東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

お祓い

2024-06-16 23:04:11 | 日記

南北朝

2024-06-16 23:02:11 | 日記
 日本の歴史は嘘の気がするけど、天皇や神道を信じてる人たちって、なんなんでしょうね?。
 
 青森県には南北朝の南朝の3代目の天皇の長慶天皇が落ち延びてきた伝説があるらしく、弘前市の旧相馬村の紙漉沢というところに上皇宮があって、長慶天皇の墓所があるらしい。インターネットで調べると、五所川原市や藤崎町や青森市に合併した浪岡町や南部町や新郷村にも長慶天皇伝説があるらしい。
 
 インターネットで調べると、上皇宮は坂上田村麻呂が蝦夷征伐の時に宝龍権現を祀ったのが始まりということになってるらしく、宝龍権現宮や法龍宮や龍田神社ともいわれてたらしいけど、昭和40年(1965年)に上皇宮にしたらしい。
 
 インターネットで調べると、弘前の長慶天皇陵は明治時代に調査が行われたらしい。南北朝については、その後も論争が続いたようだけど、昭和19年(1944年)に京都にある嵯峨東陵が長慶天皇の陵墓に決まったらしい。
 
 南北朝は南朝の4代目の天皇の後亀山天皇の時に、三種の神器が北朝の6代目の天皇の後小松天皇に渡されて、統一されたことになってるようだ。
 
 明治維新の頃に宮家が増えたらしく、明治維新の頃にできた宮家は、すべて伏見宮家の系統らしい。本当か知らないけど・・・。伏見宮家は南北朝の北朝の3代目の天皇の祟光天皇の息子が創設した宮家らしい。伏見宮家の3代目の人の息子が天皇を継いで後花園天皇として即位して、今の天皇は後花園天皇の子孫らしい。
 
 伏見宮博恭王は明治16年(1883年)に華頂宮家を継いだらしいけど、明治37年(1904年)に伏見宮家に復帰して、大正12年(1923年)に伏見宮家を継いだようだ。伏見宮博恭王は海軍の軍人で、伏見宮博恭王は昭和7年(1932年)に海軍軍令部長に就き、海軍軍令部は軍令部になって軍令部総長になったようだけど、昭和16年(1941年)まで軍令部総長を務めたようだ。伏見宮博恭王は皇族軍人として海軍で重鎮のような存在だったようだ。伏見宮博恭王は昭和21年(1946年)に亡くなったらしい。
 
 伏見宮博恭王は伏見宮貞愛親王と河野千代子という女性の息子らしい。伏見宮貞愛親王の妃は利子女王という人で、有栖川宮幟仁親王の娘らしい。伏見宮貞愛親王と利子女王の息子の邦芳王は不治の病を理由に廃嫡され、博恭王が伏見宮に復帰して伏見宮を継ぐことになったらしい。邦芳王は昭和8年(1933年)に亡くなったらしい。
 
 幸徳事件というみたいだけど、明治43年(1910年)に明治天皇の暗殺計画を企てた人たちが捕まって、そのことが発端になって、社会主義者や無政府主義者の人たちが明治天皇の暗殺計画とは関係無く、でっち上げ捜査で捕まって処刑されたらしい。
 
 幸徳秋水という人は法廷で、今の天皇は南朝の天皇を暗殺して三種の神器を奪った北朝の天皇じゃないかみたいなことを言ったようだ。南北朝正閏論というみたいだけど、南北朝の南朝と北朝のどちらが正統かみたいな議論になって、国会でも取り上げられ、明治天皇によって南朝が正統ということになったらしい。たぶんだけど・・・。今の天皇は北朝で続いてるらしい。
 
 天皇ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

三郷

2024-06-16 22:56:56 | 日記
 疲れたなあ。日本の歴史は嘘の気がするけど、天皇や神道を信じてる人たちって、なんなんでしょうね?。
 
 青森県には南北朝の南朝の3代目の天皇の長慶天皇が落ち延びてきた伝説があるらしく、弘前市の旧相馬村の紙漉沢というところに上皇宮があって、長慶天皇の墓所があるらしい。インターネットで調べると、五所川原市や藤崎町や青森市に合併した浪岡町や南部町や新郷村にも長慶天皇伝説があるらしい。
 
