東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

お祓い

2024-06-10 23:45:57 | 日記

北京

2024-06-10 23:44:43 | 日記
 明治維新の話は嘘の気がするし、清から僧の人たちが日本に来たとしか思えないんだよなあ。
 
 第一次桂内閣が明治34年(1901年)から始まって、第一次桂内閣、第一次西園寺内閣、第二次桂内閣、第二次西園寺内閣、第三次桂内閣と続いて、第三次桂内閣は大正2年(1913年)まで続いたようだ。桂太郎と西園寺公望が交代で総理大臣に就いてた時代を桂園時代というらしい。
 
 辛亥革命は1911年から1912年にあって、清が滅びたらしい。孫文は客家の出身で、中国や台湾では孫中山という名のほうが知られてるようだけど、日本に住んでいた時に孫中山という名を使ってたようだ。孫文は初代中華民国臨時大総統で、中国国民党総理を務めたようだ。日本にはアジア主義といわれる人たちがいて、アジア主義の人たちは孫文とも関わりがあって、辛亥革命を支援していたようだ。

 中国大陸にあった清は満州の人が建国した国だったみたいだけど、ウィキペディアで調べると、ヌルハチという人が1616年に建国した後金が清になったらしい。ヌルハチという人の次の皇帝のホンタイジという人の時の1636年に元の玉璽を引き継ぎ、一緒にマハーカーラ像も受け取り、国名を大清として皇帝に即位したらしい。大黒天はマハーカーラといってインドの神のシヴァの別名らしい。
 
 後金の首都は遼寧省にある瀋陽市だったようだけど、盛京と改称されたらしい。清の首都は盛京から北京に移ったらしい。北京には雍和宮というチベット仏教寺院があるらしい。
 
 雍和宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか
 

チベット

2024-06-10 23:40:23 | 日記
 カルト密教の呪いは怖いなあ。
 
 第一次桂内閣が明治34年(1901年)から始まって、第一次桂内閣、第一次西園寺内閣、第二次桂内閣、第二次西園寺内閣、第三次桂内閣と続いて、第三次桂内閣は大正2年(1913年)まで続いたようだ。桂太郎と西園寺公望が交代で総理大臣に就いてた時代を桂園時代というらしい。
 
 桂太郎には、お鯉という妾がいたらしいけど、お鯉は安藤照という女性で、昭和9年(1934年)にあった帝人事件の後に出家して妙照尼と名乗り、昭和13年(1938年)に東京にある五百羅漢寺の住職になったようだ。
 
 東京都目黒区に五百羅漢寺があって、HPがある。天恩山羅漢寺というみたいだけど、明治41年(1908年)に今の場所に移ったらしい。羅漢寺は鉄眼道光の開山らしい。河口慧海は羅漢寺で得度して羅漢寺の住職になったようだけど、河口慧海は日本人で初めてチベットに行ってきたらしい。本当に日本人か知らないけど・・・。
 
 河口慧海は明治30年(1897年)に日本を出発してチベットに行って、明治36年(1903年)に帰国したらしい。河口慧海は大正2年(1913年)から大正4年(1915年)の間に2度目のチベット入りも果たしているらしい。河口慧海はチベットに行って、たくさんの仏教関連のものを持ち帰ってきて、仏教関連の本もたくさん書いてるらしい。河口慧海は大正10年(1921年)には僧籍返還して在家仏教信者になったようだ。河口慧海は昭和20年(1945年)に亡くなったらしい。
 
 多田等観という人は今の秋田市の出身らしく、西本願寺で僧になり、1913年から1923年までチベットにいたようだ。多田等観はダライ・ラマ13世とも懇意にしてたらしい。西本願寺はチベットからの留学生も受け入れていたようだ。
 
 明治35年(1902年)に日英同盟が結ばれたみたいだけど、日露戦争は第一次桂内閣の時の明治37年(1904年)から明治38年(1905年)にあったらしい。
 
 ウィキペディアを見ると、1903年の12月から1904年の9月まで、イギリスのチベット侵攻があったようだ。この頃のインドはイギリス領でイギリスの植民地と化していたようだ。イギリスの軍隊はチベットの首都のラサまで到達し、イギリスはチベットにラサ条約を結ばせたらしい。
 
