東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

チベット

2024-06-10 23:40:23 | 日記
 カルト密教の呪いは怖いなあ。
 
 第一次桂内閣が明治34年(1901年)から始まって、第一次桂内閣、第一次西園寺内閣、第二次桂内閣、第二次西園寺内閣、第三次桂内閣と続いて、第三次桂内閣は大正2年(1913年)まで続いたようだ。桂太郎と西園寺公望が交代で総理大臣に就いてた時代を桂園時代というらしい。
 
 桂太郎には、お鯉という妾がいたらしいけど、お鯉は安藤照という女性で、昭和9年(1934年)にあった帝人事件の後に出家して妙照尼と名乗り、昭和13年(1938年)に東京にある五百羅漢寺の住職になったようだ。
 
 東京都目黒区に五百羅漢寺があって、HPがある。天恩山羅漢寺というみたいだけど、明治41年(1908年)に今の場所に移ったらしい。羅漢寺は鉄眼道光の開山らしい。河口慧海は羅漢寺で得度して羅漢寺の住職になったようだけど、河口慧海は日本人で初めてチベットに行ってきたらしい。本当に日本人か知らないけど・・・。
 
 河口慧海は明治30年(1897年)に日本を出発してチベットに行って、明治36年(1903年)に帰国したらしい。河口慧海は大正2年(1913年)から大正4年(1915年)の間に2度目のチベット入りも果たしているらしい。河口慧海はチベットに行って、たくさんの仏教関連のものを持ち帰ってきて、仏教関連の本もたくさん書いてるらしい。河口慧海は大正10年(1921年)には僧籍返還して在家仏教信者になったようだ。河口慧海は昭和20年(1945年)に亡くなったらしい。
 
 多田等観という人は今の秋田市の出身らしく、西本願寺で僧になり、1913年から1923年までチベットにいたようだ。多田等観はダライ・ラマ13世とも懇意にしてたらしい。西本願寺はチベットからの留学生も受け入れていたようだ。
 
 明治35年(1902年)に日英同盟が結ばれたみたいだけど、日露戦争は第一次桂内閣の時の明治37年(1904年)から明治38年(1905年)にあったらしい。
 
 ウィキペディアを見ると、1903年の12月から1904年の9月まで、イギリスのチベット侵攻があったようだ。この頃のインドはイギリス領でイギリスの植民地と化していたようだ。イギリスの軍隊はチベットの首都のラサまで到達し、イギリスはチベットにラサ条約を結ばせたらしい。
 
 チベットは清の保護国だったみたいだけど、この頃は清の影響力が落ちていて、チベット国内でも政治権力争いが続いていたようだ。イギリスのチベット侵攻でダライ・ラマ13世はチベットを脱出してモンゴルと清と亡命し、1909年にラサに戻ってきたらしいけど、ダライ・ラマ13世の英露日への密使を清に知られ、清がチベットに侵攻してきたらしい。ダライ・ラマ13世は今度はインドに亡命したらしい。清は1912年に滅び、ダライ・ラマ13世は1913年にラサに戻ってきたらしい。
 
 ウィキペディアで調べると、ダライ・ラマは1642年にチベット政府の長になって、1959年までチベット政府の長だったようだ。チベットのラサというところにポタラ宮という宮殿があるらしい。今のダライ・ラマは14世のようだ。
 
 ポタラ宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか
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