Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

よそ者を受け入れる町

2008-04-07 21:52:04 | 農村環境
 信濃毎日新聞で特集している「ショーの見た夢」は、軽井沢の現状を知らせてくれる記事であるが、これを「避暑地、観光地のこと」と単純に別世界のことと区切ってしまうわけにはいかない。この4月から始まった「暮らしの実像」は、そこに暮らす人々の喘ぎを読み取ることができる。そしてその喘ぎは、こと軽井沢だけの問題ではなく、長野県内ならどこにでも問われる問題であり、またそれはしだいに広がりつつある問題でもあるからだ。

 いわゆるよそ者といわれる人たちは、従来からそこに暮らしている人たちに対して、よそから移り住んだ人たちを対象に言われる。これは住人と言う捉え方だけでなく、集団という人の集合の場面では、必ずついて回ることでもある。だから消し去ることのできない問題でもあるが、そのよそ者にとっては、旧来からの地域に入りづらいというのは当たり前のことである。しかし、移り変わりが激しい現代、住人の移り変わりも激しく、かつてのように「よそ者」というものを意識的に誇張するような場面は極度に減少したといってもよい。そのいっぽうで、かつてならよそから来た者にそうした葛藤があったのだろうに、今はそうした葛藤なくして、ごく当たのまえのように暮らし始める人も少なくない。何を言わんとするかといえば、よそ者である以上、旧来の地域に対しての少しばかりの気配りは必要ではないかということである。ところがそうした意識を持たなくても暮らせてしまうのが、現代の地方の崩壊現象のひとつでもあるのだ。どちら側に立っても、思うところが多いはずなのに、よそ者の方が大きな顔をするケースをよく耳にするようになった。もちろん誰でも住む権利がある以上、そこに「誰が悪い」などと判断する法律はない。しかし、人の暮らしには、判断するべく法律はなくとも、調和を図るべく感情などが入り混じるはずだ。そうした制約要因をはずしていくのが人々の学習能力だと思うのだが、そんな部分で、今地域は悩んでいるのである。

 4/3記事にある「地元で説明会を開いて理解を得た―と町は言うが、別荘地に住む私たちには何の連絡もなかった」という町会議員の発言。中軽井沢駅を三階建ての駅ビルにすることに対しての説明不足を指摘する言葉である。軽井沢だからこそなのか、この町会議員は区という地域の自治組織に入っていない。「軽井沢だからこそ」というのは、ようは町会議員ともなれば、「普通は自治組織に入っている」と思ってしまうが、そうではないのだ。このことについては、ずいぶん前に高森町での町会議員選挙のことについて触れた際に書いた覚えがある。自治組織に入っていなければ住民ではないような差別を受けることへの問題を、議会に入って問おうとしたあるよそ者の立候補の話であった。なかなかそうした人が当選することは難しいことだろうが、軽井沢町にはそうした議員がいるのだ。議員いわく、「不便だと感じたことが特にないから」区に入らないという。こんな単純な理由で議員さんが疑問を投げかけていることに、この実態のレベルの低さを感じざるを得ない。前述の高森町のケースでは、そうした課題に疑問があるからこそ議会へ、という意識があった。ところが軽井沢の場合は、そうした疑問を解決するためにその議員がいるのではなく、よそ者の意見を代弁するために存在している。ようはこのケース、高森町のケースよりも一歩進んではいるものの、段階を追っていないことに気がつく。さまざまな課題が多いはずなのに、住民の隣近所レベルの課題が共通の認識になっていないし、それぞれがそれぞれで主張している、いわゆる今の国会となんら変わらない姿が見てとれるわけである。

 いずれにしても町議が言うように「任意加入の区組織を通じて、町が重要な行事を周知したりするのは良くない。強制加入にするか、別の方法も使って全住民に伝えるべきだ」という意見も間違いではない。行政情報を任意団体に任せるという筋書きは、誰に対しても公平性を持たなくてはならない場面では、適正とはいえない。しかし、いっぽうで、従来からあるそうした自治組織を利用するのは、民俗性という面から考えればとても有効なことであるはずで、ではそこから漏れた人々にどう伝えるかということになる。まだ地域社会をどこかに認識しているよそ者ならともかく、まったく自由に生きてきた都会や、それに近い人たちを受け入れるということは、こうした問題を大きくする可能性を秘めているのである。

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