこと欠かない。ということで、杖突峠道の近くで、ネギを植えているお年寄りの二人を捉えた。
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雨の中の獅子舞

2008-04-14 12:29:46 | ひとから学ぶ
■大島山瑠璃寺獅子舞




 上伊那南部でも桜が散り始めている。4/13午後1:30に始まります、とご案内いただいた「牛牧の獅子舞」。ご案内いただいたからには行かなくては、と昨年同様に大島山瑠璃寺の獅子舞を訪れた後に立ち寄った。昨年とは違い、瑠璃寺の獅子舞が完全に終了していないうちに足早に訪れると、すでに牛牧の獅子舞も最後の場面である。毎年必ずしも定時でないことがよく解る。

 さて、この日は薄日の差す暖かな日であった。しだいに雲が厚くはなってきていたが、雨はまだだろうと思っていると、午後2時を過ぎるとすでに雨粒が窓にあたる。「持つだろう」と思い瑠璃寺の境内に下りるが、それほどすぐに雨が降ってくるという様子ではない。道中を練る獅子舞は、さすがに著名なだけに大勢の人だかりである。なによりカメラマンの多さ。獅子を導く宇天王が前進するたびに、その前を囲むカメラマンが後ずさりしていく。とても滑稽な風景であるが、こうした風景は珍しいことではない。しかし、桜が満開というシチュエーションは、よりカメラマンの餌食になることはまちがいない。それは解っていてもそんな大勢のお尻を見ながら獅子舞を見学する側も、あまり楽しいものではない。

 ところが薬師堂の前庭にたどり着くと雨が降り出す。それも小雨というよりは本格的に変わる。しだいに周囲を囲んでいたカメラマンは飛び散るように消えていく。雨を逃れるという意味もあるだろうが、すでに雨が降り出した場面は写真の対象からはずれるのである。もちろんどんな場面にも写真にならない場面はないだろうが、イメージしてきた写真の景色はそこにはないのである。カメラマンなんてそんなものである。それでも撮影を続ける人は、また違った意図をもっているのだろう。雨が降り出すとともに、桜の花びらを叩き、それらを散らせる。桜吹雪に歓声が上がるほどであった。そんな景色はそうはないだろうが、なかなか写真には写しきれない。20年近く前に出版された本を帰ってから見てみると、そのころは参道に桜の花も木も目立っていない。それにくらべるとずいぶんと伸びた桜が、見事に獅子舞を演出しているが、なかなか花と祭日が一致するとは限らない。

■牛牧獅子舞


 散り始めたカメラマンをよそ目に、牛牧へ向かうが、雨脚は強い。すでに前庭に入った獅子は、眠りについていた。宇天王が起しの所作を繰り返す。牛牧のものは一舞いの所作が瑠璃寺のものより長い。伝統という意味では瑠璃寺のものが著名であり、この地域の代表的な獅子舞と言われるが、舞そのものは牛牧のものの方が芸術性が高いだろう。プロの世界なら古いだけでは評価されないが、地方芸能では古さがものをいう。両者を見ているとそんなことを意識させられる。牛牧もまた雨のためか、見物人は遠巻きである。瑠璃寺のものより大きめな獅子頭が目を覚まし雨脚の弱まった庭を左右に激しく舞い、再び宇天王に治められて舞い納めとなる。
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廃村をゆく人⑨

2008-04-13 10:10:39 | 農村環境
「廃村をゆく人⑧」より

 芽吹きのまだ始まったばかりの半対(旧高遠町)を再び訪れた。今回は人影はない。2カ月ほど前、雪景色だった家々は、すでに春の装いである。雪解けの水で、河川の水量がとても多い。それは、こと半対川だけに限らず、半対川が流れ込む山室川も、隣の藤沢川も同じである。静かだった雪景色の半対がずいぶんと騒々しい。狭い急流の沢沿いとういこともあって、川の水の音が山々に反響する。冬景色の中では覚えのない音である。まるで洪水時のような轟音が響き渡る。隣の家はすぐそこにあるが、これほど沢の音が大きいとなると、隣近所に人がいても聞こえないかもしれない。

 集落の中心への入り口に、盛んにスイセンが咲いている。ごく普通に見られるスイセンであるが、人気のないムラに、花が息を吹き返したように盛んに咲く。おそらく人が住んでいたころに育てられたものなのだろう、家並みの近くに乱舞する。スイセンも見事であるが、この谷に入ると福寿草があちこちに咲いている。すでに花期の終わりということなのだろう、丈が長く、ニンジンの葉のような葉が伸びている。花期も終わりともなると、花もそれほど賑やかではないのだが、山の中の人気のないムラには似合っている。あまり自らを誇示しないのがよいのだ。それにくらべると、人気がなくとも、スイセンはそんなことを気にもせずに自らを誇示する。人もそれぞれであるが、花もそれぞれなのである。



 ムラには何箇所かに「山や家の物を持ち出したり廃棄物を捨てたりしないで下さい」という立て札が立っている。写真のものは集落の入口に立つもので、道の両脇はかつての水田である。電柱が奥へ奥へと続いていて、家並みもけして廃村という雰囲気ではないが、集団移住してすでに20年以上経過しているという印象はない。それだけ地域の人々は、ここを離れても管理を続けてきたという証だろう。道の脇に看板が見えるが、これは農林省告示の地すべり防止区域を表示したものである。長野県での廃村というと、かならず地すべりが背景にある。







 ムラの中ほどにある釈迦堂である。その脇にある土蔵は釈迦堂とは無関係なのだろうが、ムラの内にはこうした土蔵も幾棟か見える。
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外食・中食の裏技②

2008-04-12 15:07:49 | ひとから学ぶ
 『生活と自治』(生活クラブ事業連合生活組合連合会)の3月号からの「外食・中食の裏技」の続きである。
③コーヒフレッシュ
 わたしは1日に何度もコーヒーを飲む。そしてそのコーヒーは、99パーセントインスタントである。とても身体に良いとも思わないが、お茶代わりに飲んでいる。緑茶でコーヒーほどの簡便なものがあればそれを多用するのだろうが、なかなか口に合うそんなインスタント物にめぐり合わない。コーヒーも砂糖は入れないが、クリープを入れる。これを「ミルク」とは言わないが、その代用として利用しているに過ぎない。結局インスタントコーヒーそのものではいまいち口当たりが良くないから、クリープを入れることになる。インスタントではないコーヒーを自宅で飲む場合はほとんどブラックなのに、インスタントを多用する際は、こうしたクリープを入れる。

