Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

判決を決めるもの

2008-04-23 12:24:57 | ひとから学ぶ
 作家の森達也氏がいうように、近年の殺人事件数は、戦後でもっとも少なくなってきている。ようは治安は悪化しているのではない。ところが情報過多時代にいたっては、テレビの報道番組と言われるようなもの、あるいはワイドショーといったものが、それらを煽っていることも事実である。昨日の光市母子殺害差し戻し審の判決は、多くの人が予想するような内容で、おおかたの同様の番組はその判決を支持しているどころか、なぜ今までの裁判で2度も無期懲役になったのか、と司法への疑問の声も聞こえる。これもまた森氏の言葉であるが、世の中が善悪の二極化に進んでいる。わたしも今までに何度も触れてきているが、その傾向は確実であり、それが政治の世界にも繁栄されつつある。その延長線上に政権交代が見えてくるわけである。正しい政治ではなく、世論に流される政治の登場なのである。もちろん、民意か反映されてこその政治なのはわかっているが、それだけで良いとも思えない。それをしっかりと説明できないほど、政治と現実にそれを執行する役人とが乖離しているともいえるかもしれない。

 話はそれてしまったが、今回の判決に至るまで長い年月を要してきた。しかし、「予想通り」という環境を作り上げるにはこの時間は必要であったということもいえる。世論が、そしてテレビに登場する多くの人々がコメントするような内容を築きあげるのに、また被害者の本村さんの主張がいきわたるのに、時間は無駄ではなかったということになるのだろう。しかしである。世論の流れをみていると疑問な点もある。たとえば、近ごろの凶悪犯罪の低年齢化に対しての「死刑にならない」という歯止めをなくすべきだという流れは、疑問の一つである。死刑になるかならないかなどという天秤にかけて、殺人を犯すとはとても思えないわけで、とくにそうした意識が若者にあるだろうか。時代の変化を説く人もいるが、単純なものではない。ではなぜ殺人事件の多かった時代には、そうした世論が高くなかったのか。

 裁判が世論によって判決が決まったとは思いたくない。でなければ裁判所などというものは必要ない。ところが盛んに取り立たされる裁判員制度は、明らかに一般人の感覚で繰り広げられることになる。ワイドシーが好き勝手なことを言っているのはよい。しかし、裁判所内でそんな議論がされることじたいが納得いかない。民意繁栄とか住民参加といった、いかにもオープンな議論を求める時代であるが、イメージで判決が下るような時代であってほしくない。けして「若い」からというわけではないが、事件の背景を風化させることなく考えていかなくてはならないが、感情のおもむくままに、「悪いことをしたんだから当たり前」と判断しては学習できないだろう。自らの病を犯罪者だけに押し付けようとする世の中から、犯罪者がなくなるとは思えないわけである。

 ところで、今回の差し戻し審のなかで、弁護団がそれまでの裁判とはまったくことなった方法をとった。とても信用おけないような内容で推し進めたわけだが、むしろそれが死刑判決への道を順当なものにしてしまった。もしや、これは作られた裁判だったのではないのか、と疑問さえわく内容である。判決内容からも森氏の言うような「死刑ありき」がみて取れるわけで、この国の裁判の先が案じられる内容である。
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