源太郎のブログ

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「注意書き」

2011年03月09日 | エッセイ
 先日、街を歩いていたら、駐車場でこんな「注意書き」にお目にかかった。曰く「駐車場内での盗難・事故については責任を負いかねません」。うわ~、太っ腹! 駐車場で何か盗まれたり事故があったり時には「責任を負うかも知れません」、と言っているのだ。でも、真意は「駐車場で盗難があったり、事故があったりしても責任は負いません」と言いたいのだろう。それならば、「駐車場内での盗難・事故については責任を負いかねます」、と言わなくてはいけない。やはり、勉強は大事だな~。

 巷に溢れる「不思議な」注意書きやカンバン・表示は時として、我々を楽しませてくれる。日本国内で間違った「外国語表示」を収集している外国人も居ると聞く。「笑い」のタネにしよう、と言う訳だ。事実、「抱腹絶倒」の「間違い」も多い。サンフランシスコの空港、ある時変な「日本語の看板」が目についた。「ウドンハー」と書いてある。何のこっちゃ? と思ったが、後日、再度行った時にも同じだったが、その時は何の事だか判った。正しくは「ウドンバー」なのだ。「バー」が「ハー」になってしまっていた。多分、間違いと言うよりは、「バー」の点々が落ちてしまったのだろう。「ウドンバー」は「すしバー」と同じで「うどん屋」の事だった。

 ニュージーランドのある空港でトイレに行って立ったら、目の前にこう書いてあった。「Need to refill?  Check out our airport cafés and bars for something refreshing」。思わず、ニヤリとした。日本ではこんな「広告」はない。「出したもの、使った者、無くなったものを再び補給したり詰め替えたりする事が「refill」の意味だ。つまり、「ここが終わったら、私たちの店に来て、ビールかコーヒーでも飲んで出したものを補給してね」と言う訳だ。我々の感覚ではちょっと違和感のある「広告」だろう。

 トイレには数々の「個性的」な「注意書き」が多い。先日、こんな「注意書き」に御目にかかった。「お願い 男性の方も座ってご使用ください」とあった。え~、そんな事まで指示されるの~、と、ちょっとびっくり。へそ曲がりな私は「素直」に指示には従わなかったのは言うまでもない。

 こんな「注意書き」にも御目にかかった。これは、何度読み返しても未だに意味不明なのだが、曰く、「御客様各位 お願い 水の流れる反応が遅い場合がありますので、一度ボタンを押すか、センサーに触れて流れない時は、再度ボタンを押すか、センサーに触れて流していただきますようよろしくお願いいたします。駅長」。いやはや。


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「五色不動」

2011年01月10日 | エッセイ
山門を入ると正面に本堂、右手に不動堂がある。世田谷にある最勝寺の「目青不動」だ。早速、鈴を鳴らし賽銭を入れて拝む。そして、賽銭箱の脇の木の階段を数段上がって「お不動様」を覗きこむ。目が青いか確かめるためだ。遠くにぼんやりとして見にくい。ならばと、予て用意の「双眼鏡」を取りだす。何でもお見通しの「お不動様」も、双眼鏡で覗かれるとは思いもよらなかっただろう。数倍に大きくなった「お不動様」の目は「青」らしく私には見えた。

 正月は何時も、昔から続く色々な巡礼の旅に出ている。昨年は「谷中七福神」を巡ったが今年は「大江戸五色不動」だった。徳川三代将軍家光の時代に江戸の鎮護と泰平を願って定められたと言うのが「五色不動」。五色とは宇宙を構成する水(黒)、火(赤)、地(黄)、風(白)、空(青)とか東西南北と中央の方角を表すとかの意味があるようだ。寺院の落慶法要等の時に五色の幕が飾られているのを見た事のある人も多いだろう。「不動」は「不動明王」のこと。密教の中心仏である「大日如来」の化身とされ、火炎を背に、憤怒の形相をして右手に持った剣で邪悪なものを打ち砕き、左手に持った羂索(けんじゃく)という縄で衆生を救い取るとされる。

 今年の冬一番の寒さだと言うその日、多くの通勤通学の人々に混じって世田谷の三軒茶屋の駅に集合した。江戸時代から続く「お不動様巡り」等と言う些か浮世離れした優雅な「巡礼」に出るのは、多分我々だけに違いない。山登りなどと違って目的はただ一つ。「お不動様」にひたすら祈り、願いを叶えて貰う、ただそれだけだ。先日目にしたベトナムの御坊さんはホーチミンからハノイまで2000kmを三歩歩いて二歩下がり、祈りながら歩いていた。だから、我々は「寒い」とか「足が痛い」等とは言えない。たった一日の事なのだから。夫々の「願い事」を胸に秘めた「善男善女」は駅の近くにある最初の「お不動様」、「目青不動」に向かった。

 二番目の「お不動様」は「目黒不動」だがそこまでは世田谷の住宅地を抜けて二時間はかかる。寒くても青空の広がるその日、日当たりはまずまずだが、日陰に入ると寒さが身にしみる。「目黒不動」は「目黒」の地名にもなった関東で一番古い「お不動様」と言われている。創建は大同三年(西暦808年)だから今から1200年も前の事になる。広い境内には多くの建物があるが多くは戦災によって焼失した伽藍を再建したものだ。お正月の初もうでの参詣客で賑ったであろう境内も、既に静けさを取り戻していた。ここは「五色不動」の中でも唯一、本堂に「お不動様」が祭られている所だ。本堂に入ると、丁度護摩の法要が行われていた。 「目黒不動」を出だのは丁度、昼ちょっと前。そろそろ「お昼」の時間だ。お寺から数分の創業80年と言う「蕎麦屋」に入る。やはり「難行苦行」にも息抜きは必要だ。全員が席に着いてから間もなく店は一杯になったから、丁度良いタイミングだった。美味しい「お蕎麦」を頂いた後は午後の部だ。

 最寄りの目黒駅までは歩いて20分程。全行程を一日では歩けないので、ここは目白駅まで電車を使う事にした。午後も日差しは有る物の相変わらず寒く、時折、ビュッと吹く風が冷たい。大学の脇の広い通りを抜けて約20分、「目白不動」のある「金乗院」に着く。他のお寺は「天台宗」なのだが、ここだけは何故か「真言宗」だ。だから、「目白不動明王像」も弘法大師の作と伝えられている。境内はひっそりとして、誰も居ない。 不忍通りを東へ、次に向かったのは駒込の「南谷寺」、「目赤不動」がある。江戸時代の地図を見ると、「南谷寺」の辺りは「吉祥寺」等の寺が軒を連ね、大名の下屋敷が多くあった場所だ。大名の屋敷は見事に消えてしまったが「寺社」は昔と変わらず、そこにある。「南谷寺」に着いたのは日の短いこの時期、もう日が陰り始める頃となっていた。この「お不動様」、昔は赤目不動と称していたらしい。「五色不動」が生まれた時、「赤目」を「目赤」に変えたのだと言う。御本尊の「不動明王」は秘仏として「お前立ち不動明王像」の胎内に収められていて、直接目にする事は出来ない。

 もう、ここまで来れば「大願成就」を願うのみ。些か、疲れた体に鞭打って最後の「目黄不動」に向かうが、流石、「善男善女」、苦行に耐え、黙々と歩いていた。「目黄不動」のある三ノ輪までは1時間以上もある。谷中・上野・入谷・下谷等を通り、目指す「目黄不動」のある三ノ輪の「永久寺」に着いたのは薄暗く日も暮れかかった頃であった。寺は新しくモダンに建て替えられたが「不動堂」は本堂の脇にそのまま建っていた。堂のガラスの入った格子越しに、火炎を背に「不動明王」が灯に浮かんでいるのが見えた。その表情から、「お不動様」は手に持った羂索(けんじゃく)で我々を救い取ってくれたに違いないと、私は思った。

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江戸しぐさ

2010年06月16日 | エッセイ

 最近「江戸しぐさ」について語られる事が多い。世界最大の都市だった江戸に住む人の生活の知恵とも言える「江戸しぐさ」が語られるのは、それだけ現代人のマナーに問題があるからに他ならない。「江戸しぐさ」の一つ、「傘かしげ」とは狭い路地で傘を差した者同士がすれ違う時、互いの傘を外側に傾け雨のしずくが相手にかからない様にしたり、すれ違いがスムースに行くようにしたり、お互いに配慮する事を言う。その他、「江戸しぐさ」のなかには「往来しぐさ」として「腰浮かし」「うかつあやまり」「肩引き」など等がある。現代の社会でも多くの人が集まる駅や電車の中のマナーの悪さを考えれば大いに参考になる事が多い。車内での携帯電話、座席の座り方等々色々ある。マナーとは関係ないが「女性専用車」も不思議な存在だ。調べてみたら、韓国・台湾・フィリピンにもあるらしい。タイには女性専用バスと言うのもあるそうだ。その他、宗教上の理由でイスラム教の国、パキスタン・イラン・エジプトにもあるようだ。ヨーロッパで「女性専用車」なるものは聞いた事が無いが色々な意味でそうした発想はないのではないだろうか。日本でも、もし男女が車内で混在する事に問題があるならば、「専用車」と言う発想以外の方法で解決すべきと、私は考えるが如何だろうか?女性専用車に反対する会」なる会もあると聞くから、やはり異論はあるようだ。女性の中でも、是とする考え方と否とする考え方があるに違いない。駅や街のマナーと言えば日本では余り見かけない習慣だが、押し開いたドアーを後から来る人の為に押さえておく習慣がある。些細な事だがヨーロッパでは殆ど例外なくそうしているのを気付いた人も多いのではないか。日本では、殆どすたれてしまった「江戸しぐさ」を彷彿とさせて呉れるマナーの一つではないだろうか。

駅のマナーと言えばエスカレーターの使い方がある。先日、上海万博のニュースをテレビで見ていたら、歩かない人は右側に立つよう指導していた。「上海」を外国人に少しでも良く見て貰おうとの配慮だが、東京では左側に立っている。先日、羽田空港で見ていたら関西から着いたばかりのグループがエスカレーターで右側に立ち始めたら、リーダーと思しき人が、後ろから、ここでは左、左と注意していた。私の知る限り世界的に右に立つケースが多いから東京圏の左側、と言うのは世界でも例外的な存在、と言えるだろう。大阪の「右に立つ習慣」も大阪万博が契機になったと言うから、上海で起こっている事と同じだ。

日本では自動車は左側通行になっている。これも世界的にはマイノリティーだが主にイギリスの影響を受けた国が多い。例えば、ニュージーランド・オーストラリア・インド・パキスタン・マレーシア・インドネシア・アフリカの一部の国等である。「交通」先進国だったイギリスで左側通行が採用されたのは訳がある。それは右利きの人が多い、と言う事に由来する。馬車の御者が馬に「右手」で長いムチを入れる時、右側にどうしてもスペースが必要になる為なのだ。もっと言ってしまえば人間の心臓が左にある、と言う事が影響している。左手で心臓を守り、右手で攻撃をする。つまり、人間は基本的に「右利き」を運命づけられているのだ。だから左側通行は必然的だとも言える。とは言いながら、ヨーロッパでは不思議な事にイギリス以外の国々は右側通行を採用している。その違いが生まれた事には、これも「理由(わけ)」がある。ヨーロッパの中世、ローマ法王のお達しもあって、馬車はイギリスと同じ左側通行であった。が、フランス革命の時代、既存の権威を否定する立場から右側通行が奨励された。つまり、右側を通る事が革命派の証しとなったのだ。その後、ナポレオンの時代、領土の拡張と共に右側通行が広がって、今に至っているのだ。もし、イギリスがナポレオンの軍門に下っていれば、馬車も車も右側を走っていたに違いない。そして、イギリスを真似た日本も右側通行になっていたかもしれないのだ。


エアライン ④

2010年03月16日 | エッセイ

 1903年、ライト兄弟の初飛行以来、飛行機の進化は著しい。座席の数は、より多く、スピードは、より早く、航続距離は、より長く、と進化を続けた。まだ未就航だが、今最大の座席数を誇る飛行機はフランスの航空会社がエアバス社に発注したA380機の840席と言われている。その多さを「おぞましい」と感じるのは私だけだろうか? 航続距離はどうだろうか。飛行機を製造する会社は新しい飛行機が出来ると性能テストの為長距離飛行に挑戦する。ボーイング777-200LRは香港~ロンドンを東から回って約21、600㌔を所用時間22時間42分で飛んだ。東に飛んだのは偏西風を利用する為であったし、勿論「空身」のフライトだった。それにしても凄い。太平洋と大西洋を一気に飛んでしまったのだから。現在商業飛行で一番の長距離便は香港~ニューヨーク間のフライトで13、000㌔、所要時間15時間30分だ。因みに、私が旅客機で飛んだ最も短い距離・時間はジャンボジェットで東京都内の某空港から羽田までの約10分間であった。

  飛行機に乗る為の搭乗橋(ボーディング・ブリッジ)はとても便利な物だ。「沖止め」と呼ばれるターミナルから遠い駐機場では雨風の強い時には不便だ。搭乗橋はその欠点を補う。だが搭乗橋の操作は難しい。スピードを出し過ぎると、勢い余って飛行機に衝突、と言う事もある。飛行機の機体は「弱い」から、穴が開いてしまう。そうなると、飛行機は修理が済むまで暫く使えないので大損害である。乗客の搭乗が終わると、機体から離して止める。遅れてやってきた乗客が、飛行機に乗りたい一心の乗客、航空会社の社員の制止を振り切って搭乗橋を走って飛行機に突進。飛行機から既に離れていた搭乗橋の端から地上に真っ逆さま、という事も起こる。

 飛行機を満席にするのは意外に難しい事だ。飛行機の座席が300席だったとして、300人分の予約を取って、300人が予定通り空港に現れれば、必然的に飛行機は満席になる。が、現実はそれ程簡単ではない。例えば、上海から成田に来て飛行機を乗り継ぐ場合、上海~成田の便が何らかの事情で遅れた場合、乗り継ぎが出来ない場合が生じる。それが50人だったとすれば50席空いてしまう、と言う訳だ。飛行機を満席に出来ない最大の理由は、予約したお客さんが予約通りに現れない事だ。「現れない」理由は数多い。ただ単に予定が変わったのに、予約を変更しなかった。最初から、二股を掛けて、他の航空会社で飛んでしまった。空港までの交通機関が遅れて出発時間に間に合わなかった、空港に来たら旅券を家に忘れていた、渡航先の査証を持っていなかった、等々多岐に渡る。ホテルの部屋も同じだが、空席で飛んだ飛行機の座席は2度と戻らず損失となる。そのリスクを避ける一つの方法が所謂、オーバーブッキングだ。予約して飛行機に乗らない人の数を予想して、その数だけ多く予約を取る事だ。だが、どの位「多く」か、を判断するのは難しい。何時も、予約して現れない人の数が一定ではないからだ。一昔前、「リコンファーム」等と言う習慣があった時は余り起こらなかった問題が航空会社を悩ませている。最近では国内線でも、ゲートで後続の便に振り替えても良い人を探すアナウンスをしている。満席にするもう一つの方法は「空席待ち」だ。一定の数だけ、空港のカウンターで待たせ、空席が出たら乗せる、と言う事だ。国際線では便によって、多い時には100人以上、予約したのに現れない事もあるから、エアラインも辛い商売だとも言える。

 予約を取り過ぎて席が溢れる、と言う以外に、ファーストクラス、ビジネスクラスを予約したけれど、予約したクラスが一杯になってしまう、と言う事も起こる。せっかく大枚払ってビジネスクラスを予約して、空港に来たら、エコノミークラス、と言われたら、如何思うだろうか。勿論、差額の払い戻しはあるが、気分は悪いだろう。

 ある時、ニューヨーク・フィルの指揮者が日本での公演を終え、日本のプロモーターと一緒に成田に来た。勿論ファーストクラス。だが、予約した飛行機は「機材繰り」の為、欠航になってしまった。選択肢は二つ、翌日のファーストクラスか、その日の他社のエコノミークラス。青くなったのは指揮者本人よりプロモーターの方だった。翌日、リハーサルを控えていた指揮者の選択肢は「エコノミークラス」で行く以外は無かった。ファーストクラスで、常々習慣的に旅行している身にとって、ニューヨークまでエコノミーの長時間フライトは辛かったに違いない。

 自動車のエンジンからオイル漏れがあるように、飛行機のエンジンからもオイルは漏れる。だが、飛行機はオイル漏れに構わず飛ぶ事がある。オイルが漏れていて、飛ぶ、とは信じられないかもしれないが、そう言う事もあるのだ。一定時間に漏れるオイルの量が許容範囲なら、そのまま飛んでしまう。勿論安全に支障はない。経験に裏打ちされた「プロ」の処置、と言える。機体に「穴」が開いてしまったら「テープ」で塞いで飛ぶ、事もある。勿論、「穴」と言っても大きさや場所による。飛行にさし障りのない場所なら「テープ」で済ます事もあるのだ。但し、ただの「テープ」ではない。金属製の特殊なテープを張ってしのぐ。勿論、応急措置だ。

 旅客機が飛び立って、目的地の空港に到着できない理由は多い。例えば、天候不良・飛行中の機体の不具合・急病人・目的地の空港の閉鎖・燃料切れ・ハイジャック等々である。そんな事は、かなり頻繁に起こっている事だ。ある時こんな事があった。ソウル~成田便がソウルを飛び立って間もなく、成田の天気が悪い。目的地を変更して飛行機が向かったのは関西空港。そこで成田の天候の回復を待つ。やっと天候が回復、と言う事で関空を飛び立つ。所が再び天候が悪化、飛行機は羽田に着陸、そして、その便は時間切れで打ち切り。だが、乗客は降りられず、機内に缶詰。「国内線専用」だった羽田には税関・入管・検疫官が居なかったのだ。係り官が大挙して、陸路成田から羽田に着くまでの数時間、乗客は一歩も機外に出られず、食べるものも無く、長い一日を過ごす羽目となってしまったのだった。


ヒッチハイク

2010年02月12日 | エッセイ

 朝早く目星をつけておいた場所に行くと、もう順番待ちの列が出来ていた。誰でも、考える事は同じで「絶好の場所」は決まっている。地中海の港町、フランスのマルセイユからパリまで800㌔のヒッチハイクを目論んでいた私はしぶしぶ、その順番待ちの列に並んだ。先頭の1人が道路に出てヒッチハイクをしている間、他の人は少し離れた所で待つのがルール。1人ヒッチハイクに成功すると、順番が繰り上がる。じっと待つのみだ。私の順番が2・3番目になった時、止まった車が先頭で待っていた男に難色を示した。そして、列の後方を見やると、私を名指しした。勿論、名前が呼ばれた訳ではないが、気に入られたのだろう。パリまで800㌔、約10時間、狭い空間で一緒に過ごすのだから、「相方」を選びたい気持ちは判る。選ばれた私に文句のあろうはずもなく、パリまで乗せて貰う事になった。

 20代の頃、住んでいたロンドンやパリをベースに旅に出掛け、ヒッチハイクでヨーロッパ中を巡った。私のそんな旅の原点は日本橋から大阪まで歩いた後、四国、九州、山陽から横浜の自宅までヒッチハイクで旅した事に始まる。そして、ヒッチハイクは日本に帰った後も続き、今でも、時々お世話になっている。

 今まで知らなかった人と人が、何の前触れもなく突然知り合い、狭い空間を共有する。最初から最後まで、一言も口を利かない人、根掘り葉掘り、戸籍調べをする人、千差万別だ。でも、そこで交わされる会話は楽しい。自宅に案内され、泊めて貰った事も数多い。

 だが、車に乗せて貰う事は、言うほど容易な事ではない。忍耐と少々のコツが要る。それでも、諦めて途方に暮れた事も多い。イギリスの片田舎、ヒッチハイクをしていたら、カラス張りの「金魚鉢」の様な黒塗りの車が来た。手を挙げる、だが止まらない、後続の何台かの車も止まらない。何故か乗っている人が一様に私を睨んでいるのだ。思わず、手が引っ込んだ。後で気がついた。先頭の車は「霊柩車」、その後に続く車列は「遺族」だったのだ。

 ある時、フランス南西部の保養地、ビアリッツの近くをヒッチハイクしていたらフランス人の若い女性が乗せて呉れた。しかも、軍服を着た兵隊。会話が弾んで、1時間ほどで彼女の目的地に着き、車を降りる事になったら、是非、一晩泊って行かないか、とお誘いを受けた。まだ「真面目?」だった私は丁重にお断りして旅を続けてしまった。

 日本国内でも、随分ヒッチハイクをやった。実は、日本は世界一、ヒッチハイクがやり易い国だと、私は感じている。訳は簡単だ。一般道や高速道路が縦横に走っていて、誰もヒッチハイク等、やっていないからだ。北海道で乗せて呉れた車、聞いてみたら自家用車を運転していた非番のタクシーのドライバー、手を挙げている人がいたから、習性で思わず止まってしまったのかもしれない。そんな事もあるのだ。

 オーストリアでは、日の丸に似たデザインのマークを掲げている車を見かける。これは「私はヒッチハイカーを乗せます」と言う意味なのだ。だから、ヒッチハイカーは闇雲に手を挙げるのではなく、そのマークを掲げている車が来た時に手を挙げれば良いのだ。こう言うシステムは夏休みに学生が地方に帰る時に、良く利用されている合理的な習慣だ。

日本国内で、私が車を運転している時は、ヒッチハイカーが居たら、常に乗せてあげようと思って、走っているのだが、残念な事にヒッチハイカーの姿はついぞ見た事がない。

  今でも、思い出に残る旅の一つに「地中海一周の旅」がある。実は途中で「事件」が起こるのだが、そんな事も知らずにイギリスのサウザンプトン港から船に乗ってスペインのビルバオへ。そこから汽車でマドリード、それからスペインの観光地を巡って、スペイン南端の港、アルジェシラスから船でモロッコのタンジール経由でカサブランカ。それから汽車でアルジェリア、チュニスと巡り、再び船でイタリアのシシリー島へ。そこからはヒッチハイクの旅になった。最初に拾ってくれたのはサハラ砂漠から帰る途中のフランス人の青年。彼の持っていたテントで初日はポンペイのあるベスビオス火山の中腹で一泊、翌日はローマに向かう、古道、アッピア街道の道端でテント泊であった。ローマで彼と別れると、ヒッチハイクの旅を続けた。ローマを出た日、何台かの車を乗り継いだ後、午後遅く、イタリア人の運転するトラックに乗った。数時間、片言の会話も弾んだ翌朝の4時過ぎ、毛むくじゃらの大男の運転者が突然私に襲いかかって来たのだ。襲いかかられれば抵抗する。狭い、車内で力比べの格闘となった。をれだけ、私は必死だったのだろう。暫くすると彼は諦めたが、薄暗い、雨降る外に放り出されてしまった。辛うじて「操」は守ったが、そこが、いったい「何処」なのかすら判らない場所であった。そして、窮地を脱すると、旅を続け、フランスからイギリスに戻り、波乱に満ちた「地中海一周」旅は終わったのだった。


ほいと

2010年01月22日 | エッセイ

 アメリカ人の上司と千葉の成田から東京まで歩こう、と言う事になった。仕事が終わった金曜日の夕方、事務所を出て歩き始めた。今から考えれば随分と無謀な試みだった。成田から東京駅まででも約70㌔。案の定、真夜中に私の足が水ぶくれになって敢無く途中で諦めた。仕方なく、自宅に帰るべくタクシーに乗って東京駅に向かった。駅に着いたのが夜中の3時半過ぎ、まだ駅のシャッターが降りていて入れない。朝まで待とうと、シャッターの前の何人かのホームレスに交じって横になった。駅で一晩を過ごす、という経験はあったが、ホームレスと一緒と言うのは、その時が初めてだった。

先日、イギリスのウィリアム王子がロンドンの中心部の路上で一夜を明かした、と言う記事を読んだ。まさか、私のひそみに習った訳ではないと思うが、流石、と感じた。記事は「英王子がホームレス体験!氷点下のロンドンで一夜」と題し、「チャールズ英皇太子の長男で王位継承順位2位のウィリアム王子(27)は先週、ホームレス問題への社会的関心を集めるため、ロンドン中心部の路上で一夜を過ごした。ホームレスの人々を支援する非政府組織(NGO)「センターポイント」(本部ロンドン)が22日、明らかにした。王子が路上で寝たのは15日夜。氷点下4度まで冷え込む中、大きなごみ箱の陰に段ボールを敷き、寝袋にくるまった。王子を路上体験に誘った同NGOのトップ、オバキン氏と王子の個人秘書も一緒だった。同氏は「麻薬の密売人が話し掛けてきたり、誰かにけられたり、清掃車にひかれそうになったり。路上生活がいかに危ないものか分かってもらえた」と話した。夜明けごろには、帰る家のない人々が横たわるロンドン市街地を視察したという。センターポイントは約40年間、ホームレスの人々を支援する活動をしており、王子は同NGOの後援者となっている。」と続いた。 「すまじきは宮仕え」とは言うが、多少王子様の「個人秘書」に同情の感は否めないが、「英王室」の「凄さ」を改めて思った。

 大分昔の事だが、ニューヨークのキャフェテリアで食事を終って、さあ席を立とうとした、その時、1人の男が近づいて来て、「食事は終ったのか?」と聞く、私が“Yes”と言うや否や男は私の食べ残しののった皿を持って立ち去った。大袈裟に言えば、所有権を放棄された私の食べ残しを貰って「何が悪いのか」と言う事なのだろう。「合理的」と言えば「合理的」だが、日本では余り目にしない光景だろう。ロンドンの地下鉄に乗っていると、前の座席に座った人から良く「タバコを1本売ってくれ」と言われたりする。そんな時、1本差し上げるが、勿論お金など貰わない。「売ってくれ」と言う方も、お金を請求する人等殆どいない事を見越しての振る舞いなのだろう。形を変えた「物乞い」だとも言える。

 私もロンドンで「乞食」をした事がある。友達がギターを弾き、私は地べたに座って空き缶を前に、ひたすら「喜拾」を待つ。最初に選んだ場所は地下鉄の出入り口。何人かの人がコインを入れてくれる。暫くしたら、地下鉄の職員に追い払われた。「どこか、他でやってくれ」と言うのだ。場所を移して、公園に向かう地下道で続行。暫くすると、今度は「お仲間」が来て、「ここは俺たちの縄張り」だから、他へ行けと睨まれ、すごすごと「新米」は引き揚げざるを得なかった。

 「乞食(こつじき)」とは仏教の用語で、僧が自分の身体を維持する為に人に乞う、「業(ぎょう)」の一つでもある。「行乞(ぎょうこつ)」とも「托鉢」とも言う。自ら生業(なりわい)を立てない事に意味があるのだ。その事が転じて「乞食(こじき)」と言う言葉が生まれ、「物貰い」「ほいと」「物乞い」「おこも」等と言う表現がある。「乞食に貧乏無し」とか「売りの皮は大名にむかせよ、柿の皮は乞食にむかせよ」等、「乞食」を題材にした格言は多い。

 ホームレスは居ても、今時の日本、「物乞い」をされる事は殆ど無い。そんな事をしなくても、何とか生きて行ける「術(すべ)」が有ると言う事なのだろうか。

 これも、大分以前の事だが、韓国・ソウルの中心地の裏通り。突然、鋭い目付きの少年が現れて、左手を差し出す。「物乞い」だと瞬間思ったが違っていた。少年の右手には「カミソリ」が握られていた。立派な「強盗」だったのだ。慌てて、ポケットから硬貨を何枚か取りだすと、少年の手のひらに載せ、一目散に逃げ出した事は言うまでもない。


新年

2009年12月31日 | エッセイ

新年明けまして

おめでとうございます

謹んで新春のお喜びを申し上げます。
輝かしい新年を迎え、皆様のご健康と
ご繁栄を心よりお祈り申し上げます。

さて、当ブログ、開設以来約2年になりますが、様々な事情で思うように更新できず、大変申し訳ないと、常々恐縮致しております。ブログとは「日々更新される日記的なウエッブサイト」とのこと。現に、そう言うスタイルの「ブログ」も多く見られます。良し悪しは別として、自分の「日記」を公開するのに、些かの躊躇を覚える性質(たち)の為、自分の出来る範囲で、「何か」を書き、読んで頂ければ、幸い、と考えております。本来は私の運営しております「塾」の宣伝・広報に利用すれば、それなりの「効果」が期待できる事はあると思いますが、「塾」の方々の全てがこの場にお越し頂けないかもしれない、と言う現状では、「公平」と言う観点から、その事も「躊躇」する訳の一つです。回数は少なくても、「日記風」ではなくても、出来るだけ伝聞に依らない、私自身の生の体験を基にした事柄や私がぜひ書きたい、と思う事が書ければと願っております。そして、読んで頂いて少しでも「面白かった」と感じて頂けるようなブログにしたいと思っておりますので、引き続き、今年も辛抱強くこのブログをご訪問頂ければ大変嬉しく思います。

源太郎


エアライン ③

2009年12月19日 | エッセイ

 日米の航空会社が自由に路線などを設定できる「オープンスカイ協定」が締結された。以前は日米の各3社のみに自由に路線などを設定できる権利が特権的に与えられていた。それを、日米の全ての航空会社に適用しよう、と言う新しい協定である。「不平等」と言われた従前の協定は戦後間もない1952年に戦勝国と敗戦国の力関係を前提に結ばれたものであった。今回の新しい協定の締結は「戦後」の終焉であるとも言える。「航空自由化」とも言われるオープンスカイ協定は航空会社間で路線・便数を効率的に割り当て、営業や空港窓口業務を集約して収入源とコスト削減を図る事が出来るものである。その意味で、航空業界は新しい競争のステージに入ったと言えよう。

 空港には多くのゲートがあって、各ゲートに飛行機が並んでいる。パイロットのA氏、スタッフからブリーフィングを受けると自分の操縦する飛行機のゲートに向かった。コックピットに入ると、マニュアルに従って準備に入る。間もなく乗客の搭乗が始まる。暫くして、パイロットが慌てて飛行機から降りてきた。何と、そのパイロットの乗る予定の飛行機は隣のゲートだったのだ。ニューヨークに行くつもりで乗り込んだ飛行機の乗客は香港行きだったのだ。離陸後だったら笑うに笑えない話である。

 飛行機も「ヒッチハイク」出来ると言うのを御存知だろうか。但し、パイロットの資格がいる、と言う条件付きの話だが。休暇で海外旅行を楽しんでいるパイロットが居るとする。航空会社のカウンターで自分の乗りたい飛行機のパイロットが来るのを待って、頼むのだ。大概のパイロットはコックピットに空いた席があれば断らない。パイロットの方も、万が一何か起こった時に手助けして貰えると期待があるのと自分も頼む側に回る事もありお互い様なのだ。そうして、飛行機を「ヒッチハイク」して旅行している人も多い。

 日米安保条約に基づき米軍人の取り扱いを定めたものが日米地位協定である。言わば、米軍人に対して「治外法権」的取り扱いを定めた協定である。米軍人とその家族・軍属の移動は時として横田基地等から米国に直接向かう飛行機が利用される。我々の目に触れる事は無いが、そんな飛行機が定期的に飛んでいるのだ。その他、日本国内の空港から発着する民間航空の飛行機も利用する。我々が海外旅行をする時に必須の「旅券」を、米軍人は必要としない。日本の空港での出入国に必要なものは名刺大の「身分証明書」一枚で済むのだ。

 航空会社に預けた荷物が破損したり紛失したりする事は時として起こる。憧れのハワイ旅行に出たカップルの日本人。ハワイに着いたら、預けたはずの荷物が出てこない。狐につままれた様な気持ちで、航空会社の社員にその旨を伝え探して貰う。取敢えず、機内に持ち込んだ手荷物だけでホテルへ。翌日には見つかると信じて待ったが、翌日も不明のまま。スーツケースに入れた物が一切無い状態はつらい。寝間着や洗面道具はもとより、着替え・水着など等必要なものばかり。そうこうしている内に5日間の滞在予定もあっと言う間に過ぎてしまった。ハワイを出ると言う最終日、怒り心頭に達して航空会社の市内の事務所に怒鳴り込んだ。が、言葉が通じない。とうとう、大声を出してどなった。相手の社員にしてみれば、いきなり言葉の通じない日本人が入ってきて、どなり声を上げる。程なくして、サイレンを鳴らした車が到着。哀れな日本人カップルは警察に連行され事情を聴取される羽目となってしまった。不幸な事だが、アメリカでは「どなり声」は暴力を振るった事と同じ扱いを受けるのだ。泣きっ面に蜂、とはこういう事だろう。因みに、荷物が紛失してしまった場合、補償額は1㌔あたり20ドルと決まっている。今の為替レートでは約1800円。20㌔が制限範囲であれば最高400ドル(約36,000円)、32㌔の場合でも640ドルである。別の言い方をすれば、荷物の中に入っている物の価値には一切無関係に、「目方」で支払われると言う事になる。だから、荷物を預ける時は無くなっても良い物、容易にお金で買える物に限った方が無難だと言える。


エアライン ②

2009年11月12日 | エッセイ

 新東京国際空港、通称「成田空港」の成田は「なるた」に由来する。だから、些かしまらない感じだが、本来は「なるた空港」なのだ。「なるた」とは「鳴る田んぼ」。何が鳴るのかと言えば、それは「雷」。「成田」は「雷の鳴るたんぼ」を意味する。

 飛行機の中で雨が降る、と言ったら驚きだろう。機内の照明、映画、オーディオや各種機器には電気が必要だ。飛行中はエンジンに併設された発電機で発電をしながら飛行をしている。では、地上にいる時は如何するのだろうか?例えばジャンボで言えば、小さな発電用のエンジンを尾翼の付近に備えている。地上にいる時、そのエンジンを回しているのだ。夏の炎天下、陽に照らされて飛行機の内部は蒸し風呂の様な暑さになる。だから、エアコンは欠かせない。暑ければ暑いほど、外気との温度差で「結露」が溜まる。その溜まった結露が、離陸で傾いた天井のパネルの間から、どっと降ってくる。雨と言うよりは滝、かもしれない。びしょ濡れになった乗客は???となる。

 今から、それ程前事ではないが、既に「古き良き時代」と言って良い時代のファーストクラス。食事は特別のレストランが機内にあった。ジャンボの二階にダイニング・テーブルが用意されていた。当然、本物のナイフ・フォーク、それに真新しいテーブルクロス。勿論、シャンペンやワインも。料理は東京の「マキシム・ド・パリ」の作った料理。食事の時間になると乗客はレストランに移動、スチュワーデスが食事をサービスした。「古き良き時代」とはよく言ったものだ。

 ハワイ便、今は、もうそんな事は無いかもしれない。かつてジャンボのほぼ全てが新婚旅行客だった時代がある。横一列、席は、3席(ABC)、4席(DEFG)、3席(HJK)と並んでいる。だから、二人ずつ並んで座れる席には限りがある。結婚式が終わって、空港に来た。やっと二人きりになれると思ったら、席は別々。良くて通路を挟むか悪ければ前後の席、と言う事になってしまう事もある。たまにひとり旅が居ると、カップルの群れの間に挟まる事になってしまうのだ。右側の3席(HJK),本来、アルファベットは(HIJ)となる筈だが、Iは数字の1と紛らわしい為、(HJK)となっている事にお気づきだろうか?

 飛行機の中はある種、社会の縮図でもある。国内でも、犯罪者が新幹線で護送されているのをテレビで目にする事がある。飛行機でも同じ。犯罪者が護送される。手錠をはめられ、左右にピストルを偲ばせた官憲が護送する。大概は、一般の乗客が乗る前に、早めに機内に入り、最後尾に座る事が多い。機会があったら、ちょっと注意して見ていたら、そんな人たちが隣や後ろの席に座っているかもしれないのだ。

 飛行機は「機械」だから時として故障する。旅の目的は色々。ビジネス・観光・公務・結婚式・新婚旅行等、中には裁判や船の進水式に出る人もいる。飛行機が故障して飛ばないと大変だ。300人の乗客がいれば、時として300人の人生を左右してしまう事だってあるのだ。そんな時、飛行機会社は苦労する。例えば、隣に駐機している飛行機の目的地が近場で200人位の乗客だった場合、飛行機を取り替えてしまう。そして、時間稼ぎをして修理を続ける。又、部品のストックが無ければ、部品が同じなら、隣の飛行機からはずして持ってくる事もある。外された部品は、他の飛行場から陸上を運ぶ事もあるし、近場の外国の飛行場から空輸して補う事もある。

 東京付近上空は日本国内を発着する国内線や国際線以外の飛行機も数多く飛行している。例えば、中国・韓国・東南アジアからアメリカに向かう便だ。普段は余り意識することは無いが、飛行中に機体が故障したり急病人が出たりすると、成田に降りてくる。飛行機が修理できればそのまま再出発するし、急病人は救急車で運ばれる。運悪く、午後11時の制限時間に引っ掛かれば、出発は翌朝になってしまうのだ。上海からシカゴに向かったつもりが成田で泊まる、と言う事も起こってしまうのだ。


エアライン ①

2009年09月07日 | エッセイ

Original_eight_3  英語の「steward は「執事・給仕」など、「仕える」事を意味する。男性はスチュワード、女性はスチュワーデスとなる。航空会社では最近、男女を分ける言葉は余り使わず、FA(フライト・アテンダント)とかCA(キャビン・アテンダント)と呼ぶことが多い。

 世界で初めてのスチュワーデスは1930年、アメリカのボーイング航空輸送(現在のユナイテッド航空の前身)が採用した8人だと言われている。最初の8人、と言う事で彼女達は「オリジナル・エイト」と呼ばれ、全員がミネソタ大学の看護科を卒業した看護師であった。これは私の推測だが、看護師を採用したのではなく、採用した人たちが、看護師であった、と言う事だったのだろう。看護師の資格を持っていて不都合は無いのだからその資格・経験が役に立った事は大いにあったに違いない。初飛行は1930年5月15日、シカゴとサンフランシスコ間、ボーイング80A複葉3発機であった。

 アメリカの航空会社では定年が無い会社が多く、「年功」が物を言う。スチュワーデスも何時、どの便を飛ぶかは各自の「入札」によって決められる。優先権は「年功」の長い者にある。だから、人気のある目的地・便には「高齢」のスチュワーデスが集中する事がある。70代のスチュワーデスともなれば頻繁に飛ぶお客さんの中にファンが居て、お客さんの方が仕事をあれこれ手伝ったりする事だってあるのだ。

 飛行機の離発着の際、手荷物は前の座席の下に収納し、座席の背もたれを元の位置に戻す様、繰り返しアナウンスされ客室乗務員がしつこい程点検に回る。何を気にしているのか?目的はただ一つ、非常時に席から脱出しやすい様に、との配慮だ。特に、奥の座席の人が通路に出る時、前の人の座席が倒れていたり、足元に荷物があったりしたら、脱出に手間取るからだ。極論すれば、緊急脱出をスムースに行う事が客室乗務員の最大の「仕事」だとも言える。

 飛行機が初めて世の中に現れた頃、それまで主役であった「船」の用語をそのまま使っていた。客室乗務員は「cabin attendant」だし、客室もズバリ「cabin」と呼んでいるが、「cabin」とは元々は「船室」の意味である。飛行機そのものも「ship」(船)と呼ぶ習慣もある。搭乗橋の着く飛行機の左側は 「port side」であり、反対側の右側を船と同じく「starboard side」と呼ぶ事がある。港に外国船が着いて、船員が上陸する場合、ビザが無くても3日間程度入国する事が出来る許可を「shore pass」と呼んでいるが、飛行機で到着した旅客の場合でも同じく条件が合えば「shore pass」が出される。「shore」とは海岸の意味だ。

 ジャンボが全盛だった頃、コックピット(操縦室・鳥小屋)はパイロット、コ・パイロットと航空機関士の3人態勢であった。最近の飛行機は、コストを下げる為、機関士は居ない。普通の人間が、時として病気になるように、パイロットも病気になる事がある。予定していたパイロットが来ないと、飛行機は飛ばない。そんな時、代りを見つける為「非番」のパイロット探しが始まる。条件が合ったパイロットをチェックして、まずは滞在先のホテルに連絡を取る。居なければ、メッセージを残す。後は、予想される「立ち回り」先に電話を入れる。運航に携わる社員は、普段からどの辺りがパイロット達の「遊び場」なのかを把握しておく事も必要なのだ。運良く、見つけても、お酒を飲んでいたらダメ、飲んでいなくても、断られたら、それで終わり。飛行機を飛ばすには、こんな舞台裏の苦労もあるのだ。