 世の中に出回っている中にミルク状のものが入った小さな容器は、「ミルク」と思い込んでいる人も多いが、実はコーヒーフレッシュという。もちろんすべてではないが、それが多いという。この原材料は植物性油を主原料として、乳化剤、カゼイン、増粘多糖類、PH調整剤、着色料といったものである。カゼインは色を白くするために使われているもので、これ以外は乳製品ではないという。記事によると、「乳化剤で油と水を混ざるようにし、増粘多糖類で生クリームのようなとろみを出します。カラメル色素で乳濁色を出すために色を付け、合成香料でミルクのにおいを出しています」という。完璧なる模造品なのである。メニューのコーヒーを依頼して、コーヒフレッシュが出てきたら勘弁して欲しいところであるし、そうした模造品のミルクが出てくるようなコーヒーは「怪しい」と思った方がよいかもしれない。むしろテーブルにコーヒーフレッシュが置いてあるような店では、コーヒーは頼まない方がよいかもしれない。

 ところで、クリープと類似品を出している森永乳業のマリームという製品がある。クリープに比較すると値段がずいぶん違う。なぜ値段が違うかといえば成分がことなる。マリームは植物性油脂、クリープは乳製品である。ようは、クリープの方がまだミルクに近いわけである。口当たりを気にして、そんな白物を入れているが、本当は多用しない方がよいとは解っている。しかし使ってしまうのは中毒のようなものである。

④ジュース
 模造品といえばジュースも似たようなものがたくさんある。そして100パーセントと言われると身体に良いと思ってしまうが、実はそうともいえない。中国産冷凍食品で話題になるように、果汁ものには輸入品か多い。記事にもあるが、濃縮還元と表示されている100パーセントジュースは、海外で濃縮されたものが多いという。りんごは中国、オレンジは言わずと知れたアメリカやブラジルである。そして濃縮されたものを還元する際に香料を添加する。そのままでは香りがなくなってしまっているからだ。100パーセントとはいうものの、怪しさ100パーセントなのである。

 写真はまったく関係ないが、駅へ向かう途中にある桜が満開である。

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ま新しい顔

2008-04-11 19:48:40 | ひとから学ぶ
 電車へ乗車してくる客もさまざまである。これもまたほぼ一年の間に感じ取ったことであるが、パターン化された動きもあればそれ遮るものもある。できれば同じパターンで乗ればいつもの安堵なのだろうが、そうはいかないものが人の世である。新しい年が始まったとともに、車内の様子も毎日のように変わる。新年度ということもあって真新しい顔もあれば、いつもと変わらぬ顔もある。しかし、真新しい顔が多ければ、いつもの顔のポジションも変わる。これが年の変わったことだと認識するわけだが、変わらぬ毎日おくっている側は、その変化に意外な顔を見せる。しかし、それは自らの意外であって、真新しい顔たちにはわからないことである。そんな人々の入り混じりがある空間が、不特定多数の顔が集る電車内なのである。考えてみれば、こんな空間は、この地域では他にない。もちろん、大型店の店内や、町の賑わいの中に、不特定多数で、それぞれの目的を持った人たちの顔を見るが、はめられた一定の空間ではないから、そこに流れる空気は、人目を意識することもない。息遣いも聞こえはしない。だから、あらためてこの空間は、大きく言えば伊那谷にはここしかないといってもよいような場所なのである。そしてさまざまな意識を持つ人々がいるからこそ、他人を意識するのであって、そんな空間は他にはないのである。

 先ごろまで自らが意識していたポジションには、毎日のように伊那福岡から乗ってくる若者が乗車してくる。いつもうつむき加減の彼が、どういう人かは解らないが、必ずわたしの席のあたりにやってきて座る。そのうち約8割はわたしの横に座る。彼にとっての座りやすい場所というものがあるのだろう。その彼が、この四月に入ってから真新しい顔がやってきてわたしのふだん座っている場所に座っているため、いつもの場所に座ろうとするが、そこにわたしは座っていない。別のわたしとそう年の変わらないおじさんが座っていて、その雰囲気が座りづらかったのだろう、通路を前後してまごつくのである。するとわたしがすぐ後ろの席に座っているのに気がつき、場所は異なるが、わたしの横に座るのである。車内の様子はこんなことの繰り返しのようなものである。いかにも横に座ってほしくない人は、2座席の中央よりに座る。さらに荷物を置いていれば、「座るな」と言っているようになものである。毎日の空間を見ていても、そんな雰囲気を醸し出している乗客が半分以上はいる。もちろん車内放送や車内を歩く車掌の口から「荷物は膝の上か棚の上へ」という誘導はあるが、その雰囲気は変わらない。けしてわたしとそう変わらないおじさんがそんな雰囲気を醸し出していたわけではないだろうが、真新しい顔は、この感覚に慣れていないのである。だからそこには意外な空気が流れ、若者には座ることのできないおじさんとの空気のやり取りがあったのである。真新しい乗客は、そんな毎日の雰囲気を察知していないから、空いていさえすれば、座る場所を求める人がいる。しかし、いつもの雰囲気を知っている人たちは、無理をしてその空間を押しのけることはない。毎日同じ顔ではそんな構図が見えてしまうが、そうではないから面白い日々なのである。
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自民党の終焉に向けて

2008-04-10 12:35:58 | ひとから学ぶ
 ガソリン税が下がって、ちまたではずいぶんと混乱しているようだ。盛んに暫定税率の必要性を説いてきた自民党、そして東国原宮崎県知事のようなオピニオンリーダー。にもかかわらず民主党は政権奪取のために、ガソリンを安くする方に突き進んだ。この時点での政党の支持率は、自民党の低落、民主党もそれほど増えずに肩を並べたというところに落ち着いた。世論調査では、東国原知事をはじめとした地方の広告塔のような知事が暫定税率維持を訴えたにもかかわらず、ガソリンの暫定税率はない方が良い、という意見が、維持すべきという意見を大幅に上回る。そのあたりを察知していたかのように、民主党は攻勢をかけるが、それも支持は増えない。しかし、現状で再びガソリン税を賦課するともなると、世論の情勢からいくと自民党はますます厳しくなる。自民党がどれほど認識しているかは知らないが、小沢民主党主の罠にはまってきている。

 日銀総裁をめぐる問題で、副総裁の座に対して民主党内部からも党首への批判が出ているようだが、党首対談の様子を見る限り、勝ち誇っているがごとく小沢の顔は、すでに「頂いた」という雰囲気が見える。おそらく、次のガソリン税をめぐる攻防で、政権交替を視野に入れた議論になれば、先は見えない状態になる。どこまでそうした戦略を抜きにして、まじめにガソリン税の補填を議論できるかである。この状態で選挙をしたら、自民党の敗北は間違いない。参議院選で敗北したのはまだ最近のことである。従来ならその反動によって治まるところに治まったが、すでにそうした国民意識はない。

 面白いことに、先ごろある国の検査機関が農政の現場に訪れて、非公式に農家組織の代表者にこんなことを口にした。「民主党が政権を持ったらどうでしょう。今の政策はまったく無駄なものになってしまう。」と。まさか「民主党」というせりふがその場面に登場するとは予想にもしていなかったが、すでに国の役人の中には、「自民党終焉」を予測してさまざまな画策がされているのではないだろうか。民主党の農業政策はそれほど具体的ではない。国民が民主党を望んでいるか定かではないものの、国民混乱はまだまだ続きそうだし、農業にいたっては、その混乱の中で明らかに沈み続けている。それは混乱に乗じた政策の激しい転換である。とてもその転換についていけない上に、政権交代ともなればさらなる試練がやってくる。自民党の終焉ととともに、農業の終焉が来なければよいが・・・。
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廃村をゆく人⑧

2008-04-09 12:34:58 | 農村環境
「廃村をゆく人⑦」より

 ここまで2回、小谷村葛草連について触れてきた。つらい暮らしを払拭しようと行われた大念仏。それをまた司祭する人々。科学的な現代においては不合理にも映ることを、かつての暮らしでは支えにしてきた。しかし、地すべり地帯ということもあって、姿を消してしまったムラ。地すべりのことを「ヌケ」というこの地域で、ヌケドメということを言う。草連を「ぞうれ」というが、こうした地名には地すべりがつきものである。わたしの住む町の山間地にも「長ぞうれ」という地名があるが、まさに地すべり地域である。葛草連ほどの地すべり地帯ではないが、湧水があって、急峻な地形の背景で、人目をはばかるように地すべりが進んでいる様子を見た覚えもある。

 わたしが初めて地すべりの信仰を知ったのは、この葛草連のある小谷村の『小谷民俗誌』であった。そこには次のように記述されている。


 小谷の地は地辷りの被害が多い。春の雪解けの頃から梅雨の頃にかけて、傾斜地で地盤の弱い所には、亀裂を生じ易い。これに雨水がしみ込んで地すべりを起こす。
 このぬけ止めには昔から、戸隠神社へお参りに行きぬけ止めの祈祷をお願いする習慣がある。亀裂の生じた場所が、多くの人に被害を及ぼす場合とか共有地であれば仲間が相談して代表が戸隠まで代参に出かける。昔は徒歩で白馬村森上から、柳沢峠を越えて鬼無里村を通り、戸隠まで一日の強行程で歩いた。
 戸隠の坊で一泊して祈祷をお願し、お札と杭を二本とか四本とかを受けて帰り、ムラ人とお祭りをして、ぬけ止めの杭を亀裂の入っている要所に打ち込む、こうした信仰が、村人等に、伝えられれている。


 昔から地すべりに少しばかり携わってきた者としては、地すべりが祈祷で治まるという印象はない。しかし、雪解けとともにやってくる地すべりの兆候、そしてムラさえ無くしてしまいそうな大きな土地の変動を、どうすることもできなかったに違いない。とすれば、神頼みくらいしか方法はなかっただろう。地すべりの場合は、少しばかりの崩落とはわけが違う。現代ならともかく、かつてはその自然のなすままに、住処を変えるしか方法はなかったはずである。そんな常襲地にあったからこそ、ぬけ止めの信仰が生まれたのだろう。

 さて、小谷村というと、同じころに小土山というところのショウキ様を訪れたこともあった。当時暮らしている家は二戸ほどだけになっていたが、今そのムラはどうしただろうか、などと思ったりする。そうしたムラがあちこちにある小谷村であった。雪深い地域には、どうしても地すべりがつきものである。苦しい暮らしであるが、いっぽうで、恵みがたくさんあったからそこに暮らした人々もいる。HEYANEKOさんがそんな小谷村の廃村を記憶を呼び起こしてくれた。
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廃村をゆく人⑦

2008-04-08 17:46:16 | 農村環境
「廃村をゆく人⑥」より



 ダムでその姿をまったく無くすムラもあれば、葛草連のように地すべり工事で様相を一変するムラもある。ダムの湖底でかつての形のまま残っていた方が、形を変えて残るよりはわたしには良いように思うが、形を変えてしまえばもう未練などなく、すっかり忘れ去ることができてその方が良いという人もいるのかもしれない。いずれにしてもすでに葛草連のムラには家屋の姿はない。

 訪れた最大の目的であった融通大念仏碑については、かつて『遙北通信』(145号・平成7年)という個人的に発行していたものに「北安曇郡小谷村葛草連の融通大念仏碑」と題して記述したことがある。その全文をここに紹介して、今回の「廃村をゆく人」を閉じたい。なお、文中にある□で示している部分はハングル系の文字が記載されていて、文字として変換不可能なため、□で示した。そして最初に表示している部分は、写真の右側に画像で示した。これは宮島潤子氏の『信濃の聖と木食行者』より引用させていただいた。さらに後段のものはその右側に画像で示した。


 碑面に朝鮮のハングルに似た字があることで謎の石碑として知られる融通大念仏碑は、北安曇郡小谷村の北部、新潟県境に位置する小谷温泉の近く、今は廃村となっている葛草連(くんぞうれ)にある。この碑については宮島潤子氏の『信濃の聖と木食行者』(角川書店・昭和58年)に詳しく著されている。ここでは、この著書を中心に葛草連の融通大念仏碑を紹介してみる。

 小谷村は古くより災害の多い所で、地すべりや雪崩が頻発に発生していたことが歴史上にみられ、また、地形からもその爪痕が随所に残されている。葛草連はことにその地すべりが頻発する所で、明治から大正にかけて、倒壊家屋の移転や再建が短期間に何度も行われていた。こうした地形上の欠点を有していながら、集落が維持される要因もあった。地すべり地帯には湧水が多いことが知られるように、水に恵まれ、飲用水や濯漑用水に事欠かず、また、西向き斜面であるため日照時間が長く、比較的沃土であった。このため、災害の頻発地帯でありながら人々を定着させてきたわけである。葛草連の文献上の初出は慶安2年(1649)の「信州安曇郡大町組土谷村大水帳」に見られる『くずそうれ』である。

 宮島潤子氏が作った略図は、明治7年の全国地租改正発布にあたって作成された葛草連の土地所有を示す村絵図と、昭和51年7月当時の村絵図と重ね合わせて作ったものである。融通大念仏碑は村の入口旧道沿いに位置している。碑面中央頂に阿弥陀の種字キリーク(梵字)があり、続いて「融通大念仏供養」とある。その右側に「文政十三天トラノ七月吉日 □□□□□□□□□□ サク」とあり、左側に「日月セイメイ天下泰平国家安全 葛草連村中」とある。碑高260センチメートル、碑巾130センチメートルの巨碑である。

 この碑についての伝説が残っており、それは次のようなものである。

 昔、ケカチ(飢饉)の年に朝鮮の貴族の女が子供を連れてこの山に逃げ込んできた。村の衆はふぴんに思い、食物を分け与えたが自分は手を付けず、子供だけ食べさせて死んで行った。村の衆は哀れに思い、その女の霊を供毒した。そのとき建てられたのがこの石碑である。(葛草連、小林浅吉氏談)

