Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

ま新しい顔

2008-04-11 19:48:40 | ひとから学ぶ
 電車へ乗車してくる客もさまざまである。これもまたほぼ一年の間に感じ取ったことであるが、パターン化された動きもあればそれ遮るものもある。できれば同じパターンで乗ればいつもの安堵なのだろうが、そうはいかないものが人の世である。新しい年が始まったとともに、車内の様子も毎日のように変わる。新年度ということもあって真新しい顔もあれば、いつもと変わらぬ顔もある。しかし、真新しい顔が多ければ、いつもの顔のポジションも変わる。これが年の変わったことだと認識するわけだが、変わらぬ毎日おくっている側は、その変化に意外な顔を見せる。しかし、それは自らの意外であって、真新しい顔たちにはわからないことである。そんな人々の入り混じりがある空間が、不特定多数の顔が集る電車内なのである。考えてみれば、こんな空間は、この地域では他にない。もちろん、大型店の店内や、町の賑わいの中に、不特定多数で、それぞれの目的を持った人たちの顔を見るが、はめられた一定の空間ではないから、そこに流れる空気は、人目を意識することもない。息遣いも聞こえはしない。だから、あらためてこの空間は、大きく言えば伊那谷にはここしかないといってもよいような場所なのである。そしてさまざまな意識を持つ人々がいるからこそ、他人を意識するのであって、そんな空間は他にはないのである。

 先ごろまで自らが意識していたポジションには、毎日のように伊那福岡から乗ってくる若者が乗車してくる。いつもうつむき加減の彼が、どういう人かは解らないが、必ずわたしの席のあたりにやってきて座る。そのうち約8割はわたしの横に座る。彼にとっての座りやすい場所というものがあるのだろう。その彼が、この四月に入ってから真新しい顔がやってきてわたしのふだん座っている場所に座っているため、いつもの場所に座ろうとするが、そこにわたしは座っていない。別のわたしとそう年の変わらないおじさんが座っていて、その雰囲気が座りづらかったのだろう、通路を前後してまごつくのである。するとわたしがすぐ後ろの席に座っているのに気がつき、場所は異なるが、わたしの横に座るのである。車内の様子はこんなことの繰り返しのようなものである。いかにも横に座ってほしくない人は、2座席の中央よりに座る。さらに荷物を置いていれば、「座るな」と言っているようになものである。毎日の空間を見ていても、そんな雰囲気を醸し出している乗客が半分以上はいる。もちろん車内放送や車内を歩く車掌の口から「荷物は膝の上か棚の上へ」という誘導はあるが、その雰囲気は変わらない。けしてわたしとそう変わらないおじさんがそんな雰囲気を醸し出していたわけではないだろうが、真新しい顔は、この感覚に慣れていないのである。だからそこには意外な空気が流れ、若者には座ることのできないおじさんとの空気のやり取りがあったのである。真新しい乗客は、そんな毎日の雰囲気を察知していないから、空いていさえすれば、座る場所を求める人がいる。しかし、いつもの雰囲気を知っている人たちは、無理をしてその空間を押しのけることはない。毎日同じ顔ではそんな構図が見えてしまうが、そうではないから面白い日々なのである。
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