安全性が信用できない原子力発電からは目がはなせない
──素人の見た福島原発事故──
──素人の見た福島原発事故──
事故について最初に印象に強かったのは政府、安全委員会、東京電力の対応の不手際と狼狽ぶりであった。彼らには事故を制御する能力がないように思われた。「想定外」。つまりどの分野どの段階であれ修復不可能として投げ出しかねない逃げの姿勢こそ彼らの知の貧困さを物語っていた。(ウソでもいいから、事故は想定内、福島原発は修復・再建可能なのだ、の声がどこからも起らない事も門外漢に取っては不思議な事態に思えたのであった。ガンバレナイノカニッポン?と思った)
「想定外」は無知の告白
想定外の事態とは大地震・大津波襲撃の外的災害の事なのかどうか?それとも、原子力に対する緊急制御など、自分たちの専門分野における想定外の事態の発生なのか? 福島原発事故が深刻なのは、問題が後者にあるからなのである。原発そのものについてよく知っていなかったから後々の修正、修復ができていかなかった。そこのところは取りあえずはっきりおさえておかなければならない。
テレビで、新聞で、確信的に事故の修復を述べる識者、解説者はだれ一人いなかった。出すぎないように(臆病に)わかりきった現象論を述べるか、あたりさわりのない冷却対策を言うだけであった。われわれがそこで学んだ事は日本には肩書きと学歴はあるが、役にたつ知性がないということであった。
原発ムラは解体せよ
原子力ないし原発の知性がなぜ原発事故に対応できなかったのか? 答え、その分野の知識がいわゆる原発ムラの独占だったからである。純粋なエネルギー問題あるいは科学的研究を伴う問題というより、経済的な利害の問題で日本の原子力行政、電力エネルギー生産は主導されてきている。したがって知識まで(歪み、硬直して)原発推進者グループだけのものになってきた。知識は囲いこまれ、被爆国のへんなタブーを逆手に取られて、原発の知識が広く国民にオープンになる事はなかった。
ムラでは原子力の薄っぺらな教科書的知識を守って、かばい合い、もたれ合ってきたといえる。実践的には「原発は今のところ安全に運転されている」という程度の事例主義というか機能主義というか、そのような不確かな経験則をたよって、「原発=安全」というドグマをつくりあげてきている。安全神話はムラの政治的スローガンになり、コミュニティーの生活信条になってきた。どこから切っても安全性は証明されていないのに…。
今回の震災で「安全性は証明されていないのだよ」という事が証明されたといえる。これを震災の第一の教訓にしなければならないということである。
神話の暗闇は変わらない
もちろん昔から「<反>原発」ムラも存在しつづけたが、経済的利益の潤沢さと利権網の点では原発ムラの圧倒的優位は変わらなかった。今回の事故で反原発の世論は高まるかと思われるが油断はできないということだ。「事故は想定内、原発の再稼働は可能」という事には完全沈黙しているのに、ムラの人たちは依然として「原発=安全」という信念は抱えたままである。何という暗闇であろうか!!しかも、めだたないところで徐々に原発容認発言を始めている。「0.1マイクロシーベルトでは健康に影響がない」というような微風発言こそ狼男たちのかけるえん曲性のわななのである。
あるべき科学的知識ではなく経済的利害で日本の原子力発電は機能していたというわけである。福島原発事故の修復の局面で後手後手がつづき、今だ修正が機能できていない理由がそれである。そのようなところでの原子力の知識の深化、危機管理の徹底と言っても、たかが知れて、期待が持てない事はよく分かるはずである。(わたしは素人であるがそのように理解している)。