Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

相変わらず同じ顔

2008-04-30 20:10:13 | つぶやき
 公民館報を見ていて「まだやってるんだなー」と妻と言葉を交わした。まだやっているのは役員のことである。以前にも触れたことがあるが、考えていると公民館活動とは何か、というところに行き着いてしまう。しばらく前に地域の公民館活動の役員をしたが、地域の活動の方は役員が毎年のように変わっていく。だからなかなか違うことができないということもあって、前例に倣うというのが一般的である。変化がないという意見もあるだろうが、そのいっぽうで同じ顔でも何も変わらない。地域の活動の上にある町の公民館活動である。そちらの方は、まったくもって役員の顔が変わっていかない。若干の変化はあっても、地域の方とは違い、同じ顔が続く。どちらもどちらということになる。それでも前例に倣っても顔が変わっていくことはいいことだとわたしは思う。大勢の人たちが担う。そして、どこかで違うことをしようとする動きは必ずある。そうした変化を持ちながらも、継続しようとすることは継続する。顔が変わるからこそ、選択する余地がある。ところが変わらない顔が、継続していたらまったく何も変わらないし、選択ができなくなる。とくにいけないのは公民館報で、まったく変化しない。「○○町の文化財」なるものがすでに三百回を大きく上回っている。1カ月に1回発行されていたとしても30年近い間、同じパターンが続く。同じことを繰り返し続けるから、「もう変えられない」という感じになる。悪い例そのものである。

 そういえば、2月にこの町である会の例会を開いた。たまたま公民館を利用したのだが、初めて訪れた方たちが、時間調整で郷土資料館をのぞいた。のぞいたメンバーには、長野市立博物館や松本市立博物館の学芸員さんがいた。休日だというのに当然のように見学者などいない。それでも休日だから事務室には年配の方がお留守番をしていた。数人で侵入したから、「誰かがきた」と気がついて、電気をつけ、また案内の放送をしたくださった。人がいないと電気は薄暗い。実は図書館に寄った際にたまに忍び込むことがあるが、一人で静かに侵入ししていくと、お留守番の人たちは気がつかないから、暗がりで展示物を見ることになる。お留守番の人たちが世間話でもしていると、まず客には気がつかない。長らく「文化財」などと言って公民館報で特集しているものの、それらのデータをその資料館で拝見することはできないし、継続が何も役に立っていない証拠でもある。こんなすっとぼけた施設が長野県中のあちこちにあるのかもしれない。立派に活用するともなると人件費が必要になるのかもしれないが、それらも含めて、公民館の活動や町の社会教育活動が連携されていないということになる。いや、人件費などかからなくてもいくらでも方法はあるはずなのだが、なかなかそれを口にする人はいない。

 こんな活動が継続されていれば、どこかで苦言をするトップが登場してもいいのに、そんなトップもいない。長らく同じことをしているから、部外者が言うことではない。内部のトップが「どうだろう活動を見直しては・・・」と言わなければ変わらないと思う。いずれにしてもいろいろのことが顔が変わらないということは、あちこちに見える。引き継いでいくような体制をなぜとらないの、と聞けば「人がいない」とか「やり手かいない」と言うのだろうが、こんなのは問題外の言い訳である。
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