 伝承中の朝鮮というのは、右側のハングルらしき文字から導き出されたもので、女というのはその文字に続く「サク」という女の名によるものと思われる。餓死と朝鮮と女を結び付けた物語の関係石碑が、村の出口にある「どのとこ」(堂の所)石碑群の中に、「不食供養塔」として残されている(註.1)。願主は「 □□□ 禅定尼」とある。
 ところで融通大念仏供養碑には、五書体の混在がみられる。

 ①、明朝活字体の漢字-中央の一行(現在使用されている活字体と同一書体)
 ②、筆記体の漢字-両側の二行(カタカナ混じりの漢字というのは主として仏教関係者に用いられる書体)
 ③、活字体梵字・キリーク-中央頂の一字(真言密教もしくは修験山伏の手になるもの)
 ④、ハングル崩れと神代文字崩れの混在した書体-右側の一行後半(見よう見まねのハングルや神代文字は、当時の田舎の知識人、とりわけ平田篤胤系のの国学研究者、もしくは神官、もしくは両部神道の山伏を想定させる)
 ⑤、カタカナ-両側

 これらから「神官と僧侶」「神道と真言」の組合わせに、当時の田舎人、すなわち「地域の人」という限定を加えた結果、小林本家の檀那寺、大宮諏訪社の別当寺である高野山真言宗西水山神宮寺の文政13年当時の別当の筆跡と推定され、供養碑の書き手は、神宮寺十八世学了(嘉永2年没)であることが明確にされた。学了は善光寺街道沿道の会田宿岩井山補陀寺(真言宗)六十八世法印教清の孫である。若いころ高野山で修行し後に神宮寺別当として赴任してきた。書道に感心が強かったようで、漢字の書は極めて個性的である。すなわち明朝活字体というおよそ毛筆とは最も縁の遠い様式の書を一度もなぞらず、一筆で書き上げるといった、独自の筆法を編み出している。その独自性は石碑の書体にも発揮されており、同一碑面に漢字、カタカナ、ひらがな、擬似ハングル、擬似神代文字など、その混在にこだわっていない。

 このような手の込んだ表現は、後世多くの人々を惑わせることとなった融通大念仏供養碑の右側一行後半の奇怪文字を生んだ。この書体を朝鮮の文字として扱っているのは「倭漢節用無双嚢(わかんせつようむそうぶくろ)」(註.2)である。学了がこれと同類の辞書を手許に置いていたことは推察されているが、彼の書には濁点付きという独自性と、神代文字の混用という二つの特徴を備えている。

 融通大念仏供養碑の願主サクの名は、どのとこ石碑群の中にある「信州善光寺 三国一如来 茶湯供養碑」の建立者筆頭にも見られる。この碑は善光寺女人講が善光寺の阿弥陀如来に朝夕茶を献じる奠湯奠茶(てんとうてんちゃ)を一定期間担当した記念碑である。したがってサクは、善光寺女人講の講元をつとめた女性であったことがわかる。建立年月日は文政13年トラトシ6月であり、融通大念仏供養碑建立の一ケ月前であった。茶湯供養の善光寺女人講の講元サクは、融通大念仏供養碑の願主であるサクでもあったわけで、これらから葛草連の融通念仏が善光寺系であることは推定されるわけである。

 このようにサクは善光寺茶湯供養の女人講の講元であり、民間の半宗教者であった可能性が強かったといわれる。民間における融通念仏とは鎮魂の念仏であり、農耕の念仏であり、芸能の念仏であった。これらは相互に有機的につながりを示し、例えば凶作のときの雨乞い祈願や、凶作による死者の追善供養において唱えたり踊ったりして催されたりした。

 小谷村四ケ寺の過去帳の死者統計より、文政7年には332名という死者数が出ている。これは前年に比べ3倍近い数を示し、小谷村における宝暦、天明、天保の飢饉の死者数に匹敵している。これは小谷村の村人にとって大きな衝撃であったと推察される。翌文政8年には松本藩主松平氏治城百年祝賀祭が催され、小農層は飢餓に泣き、この年12月14日に起きた百姓一揆が赤蓑騒動で、連鎖的に小谷騒動が併発した。こうした周囲の環境でも推察されるように、文政7、8両年は小谷村の小農層にとって緊張と不安と挫折の重なった年であったと思われる。こうしたなか、社会的、個人的に不安感や危機感を克服しようと、宗教的エネルギーを結集して建立した碑が葛草連の融通大念仏碑とみられる。文政13年は、文政7年の七回忌にあたる。また、文政13年7月吉日の盆は、碑の司祭者であろうサクにとっても葛草連の村人にとっても重要な供養の日であった。小林安右衛門、杉原長右衛門妻の三回忌にあたり、杉原長右衛門の初盆の年であった。これら一族の霊や事故死をした小谷の村人の鎮魂を祈る融通大念仏供養が司祭者サクによって執行されたわけである。この調整役をつとめた者が融通大念仏供養碑の書を揮毫した学了であったろうと推察される。

 ところで融通念仏は、名帳(みょうちょう)という名前を書く帳面に名を連ねて同志となり、一緒に念仏を唱えるものはその功徳を互いに融通しあって現世や来世の利益を得るというものである。一人が一日百回、南無阿弥陀仏を唱えるとする。一人だけでは百回の功徳だが、百人の仲間で毎日百遍ずつ唱えると、一万遍、これを融通しあう(今ここに輪になった百人がおり、この百人を点として線でつなぐと首角形、百角のすべてに対角線を引くとこれが百万本となる)と百万遍となり、功徳の融通、相互扶助の精神となるわけである。

 また、大念仏は念仏の大合唱という意味で、もともと南無阿弥陀仏に節をつけて複雑なヴァリエーションを展開しながら歌う念仏であったという。これは慈覚大師によって日本にもたらされ、良忍によって日本化され詠唱の念仏になったとされる。この融通念仏に、踊りを加えた踊り念仏ができて大念仏になった。現在各地の郷土芸能に見られるものの元は、大部分これである。

 このように死霊を鎮めるための念仏の合唱は、葛草連においてはサクを中心にして行われたのであろう。

 「融通大念仏供養碑」について作仏聖(さぶつひじり)の研究に専念された宮島潤子氏の著書を参考に、念仏碑の書体の主や願主サクについて、少し紹介してきた。詳細については先に示した同書を参考にされたいが、氏はその後「万治の石仏」(諏訪郡下諏訪町諏訪大社春宮の近くにある著名な石仏)を追い、江戸時代初期の庶民の宗教生活を追求している。『謎の石仏』(角川選書-平成5年)や、長野市近在にある虫倉山系の調査報告書『むしくら』(虫倉山系総合調査研究所編-平成6年)などにおいても、作仏聖を中心とした研究を発表されている。