 インターネットで調べると、上皇宮は坂上田村麻呂が蝦夷征伐の時に宝龍権現を祀ったのが始まりということになってるらしく、宝龍権現宮や法龍宮や龍田神社ともいわれてたらしいけど、昭和40年(1965年)に上皇宮にしたらしい。
 
 奈良県生駒郡三郷町にある龍田大社では天御柱大神と国御柱大神を祀っていて、天御柱大神は志那都比古神で国御柱大神は志那都比売神ということになってるらしい。龍田大社の摂社には龍田比古命と龍田比売命が祀られているらしい。
 
 伊勢神宮の内宮の別宮には風日祈宮があって、伊勢神宮の外宮の別宮には風宮があって、級長津彦命と級長戸辺命を祀ってるらしい。字は違っても、龍田大社の祭神と同じらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 龍田大社ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

橿原

2024-06-16 22:52:29 | 日記
 神武東征の話も嘘の気がするけど、同じことを何度も書いて、疲れたなあ。
 
 神武東征の話では神武天皇の敵は長髄彦ということになっていて、長髄彦は奈良県の生駒山地のあたりにいたことになってるらしく、那賀須泥毘古や登美能那賀須泥毘古や登美毘古とも記載されてるようだ。
 
 初代天皇の神武天皇は橿原神宮がある畝傍山で即位したことになっているらしいけど、奈良県橿原市にある橿原神宮では神武天皇を祀っていて、橿原神宮は明治23年(1890年)に創建されたらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 橿原神宮のHPを見ると、明治44年(1911年)から橿原神宮の宮域の拡張や施設の整備事業が始まったようだ。大正4年(1915年)から大正10年(1921年)まで国費が支出され、帝国議会でも橿原神宮の拡張整備事業が可決されたらしい。整備事業は大正15年(1926年)まで行われたようだ。
 
 昭和10年(1935年)に当時の総理大臣だった岡田啓介が会長になって紀元二千六百年祝典準備委員会が発足したらしく、紀元二千六百年祝典準備委員会は紀元二千六百年祝典評議委員会ができて廃止になり、内閣には内閣紀元二千六百年祝典事務局が設置され、昭和12年(1937年)には恩賜財団紀元二千六百年奉祝会ができたようだ。それに合わせて橿原神宮の整備が進められていったらしい。
 
 昭和15年(1940年)の年初には橿原神宮からのラジオ中継が行われ、2月11日の紀元節には橿原神宮では紀元二千六百年奉祝紀元節記念大祭が行われ、日本各地の神社でも大祭が行われ、11月10日には紀元二千六百年式典が皇居外苑で盛大に行われたらしい。この年には紀元二千六百年を記念した美術展覧会や天覧武道大会や児童唱歌大会や吹奏楽競演会なども行われ、日本各地の都市や東京や大阪の百貨店で展覧会が行われたらしい。記念切手も発売されたらしい。
 
 橿原神宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

天理

2024-06-16 22:48:01 | 日記
 神武東征の話も嘘の気がするけど、同じことを何度も書いて、疲れたなあ。
 
 神武東征の話では神武天皇の敵は長髄彦ということになっていて、長髄彦は奈良県の生駒山地のあたりにいたことになってるらしく、那賀須泥毘古や登美能那賀須泥毘古や登美毘古とも記載されてるようだ。
 
 奈良県天理市にある石上神宮は物部氏の神社で、布都御魂と布留御魂と布都斯魂を祀っていて、布留御魂は物部氏の祖のニギハヤヒが持ってきた天璽十種瑞宝の霊威ということになってるらしい。ニギハヤヒは神武東征の話に出てきて、神武天皇よりも先に関西に来ていて、長髄彦の妹を妻にしていたことになってるらしい。
 
 明治7年(1874年)に石上神宮の禁足地の場所を発掘したら剣が出てきたらしく、大正2年(1913年)に御神体の剣を祀る本殿が完成したらしい。本当か知らないけど・・・。禁足地は布留社と刻まれてる石製瑞垣で囲まれてるらしい。
 
 石上神宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか