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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

播隆上人像

2008-04-22 19:54:23 | 民俗学
 日本の山々を開山したのは、宗教者であることが多い。木曽駒ケ岳は文化8年(1811)に下諏訪の寂本行者によって、甲斐駒ケ岳は文化13年(1816)に茅野の延命行者によって、乗鞍岳は文政2年(1819)に明覚法印と梅本院永昌によってそれぞれ開山されている。いずれも御嶽系の行者によるもので、それらは主峰を剣ケ峰といい、摩利支天岳を従えるという共通点があるという。修験系の行者にとっては、その修行の場として山が利用されたこともあり、開山という明確なものがなくとも、こうした山々への登頂は古くより試まれていたのかもしれない。もちろん開山のひとつの指標は、そこに祀られる神々の存在があるだろう。こうした山頂に石の神々を祀ることで、それをもって開山としたわけである。

 以前松本市浅間の玄向寺を訪れ、裏山にある御嶽系の石造物の整備をこころみた話しをした。主に明治時代以降のものであるが、そこには荒れ果ててはいるものの、多くの石碑が存在する。長野県内には明治時代以降に建てられた不思議な信仰の跡があちこちに存在する。ちまたに存在する石造物と同様に判断できる像容のものもあれば、その名称を明確に断定できないような石造物もこうした中には数多く存在する。これもだいぶ前に触れたものであるが、千曲市郡にある霊諍山の石碑群も名称が不明なものも多く、加えて判断できたとしてもしそれは通常の名称であって、果たして建立した者にとって正確なものかどうかは解らないわけである。文字で刻まれたものはともかくとして、像容だけのものではなかなか判断が難しいわけである。



 この玄向寺の入り口に播隆上人(1786-1840)の石像と六字名号塔が建つ。播隆上人の像といえば、松本駅前に建つものが有名である。この播隆上人は、槍ヶ岳を開山した人である。播隆上人は富山県の生まれで、修行の場として槍ヶ岳を目指したわけである。当時玄向寺には曼荼羅の研究家であり僧侶の学問所で講義をしたほどの高僧の立禅和尚がいた。上人は立禅和尚を訪ね、槍ヶ岳開山の相談をしたという。開山の道案内として和尚から紹介された中田又重に支えられ、山頂に岩を集めて祠を作り、三体の仏像を安置したのは、文政11年(1828)のことである。播隆上人43歳のときである。播隆商人は自らの修行だけに生きた念仏行者ではなく、里にあっては念仏の普及につとめたという。播隆が岳都松本の顔となっているのも解るような気がするわけで、播隆をテーマにした祭典がこれまでにも何度となく開かれているという。第9回の播隆シンポジウムは、この5月25日に松本市Mウイングで開催される。玄向寺の裏山調査を企画した木下氏も「槍ヶ岳開山と松本平の足跡」と題した討論会にパネラーで登場するという。
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