 さて、近年わたし個人としては研究動向や研究の意義のようなものを問いとして、つぶやいてきたわけであるが、自ら何もできず、何も示せれない現状では、大きなことは言えない、というのが現実である。しかし、そんな何もできず忙しいままに流されているなかで、絶えず思うことを記したい、というのも事実である。こうした江戸時代初期の山間の地に展開した民間信仰者の動きを思うに、こうした人々の心の動きや信仰への展開が今のわたしたちに何を教えているのだろう、また、こうした過去の足跡をどうこれからのわたしたちの生活に糧として生かしていったらいいのだろうという、現実の学としての捉えが存在しているのだろうかと危惧するわけである。歴史は過去を知るだけのものではなく、過去の上に立って将来の糧としていくべきものである。果たしてどこまでそんな捉えができているのだろうか。一趣味としての世界でもなく、一部の人々によって語られるものでもなく、生活のどこかに共通な連携を保てるものであってほしい思う。

 こうした融通大念仏の思想が必要とされた背景や環境をみたとき、例えば日本人の何パーセントが同じ境遇を理解でき、苦悶する自分に対応できるのか、という疑問がわいてくるのである。新興宗教流行である。しかし、苦のない者がたやすく「あいつはおかしい」といえるのは当たり前である。現代における人々の悩みのどこかに、過去を糧とした教えがあってほしいのはもちろんであり、時代が違うからといった教えはあてはまらないはずである。

註1.不食供養は、一月のうち功徳日を断食するという「断食行」を三年三ケ月続けて無病息災と、死後の安楽を祈ったという女人の信仰の跡である。
2.原板は天明四年につくられたものである。『節用集』というのは、室町時代以来の通俗簡易の国語辞書で、江戸時代では簡便実用向き辞書の総称であった。同書では、朝鮮国の文字のほか、オランダやだったん国、天竺国の文字も扱っていた。
 なお、わたしがこの碑をたずねた最後は5年ほど前のことで、『謎の石仏』の後書きによると、融通大念仏供養碑は、中土の神宮寺に移されているという。
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よそ者を受け入れる町

2008-04-07 21:52:04 | 農村環境
 信濃毎日新聞で特集している「ショーの見た夢」は、軽井沢の現状を知らせてくれる記事であるが、これを「避暑地、観光地のこと」と単純に別世界のことと区切ってしまうわけにはいかない。この4月から始まった「暮らしの実像」は、そこに暮らす人々の喘ぎを読み取ることができる。そしてその喘ぎは、こと軽井沢だけの問題ではなく、長野県内ならどこにでも問われる問題であり、またそれはしだいに広がりつつある問題でもあるからだ。

 いわゆるよそ者といわれる人たちは、従来からそこに暮らしている人たちに対して、よそから移り住んだ人たちを対象に言われる。これは住人と言う捉え方だけでなく、集団という人の集合の場面では、必ずついて回ることでもある。だから消し去ることのできない問題でもあるが、そのよそ者にとっては、旧来からの地域に入りづらいというのは当たり前のことである。しかし、移り変わりが激しい現代、住人の移り変わりも激しく、かつてのように「よそ者」というものを意識的に誇張するような場面は極度に減少したといってもよい。そのいっぽうで、かつてならよそから来た者にそうした葛藤があったのだろうに、今はそうした葛藤なくして、ごく当たのまえのように暮らし始める人も少なくない。何を言わんとするかといえば、よそ者である以上、旧来の地域に対しての少しばかりの気配りは必要ではないかということである。ところがそうした意識を持たなくても暮らせてしまうのが、現代の地方の崩壊現象のひとつでもあるのだ。どちら側に立っても、思うところが多いはずなのに、よそ者の方が大きな顔をするケースをよく耳にするようになった。もちろん誰でも住む権利がある以上、そこに「誰が悪い」などと判断する法律はない。しかし、人の暮らしには、判断するべく法律はなくとも、調和を図るべく感情などが入り混じるはずだ。そうした制約要因をはずしていくのが人々の学習能力だと思うのだが、そんな部分で、今地域は悩んでいるのである。

 4/3記事にある「地元で説明会を開いて理解を得た―と町は言うが、別荘地に住む私たちには何の連絡もなかった」という町会議員の発言。中軽井沢駅を三階建ての駅ビルにすることに対しての説明不足を指摘する言葉である。軽井沢だからこそなのか、この町会議員は区という地域の自治組織に入っていない。「軽井沢だからこそ」というのは、ようは町会議員ともなれば、「普通は自治組織に入っている」と思ってしまうが、そうではないのだ。このことについては、ずいぶん前に高森町での町会議員選挙のことについて触れた際に書いた覚えがある。自治組織に入っていなければ住民ではないような差別を受けることへの問題を、議会に入って問おうとしたあるよそ者の立候補の話であった。なかなかそうした人が当選することは難しいことだろうが、軽井沢町にはそうした議員がいるのだ。議員いわく、「不便だと感じたことが特にないから」区に入らないという。こんな単純な理由で議員さんが疑問を投げかけていることに、この実態のレベルの低さを感じざるを得ない。前述の高森町のケースでは、そうした課題に疑問があるからこそ議会へ、という意識があった。ところが軽井沢の場合は、そうした疑問を解決するためにその議員がいるのではなく、よそ者の意見を代弁するために存在している。ようはこのケース、高森町のケースよりも一歩進んではいるものの、段階を追っていないことに気がつく。さまざまな課題が多いはずなのに、住民の隣近所レベルの課題が共通の認識になっていないし、それぞれがそれぞれで主張している、いわゆる今の国会となんら変わらない姿が見てとれるわけである。

 いずれにしても町議が言うように「任意加入の区組織を通じて、町が重要な行事を周知したりするのは良くない。強制加入にするか、別の方法も使って全住民に伝えるべきだ」という意見も間違いではない。行政情報を任意団体に任せるという筋書きは、誰に対しても公平性を持たなくてはならない場面では、適正とはいえない。しかし、いっぽうで、従来からあるそうした自治組織を利用するのは、民俗性という面から考えればとても有効なことであるはずで、ではそこから漏れた人々にどう伝えるかということになる。まだ地域社会をどこかに認識しているよそ者ならともかく、まったく自由に生きてきた都会や、それに近い人たちを受け入れるということは、こうした問題を大きくする可能性を秘めているのである。
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ささえあう

2008-04-06 12:52:51 | ひとから学ぶ
 人は支える人がいるからこそ、日々の暮らしが続くような気がする。その支える人とは誰なのかといえば「家族」ということになるだろう。もちろん家族以外にも支えるべく人がそれぞれにいるのだとは思うが、ふつうに考えれば、そして多くの人がその答えを「家族」と回答するだろう。子どもたちにとっては、そんな支えがあるからこそ成長し、また「支える」という意味や「家族」というものを理解していくはずなのであるが、それをきっちりと教えたとしても、そう簡単なわけにはいかない。年ごろともなれば「反抗」という変貌を遂げ、しいては「家族」という制約に苛まれて逃亡したくなることもあるだろう。そんな悶々とした生活をクリアーして子どもとしての人生、そして親とは何かを理解していくものだと自らの経験からも認識してきた。

 今では生家を忙しさのあまり訪れることもない自らを振り返り、「親不孝」と言う文字が浮かぶ。年老いた父や母を思いながらも、自らにとって支えるべく人たちであることに違いはない。にもかかわらず、現実の日常は、切迫してくる。「こんなものさ」と思うか「これではだめ」と思うかはそれぞれであるが、かつてより親子が密着した時代にもかかわらず、成長後の親子はどうだろう、などと考えもする。かつてなら、嫁いだ娘が実家に帰ることができるのは1年に限られた日だけであった。そして、嫁いだ先の親を看取るのが嫁の役割でもあった。それは裏を返せば、嫁ぎ先の親が嫁いだ後の親であることであり、その親を親として一生を暮らしていくという宣言でもあった。そうした時代にくらべれば、この時代の子どもたちは、産みの親との密接な関係をどこまでも続けていくことになった。それを自立しない親子という見方ができるかもしれないが、実は少子化とともに、嫁に行こうが行くまいが、産みの親を看取らなくてはならない現実がそこに生まれているわけである。

 いっぽう、親子が密接になりながら、男たちは結婚すると生家を見放してしまうという現象も多い。家族というものは継続していくからこそ、「支える」から「支えあう」という形になる。それぞれが年相応にその役割を変えていくのである。そういう意味では、この時代の子どもたちは、この形を認識していないのではないか、というような事件を起す。いや、子どもたちだけではない、親も同じである。ようは「支えあう」という認識がないからこそ、そういう現象を起す。どれほど反抗という不安定な時代を過ごそうと、いずれその真意が理解できるような構造がそこにはないともいえる。そうした余裕が家族の暮らしにないことも、そしてそれを許容する社会もない。きっちりと決められた暮らしの中で、そうした流れをいとも簡単に理解して、停止することもなく成長し続ける子どもたちもたくさんいるが、果たしてそれは正常なのかと疑問を持つ。

 支えあうという現実を面倒だと思ってしまえば、すでにそこにその構造はない。そしてそれを求めているこの社会からは、それを理解できる子どもたちが減少を続け、いずれ家族とは何のためにあるのか、その定義は変化を遂げるのである。人と人というかかわりの中での学習能力の著しい低下を招くことになるのだろう。
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廃村をゆく人⑥

2008-04-05 22:19:04 | 農村環境
廃村をゆく人⑤より

HEYANEKOさんから、小谷村の廃村「真木」についてアップしたという知らせをいただいた。わたしは真木の集落を訪れたことはないのだが、すぐ近くの葛草連を村内まで2回、入り口まで2回ほど訪れている。たいへん読みにくい地名であるが、「くんぞうれ」という。葛草連の地名の初出は、慶安2年の信州安曇郡大町組大水帳といい(『小谷村民俗誌』)、それによると「くずそうれ」と記載されているという。わたしの記憶から葛草連のことが少しばかり消えていたが、廃村といえば小谷村が浮かぶことを忘れていた。小谷村の小さな集落には廃村になったところが多い。そのひとつである葛草連であり、わたしが初めて訪れた際には、まだ人の気配がしていたような記憶があるが、おそらくすでに無住になっていたのではないだろうか。初めて訪れたころが、ちょうど村に住む人がいなくなったころだったと思う。

 この村を訪れたきっかけは、「融通大念仏供養塔」である。文政13年に建てられたもので、2メートル半を超える大きな念仏碑を拝見しようと訪れたのである。この融通念仏については、亡くなられた宮島潤子氏が『信濃の聖と木食行者』(角川書店・昭和58年)に詳しく述べられている。ハングル系の文字が碑の面に刻字されていることで知られ、その不思議さゆえに知られた碑である。その碑を見ようとこの奥深い村を訪れたのであるが、宮島氏の本にも書かれているのだが、昭和55年当時には、まだ2戸ほど住んでいる家があったようである。その本を目安にして訪れたから、廃村になっているということを認識していなかったわけである。この村に入るには、小谷温泉の熱泉荘の前の道を中谷川に沿って下ることになる。その道は2メートルあるかないかという狭い道で、しばらく走ると、葛草連の集落が見えてくる。ところが、初めて訪れた際には、すでに村の中まで車で入ることはできなかったと記憶する。このあたりは地すべり常習地であって、村に入れなかったのは、地すべりで道に段差ができていたためだった。入り口のお堂のある広場で車を止め、そこから歩いて村の中へ入っていったのであるが、無住だとは思うのだが、何件もまだ家が残っていたと記憶する。

 この葛草連は、明治初期には土谷村でその奥の小谷温泉のあたりは中谷村であった。『小谷民俗誌』(昭和54年)によれば、「例の少ない小谷の行政区画」というように、行政区が入り交じっていたという。同書からその部分を引用すると、次のようである。


 小谷の場合は、江戸時代以前から地形的区画のみによっていない。
 例えば石坂村に来馬村の庄屋に属する家々があったり、来馬村に石坂村の庄屋に属する家々があったり、中谷村と思われる所に来馬村の家々があったり、南小谷の雨中に中谷村に属する家々があったり、中谷村に土谷村のがあり土谷村に中谷村の家々があったり、庄屋の居住するでもそこの庄屋に属さない家がある、言った入り交り方をしている珍しい制度になっていた。
 現在の人達は自分の家の古文書を見て、変に思う人も有るのではなかろうか、自分の家は中谷村だと思っていたら古文書を見ると土谷村と書いてあるとか、千国村だと思ったら石坂村となっていたりする。然しそれは間違いでは無く当時はそうした入り交じり方をした村作りであったのである。
 特に信越の国境線上にある戸土、横川、中又、押廻などのは、中谷村、土谷村の両庄屋が相乗りで治めていた。藩へ納入する年貢など二石九斗の籾を、一石四斗五升ずつ両方の庄屋へ納める様にしてあるなど敢えて面倒な制度にしてあった。
 これは要するに小谷の地は信越国境に位し戦国期の所に述べた様に、占領されたり取返したり、敵になったり味方になったり、常に油断の出来ない地域であったので、一、二の有力者による謀叛を起させない様互いに牽制させるための方便ではなかったかと考えられる。
 この様に他に例を見ない村作りは、明治維新まで続けられたが、これは縦の系統による上よりの伝達、上申、年貢等に関係した事に取扱われ、付合の様な横の関係は所属の村に関係なく行われたのである。