 チベットは清の保護国だったみたいだけど、この頃は清の影響力が落ちていて、チベット国内でも政治権力争いが続いていたようだ。イギリスのチベット侵攻でダライ・ラマ13世はチベットを脱出してモンゴルと清と亡命し、1909年にラサに戻ってきたらしいけど、ダライ・ラマ13世の英露日への密使を清に知られ、清がチベットに侵攻してきたらしい。ダライ・ラマ13世は今度はインドに亡命したらしい。清は1912年に滅び、ダライ・ラマ13世は1913年にラサに戻ってきたらしい。
 
 ウィキペディアで調べると、ダライ・ラマは1642年にチベット政府の長になって、1959年までチベット政府の長だったようだ。チベットのラサというところにポタラ宮という宮殿があるらしい。今のダライ・ラマは14世のようだ。
 
 ポタラ宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

華厳宗

2024-06-10 23:34:09 | 日記
 嘘八幡被害者の会ですか・・・。
 
 鹿児島県霧島市にある鹿児島神宮は大隈国の一宮で彦火火出見命を祀っていて、正八幡宮や国分正八幡や大隈正八幡ともいうらしく、全国正八幡の本宮らしい。鹿児島神宮のHPに、そう書いてある。
 
 福井県小浜市にある若狭彦神社では彦火火出見命を祀ってるらしい。東大寺のお水取りの水は若狭彦神社の神宮寺だった寺から運ばれてくるらしいけど、詳しく知らない。
 
 奈良県奈良市にある東大寺は華厳宗の寺で、東大寺は金光明四天王護国之寺というらしい。ウィキペディアの東大寺の歴史のところを見ると、東大寺は明治19年(1886年)に華厳宗の寺になったようだ。本当か知らないけど・・・。東大寺の鎮守は手向山八幡宮でいいんだろうか?。
 
 東大寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

法相宗

2024-06-10 23:32:40 | 日記
 興福寺の近くに東大寺があるらしいし、清水寺も法隆寺も法相宗の寺だったの?。
 
 ウィキペディアで調べると、大西良慶という僧は明治22年(1889年)に奈良市にある興福寺に入って出家して、明治32年(1899年)に興福寺の住職になり、明治37年(1904年)に法相宗の管長になったらしい。大正3年(1914年)に清水寺の住職になって、昭和17年(1942年)まで興福寺の住職も兼務したようだ。昭和40年(1965年)に清水寺は法相宗から独立して北法相宗になったようだ。大西良慶は昭和58年(1983年)に亡くなったらしい。
 
 奈良県生駒郡斑鳩町にある法隆寺は聖徳太子の創建の寺らしいけど、佐伯定胤という僧は法隆寺で出家したらしいけど、明治36年(1903年)に法隆寺の管主に就き、40年以上、法隆寺の管主を務めたようだ。大正10年(1921年)には聖徳太子没後1300年ということで聖徳太子奉賛会を組織したらしい。昭和9年(1934年)からは法隆寺の昭和の大修理を始めたらしいけど、昭和24年(1949年)に法隆寺金堂から出火して壁画を焼失し、次の年の昭和25年(1950年)に責任を取って管主を辞任し、長老になったらしい。昭和25年(1950年)に法隆寺は法相宗から離脱して、聖徳宗を開いたようだ。佐伯定胤は昭和27年(1952年)に亡くなったらしい。
 
 ウィキペディアで調べると、藤原氏は東家と西家と南家と北家に分かれたらしく、その中でも北家が栄えたらしく、藤原北家から五摂家が出てきたようだ。五摂家は近衛家と鷹司家と一条家と二条家と九条家。五摂家の他にも藤原氏から分かれた氏族がたくさんあって、明治維新の後に華族になった家も多いようだ。明治天皇の皇后の昭憲皇太后は一条家の出身で、大正天皇の皇后の貞明皇后は九条家の出身らしい。
 
 藤原氏の寺は奈良県奈良市にある興福寺で、興福寺は法相宗の大本山のようだ。五摂家の菩提寺は京都に別にあるらしい。
 
 興福寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか