Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

観光客

2008-04-25 12:40:28 | 農村環境
 「あなろぐちっく」さんのページでこんなことが紹介されていた。

〝木曽のお気に入りの温泉に行こうということになり、家族で出かけた。その途中に国道から見下ろしたら立派な枝垂桜が見えた。関西の観光バスが何台かと、県外ナンバーの車が何台か停まっていた。ツアーガイドのお兄さんが大きな声で、「あと10分で出発です。お墓には絶対入らないでくださいね~。(中略)地元の農家のおじさんが一輪車を押しながら通りがかって、写真撮影している人に声をかけた。「看板に書いてあるでしょ。お墓に入らないでね。」(中略)写真を撮ってた人は、それに対して小馬鹿にしたような言葉を返した。撮られてる人も撮影が終わるまで墓を出ることはなかった。その人が撮り終わるとまた次の観光客が墓に入って記念撮影。〟

というものである。続いてこんなことも書かれている。観光客が山に入って山菜をビニール袋いっぱいに採っている。私有地だから採らないでもらいたいのたが、よくちまたに見られる「入山禁止」という立て札をしても採られてしまう。「都会の人は山は公共のものと思っている人が多い」のではないか、という。そのくらい解っている人たちだと思っていると大間違いである。

 極論と言われてしまうかもしれないが、田舎を売り物にして観光客を呼び込めば、少なからずというかかなりの割合でそんな観光客ばかりとなる。例えば温泉地とかスキー場、あるいは軽井沢といったまさにかつての「観光地」ならともかく、田舎ならごくありきたりの風景を売りにしようとしたら、こんなものなのだ。そして実はそうした観光で誘客しようという動きが強い。「観光地」らしい観光地ではなく、ふつうの農村地帯が、実はすでになくなりつつある風景であると認識されているから、そんな素朴さを求めるのだろうが、そんなカネのかかっていない観光地は、山や海といった対象と変わらず、自然は公のものという感覚が強いだろう。したがって、こんなことはごくふつうにあちこちにある問題なのだが、文句も言えずに泣き寝入りしている人たちも多いだろう。ところが地方の人間は、まだまだ昔の人間関係を知っているから、そんなことで文句を言ってはいけない、という感覚が少なからずある。これも世代が変わるごとに変化していくことで、そのうちにそんなに簡単に地方の空間を謳歌できない時代がやってくるに違いない。ようは農村空間そのものがカネで左右されることになる。観光客の横暴も「今のうち」というところかもしれない。そうした観光を推し進めようとしているのだからどうにもならない。

 昨年も触れたことかもしれないが、喬木村の氏乗というところの学校跡地に枝垂れ桜の木がある。見事な花を咲かせるのだが、近年この桜を目当てに観光バスもやってくるという。地域でもそれを喜んではいるのだが、写真を撮ろうとする人たちから「あのフェンスが良くない」などとクレームがつくという。よそ者には好き勝手な言い分である。桜の木が有名になると、環境整備をしようという動きが上がる。例えば最近では高遠町勝間の枝垂れ桜の周辺に、木製ガードレールが設置されたという新聞報道をみた。不思議なもので、よそ者のために、地元の人たちがカネを使う。もちろん、観光客誘致とか地域活性化が主旨となれば、カネは使っても元が取れるということもあるのだろうが、どうも納得いかない。

 冒頭のお墓に入るという話も、程度ものなのだろう。先日ある寺の参道を歩いていて、きれいな桜が咲いていたので写真に納めようと墓地に入った。もちろん無断で入っているわけだが、世の中無断で人の土地に入るなどということは頻繁にある。とくに家が密集しているマチならともかく、農村地帯ではごくふつうのことである。それを叱られたことも何度もある。しかし、それを完璧に道理にあわせていたら、おそらく地方の観光などたちゆかない。観光客がどっと押し寄せるような環境になるから、それによる問題が大きくなる。善悪をはっきりさせようとするこの世の中には、ちょうど似合った話題かもしれない。
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