 このような入り交じりは江戸時代にはけっこうあったことなのだが、とくにその傾向が強い地域だったようである。

 この葛草連を二度目に訪れた際には、すでに廃村の趣が色濃く、すでにお堂もなくなっていたように記憶する。そして三度目あたりには、熱泉荘のすぐ西側で道は崩落していて、車では行けなくなっていて、歩いて融通大念仏碑を訪れたものである。その際には、家の姿がなくなり、ムラの姿が消えかけている印象を受け、平成になって最後に訪れた際には、ムラ全体が地すべり工事のために消えていたのである。当初の目的であった融通大念仏碑は、現在は移転されて村内の神宮寺という寺に安置されている。昔よりは訪れやすい場所に移ったものの、かつてのあの葛草連のムラにあった融通大念仏碑の姿が、今も忘れずに脳裏に浮かぶ。
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黄色い線

2008-04-04 12:30:43 | つぶやき
 無人の駅で放送が流れるというと、「電車が来ます」とか「○分遅れています」といったぐあいの電車の到着を知らせる録音と、遅れを知らせる緊急的なものに限られる。ようはほとんどないといってもよい。

 伊那市駅では駅員が常駐していて加えて昇降客もそこそこいるから、かならず肉声で電車の到着を知らせる放送が入る。時には「黄色い線の内側でお待ちください」という。確かにホームにはイエローラインが遠めには見える。しかしそのイエローラインは、実は目の不自由な人用の点字ブロック、あるいは点字のシート張りである。2メートル程度の狭いホームであれば、ほぼ中央にそのイエローラインはあるが、伊那市駅のようにホームが広ければ、イエローラインはどうみても電車に近寄ったホームの前面にあるといってよい。ほぼホームの先端から1メートル程度の位置にあるこのラインは、電車側に対して停止を指示するものである。しかし、この停止ラインを意識して縦断方向に歩いていてよろけたりすると、場合によってはホームから転落しかねない。しかしそんなことが話題になったこともなけれけば、転落して事故が起きたということも聞かないから、そんな可能性はかなり低いのだろう。それでも広いホームになるとかなりホーム先端寄りにあるから、危険な印象を受ける。いや、放送で「黄色い線より前に出ないで」ということはこのラインは危険ラインの目安とされているし、運行している側もそういう意識で見ている。もちろん目の不自由な人たちもこのラインを危険ラインとして認識しているのだろうが、点字ブロックの位置がホームにおいて適正なのか少し疑問にも思う。健常者でもこのラインより中側を歩くことはない。しかし、点字に誘導される人にとっては、このラインを意識して歩けば、ホームの先端寄りを歩くことになる。そう思って他のホームを見てみても、ほとんどはホーム先端から1メートルのところに設置されている。それは道路の歩道なども同じ設定だから、必ずしも危険ではないのかもしれないが、先端からすぐさま線路に落ちてしまうような落差の世界は、道路とはまた違った危険さを感じる。

 もう一度ホームの様子をうかがってみよう。点字ブロックは、ホームの縁から1メートルほどのところを一直線に敷かれている。ところが飯田線を走るワンマン電車の乗車口が健常者用に指示されてはいるが、それは展示ブロックの外側に矢印で示されている。ようは「ここでお待ちください」みたいにである。点字ブロックとしてそこを指示するブロックは置かれていない。目の不自由な人にはワンマンの乗車口は認識できないのである。そう見てくると、もともと点字ブロックを必要としている人たちのために設けられたものではなく、停止位置を示す意図があって、たまたま点字の停止用のブロックが使われているということなのかもしれない。いずれにしても、目の不自由な人には危険な空間であることに違いなく、逆に言えば、この空間にそういう人たちが1人で入りこむことは不可能ということなのだろう。そんなことを思いながら、自宅のある最寄りの駅に着いて確認してみると、そこには目の不自由な人を誘導する点字ブロックが平行して敷かれている。ようは停止ブロックと誘導ブロックが平行して50センチくらいの間に敷かれているのである。これなら問題ないと、わたしの思いすごしなのかと思って翌日駒ヶ根駅や伊那市駅で確認してみると、やはりそれらの駅には向かいのホームへ誘導するブロックが敷かれている。ただし、ホームまでの誘導で、ホーム内は停止ブロックで囲われているだけである。わたしには解らない世界ではあるのだが、どうやってこのエリアから電車に乗ればよいのだろう。
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毎日電車に・・・

2008-04-03 12:18:34 | つぶやき
 毎日のように定期券で電車を使えば、お得なことは言うまでもない。この3月はほとんど毎日会社に通ったから、すばらしいのひとことである。往復1,140円で31回掛ければ、35,340円である。1ヶ月定期で17,010円だから、約5割引きである。土日利用しないとしても22,800円だから2割5分の値引きである。これが6カ月ともなると、平日だけでも4割引き、それこそ毎日利用したら6割引きということになる。基本的に通勤定期なら休日があるのが当たり前だから、そんな得をする人はいないだろうが、定期は何度利用しようと期間内は乗車できるわけだから休日のない人ならもとを取るどころか、利益という感じもしてくる。

 ちなみに話題のガソリン代で比較してみよう。わたしはハイオク車を利用しているから現在163円として、往復978円くらいである。ガソリン代だけで比較すると車が安い。これを20として計算すると、19,560円ということでこの時点で1ヶ月定期の額を上回ることになる。もちろん休日に会社までいくと、そのたびに978円必要なわけだから安易に休日出勤などできない。25円税金が引かれたとして、1ヶ月16,560円ということで、今度は定期の額を下回る。とわいえ、20日計算だから、1日上回ると定期の方が安くなる。あくまでもガソリン代だけのことであって、他の消耗品を足しこんで比較したら、もう相手にならないことは確実である。

 所有している以上一定の管理費がかかるのはしかたがない。わたしのようにパソコンもテレビも消耗品という考えなら、しまっておくよりは使った方がよい。車も同様で、ある意味消耗品のようなものだとわたしは考えている。何百万もするものをしまっておいたところで意味はない。そういう意味では使った方がよいに決まっている。しかし、走るたびに必要なコストか安くない以上、比較になるのも当然のことである。年間14,000キロ通勤に使うとしよう。燃料代228,200円、オイル交換などに約9,000円、タイヤの消耗費として約40,000円、ここまでの合計は277,200円である。1キロあたり19.8円となる。そうすると会社までの一往復は1,188円となり、定期ではなく切符を購入した場合の1,140円を上回ることになる。ようは電車より車の方が高いということである。ほとんどが燃料費の比率たど考えると、今時のリッター20キロ以上走る車ならもちろん車の方が安いわけで、通勤で車を多用する人は、通勤用の車を所有する人もいるほどだ。強いて言えば、車を所有しないのが一番なのだろうが、行動は極度に狭くなる。そうすればお金も使わないだろうから貯まるいっぽうなのだろうが、そういう選択はなかなか地方ではできない。

 ということで計算をして通勤方法を決めたわけではないが、ごく当たり前のように時間を気にして、ごく当たり前のように駅に向かう。少し前では思いもよらなかった行動が、今やわたしの日課となっている。
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農業経営類型に見る所得

2008-04-02 12:20:59 | 農村環境


 平成19年12月25日に公表された農業経営統計調査のうち平成18年個別経営の営農類型別経営統計のデータが『農林統計ながの』の2月号に掲載されていた。野菜経営の路地と施設別、果樹経営、そして花卉経営の路地と施設別という5種類の経営類型に対しての農業所得の平均値が示されている。そのデータから少しコメントしてみたいと思う。掲載されたデータをわたしなりに編集したものが表である。このデータは全国平均値であるが、例えば果樹の全国平均値と長野県の平均値とを比較しても、それほど大差がないことから、全国平均値でもわたしの周辺の農業経営事情を知るには十分と考えている。

 農業祖収益や農業所得だけを見ると、それぞれの経営によって差があることは解るが、それらをわたしが個人的に計算してみた時間当たり所得で比較してみると、それほど差がないことが解る。強いて言えば、野菜経営の施設経営が時間当たり約100円高いというのは「大差」と見られるかもしれない。農業所得という面で見ても路地あたりに比較するとずいぶんの差が出ているから、施設野菜には効率的な面があるかもしれない。ただしこの時間当たり所得を見て思うのは、そこらのアルバイト料より安いということである。これが水稲との複合であったり、他の収入が見込まれるものならともかく、この金額だけを見た場合、経営は苦しい、というよりも所得が少ないということになるだろう。さまざまな保障制度を含めた比較ではないので一概には言えないが、たとえば年収が250万円程度の人でも時間当たりにすると1,302円となる(2,500万÷240日÷8時間)。500万円なら倍となるわけで、所得の低い人でも農業経営者よりも時間当たりにするとそこそこの収入になるということになる。

 1人当りの作業日数を⑧欄に表示しているが、これはそれぞれの類型で差がある。サラリーマンを約240日とすれば、路地野菜や果樹、路地の花卉はその値を下回ることになる。その空き時間は別の仕事ができるということになるのだろうが、確かにサラリーマンに比較すると、安定しないことになることは確かである。ようは、空き時間の生業としてどう計画するかということで、外へ出て稼ぎをすれば、そちらに縛られるようになって、なかなか農業は成立しなくなる。かつてならそんな暮らし方を多くの人がしていただろうから、どうということもなかったかもしれないが、今はそうした比較が容易にできる時代である。とすれば、安定を求めて給料は少なくても外へ稼ぎに出るという方を選んでも仕方ないという背景になる。

 それぞれの農業所得を捉えてみると、例えばであるが、路地野菜の場合、作業日数355日で所得が約190万円である。ほぼ1年休みなく働いてもこの程度なのである。ちまたには1億稼ぐ果樹農家があるとか、花卉農家があるなどと聞くが、あくまでも特定の人たちであって、平均的にはこんなものなのだろうかと、少し疑問を持ちながらその数字にあらためて農業経営の厳しさを見る。それでも家族労働として捉えれば、施設野菜や施設の花卉の所得であれば、人並みの生活はできそうである。ただしその作業日数を見ると、それなりの忙しさであることはいうまでもない。かつて複合生業をしてきた農家、しかし、そこには不安定感があるに違いないし、それを楽しもうなどという気になどなれるはずもない。
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途中乗り換え

2008-04-01 12:23:28 | ひとから学ぶ
 土曜日もまた少し遅い電車であるが、会社に向かう。9時に出る電車は目的地の伊那市までは到達しない。駒ヶ根止まりである。そこで15分ほど待つと、駒ヶ根始発の電車に乗れるわけだから、反対方向の電車を待っていると思えば、どうということはないのだが、おそらく駒ヶ根止まりということを目にした途端に、その電車へ乗るのは避けることになりかねない。北へ向かう電車を最寄りの駅の時刻表で確認すると、19本ある。駒ヶ根で止まってしまうものは、唯一今日乗る9時代のもので、あとは伊那市よりは北まで行ける。伊那松島止まりが1本、辰野止まりが終電の1本というところで、残りは岡谷より向こうの上諏訪や中には茅野まで行くものもある。長野直行のものは朝方の2本のみである。

 いっぽう伊那市駅から南へ向かう電車を時刻表で見ると、1日21本ある。最寄りの駅からの19本と差があるのは、ようは最寄りの駅のあたりは本数の少ない区間なのだ。それを解らせてくれるのが、駒ヶ根止まりが21本の中に5本もあるということである。我が家へ向かうには1日に16本しか電車がないということになる。その16本のうち飯田止まりが4本、天竜峡止まりか8本、平岡止まりが1本ということで、終点の豊橋まで行くものは3本しかない。飯田と豊橋を結ぶものは特急があるようにもう少し多いのかもしれないが、いずれにしても連続して走る電車が少ないことはよくわかる。そして長野県内でみれば、北は駒ヶ根までがひとつの目安、そこから南は飯田までが目安ということになる。飯田で止まり次の電車を待つような人は、へたをすると伊那上郷で降りて、下山村まで歩いても電車と速さは変わらないかもしれない。ということは、飯田をまたいで利用する人たちにとっては大変都合の悪い路線ということになる。加えて飯田駅辺りは大きく西へ迂回するという変則的な路線だけに、旅行客ならともかく、日常利用しようとする人たちには遠のいてしまうシステムなのである。

 駒ヶ根止まりの電車に乗って気がつくのは、15分ほどで連絡するものの、「駒ヶ根」行きという時刻表を見て敬遠してしまうのだろう、乗客が極めて少ない。ふだん最も多い2両編成ならまだしも、その電車は3両編成である。さらに乗客の姿はまばらで、まるで山間部を走る路線バスのようである。車両の融通の関係もあるのだろうが、明らかに敬遠されてしまうような編成はどうなんだろう。

 ということで翌日も会社へ向かう。今度は昨日のものより1本遅い電車である。もちろん同じ日ではないのでくらべられないだろうが、この日乗車した電車は上諏訪行きである。午前十時代ということで休日なら乗客が多くなる時間帯ともいえるのだろうが、これがまたずいぶんと混雑している。それもわたしが乗る際にはだいたい人影が少ないものなのだが、乗った時から立っている人がいるほとだ。2両しかないということもあるが、立っている乗客も多い。これまで休日に伊那市に向かう電車でこれほど混雑していたことはいまだかつてない。例えば学生の部活の団体が乗っているということならまだしも、この日の電車は高校生らしい年代は目立っていない。小学生もいれば年寄りも多い。こういう雰囲気が良いのだ。
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