東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

お祓い

2024-06-18 23:49:59 | 日記

曹洞宗

2024-06-18 23:45:31 | 日記
 曹洞宗が今のようになったのも明治以降の気がするけどなあ。
 
 曹洞宗の大本山は福井県にある永平寺と神奈川県にある總持寺で、總持寺は明治44年(1911年)に石川県輪島市から神奈川県横浜市に移ったらしい。本当か知らないけど・・・。輪島市に總持寺祖院があるらしい。總持寺の山号は諸嶽山のようだ。
 
 岩手県奥州市に正法寺という曹洞宗の寺があって、山号は大梅拈華山だ。正法寺は南北朝の時代に創建された寺で、江戸時代の前まで曹洞宗の第三本山で東北大本山だったらしい。本当か知らないけど・・・。正法寺は無底良韶が開いたことになってる。正法寺は今でもお坊さんが修行する寺で、日本一の茅葺屋根の本堂があって、観光ガイドにも載ってる。
 
 奥州市の隣の金ヶ崎町に永徳寺という曹洞宗の寺があって、山号は報恩山だ。永徳寺も南北朝の時代に創建された寺で、永徳寺は道叟道愛が開いたことになっていて、道叟道愛は正法寺の第三世になってる。永徳寺は平成になって再建された本堂があって、広い敷地が広がってるぐらいで、行っても特に何も無い。
 
 曹洞宗では道元禅師を高祖として、瑩山禅師を太祖としているらしい。總持寺は瑩山禅師が開いた寺らしい。總持寺の第二世が峨山禅師で、峨山二十五哲という峨山禅師の高弟の人たちがいて、正法寺を開いた無底良韶は峨山二十五哲の一番目だそうだ。正法寺の第二世の月泉良印は峨山二十五哲の十三番目で、正法寺の第三世で永徳寺を開いた道叟道愛は峨山二十五哲の十六番目だそうだ。
 
 總持寺も總持寺祖院も三宝荒神が守護神のようだけど、總持寺も總持寺祖院も三宝荒神の祈祷が行われているようだ。總持寺の第三世の太源宗真が三宝荒神を祀ったようだけど、太源宗真は峨山二十五哲の二番目らしい。
 
 天皇ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

曹洞宗

2024-06-18 23:42:26 | 日記
 石川県ですか・・・。
 
 曹洞宗の大本山は福井県にある永平寺と神奈川県にある總持寺で、總持寺は明治44年(1911年)に石川県輪島市から神奈川県横浜市に移ったらしい。本当か知らないけど・・・。輪島市に總持寺祖院があるらしい。總持寺の山号は諸嶽山のようだ。
 
 横浜に移った時の總持寺の貫首は石川素童という僧で、明治38年(1905年)に總持寺の貫首になったようだ。石川素童は大正9年(1920年)に亡くなったらしい。
 
 石川素童の次の總持寺の貫首は新井石禅という僧で、新井石禅は福島県伊達市の梁川町の出身らしく、梁川町にある興国寺という曹洞宗の寺で出家得度したらしい。本当か知らないけど・・・。興国寺の山号は臥龍山のようだ。HPがある。新井石禅は昭和2年(1927年)に亡くなったらしい。
 
 總持寺は明治時代の前は輪番制といって5つの塔頭から交代で住職を出してたらしいけど、明治時代になってからは独住といって1人の僧が住職を務めているらしい。本当か知らないけど・・・。諸嶽奕堂という僧が總持寺の独住の第一世らしいけど、ウィキペディアを見ると、鶴岡にある善宝寺で亡くなったことになってる。
 
 山形県鶴岡市に善宝寺という曹洞宗の寺があって、山号は龍澤山のようだ。善宝寺のHPを見ると、龍王尊祈祷道場とあって、善宝寺は曹洞宗の寺でも祈祷をする寺で、善宝寺では龍王講があるらしく、HPを見ると、明治44年(1911年)に始まったらしい。
 
 善宝寺の龍王殿の正面の菊の紋の奥は有栖川宮家の御霊牌所になってるらしい。有栖川宮熾仁親王は王政復古の大号令で成立した新政府で最高職の総裁に就き、戊辰戦争では東征大総督に就き、西南戦争では鹿児島県逆徒征討総督に就いたらしい。本当か知らないけど・・・。有栖川宮熾仁親王は明治27年(1894年)に亡くなったらしい。有栖川宮熾仁親王の弟の有栖川宮威仁親王が跡を継いだようだけど、有栖川宮威仁親王は大正2年(1913年)に亡くなったらしい。有栖川宮家は有栖川宮威仁親王で途絶えたらしい。
 
 有栖川宮家は大正天皇の息子で昭和天皇の弟の高松宮宣仁親王に引き継がれたらしく、高松宮は有栖川宮の旧宮号らしい。本当か知らないけど・・・。高松宮宣仁親王の妻は有栖川宮威仁親王の孫らしい。高松宮宣仁親王は海軍の軍人だったようだ。
 
 天皇ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

南北朝

2024-06-18 23:40:53 | 日記
 南北朝ですか・・・。
 
 青森県には南北朝の南朝の3代目の天皇の長慶天皇が落ち延びてきた伝説があるらしく、弘前市の旧相馬村の紙漉沢というところに上皇宮があって、長慶天皇の墓所があるらしい。インターネットで調べると、上皇宮は坂上田村麻呂が蝦夷征伐の時に宝龍権現を祀ったのが始まりということになってるらしく、宝龍権現宮や法龍宮や龍田神社ともいわれてたらしいけど、昭和40年に上皇宮にしたらしい。
 
 南北朝は南朝の4代目の天皇の後亀山天皇の時に、三種の神器が北朝の6代目の天皇の後小松天皇に渡されて、統一されたことになってるようだ。
 
 明治維新の頃に宮家が増えたらしく、明治維新の頃にできた宮家は、すべて伏見宮家の系統らしい。本当か知らないけど・・・。伏見宮家は南北朝の北朝の3代目の天皇の祟光天皇の息子が創設した宮家らしい。伏見宮家の3代目の人の息子が天皇を継いで後花園天皇として即位して、今の天皇は後花園天皇の子孫らしい。
 
 伏見宮博恭王は明治16年(1883年)に華頂宮家を継いだらしいけど、明治37年(1904年)に伏見宮家に復帰して、大正12年(1923年)に伏見宮家を継いだようだ。伏見宮博恭王は海軍の軍人で、伏見宮博恭王は昭和7年(1932年)に海軍軍令部長に就き、海軍軍令部は軍令部になって軍令部総長になったようだけど、昭和16年(1941年)まで軍令部総長を務めたようだ。伏見宮博恭王は皇族軍人として海軍で重鎮のような存在だったようだ。伏見宮博恭王は昭和21年(1946年)に亡くなったらしい。
 
 伏見宮博恭王は伏見宮貞愛親王と河野千代子という女性の息子らしい。伏見宮貞愛親王の妃は利子女王という人で、有栖川宮幟仁親王の娘らしい。伏見宮貞愛親王と利子女王の息子の邦芳王は不治の病を理由に廃嫡され、博恭王が伏見宮に復帰して伏見宮を継ぐことになったらしい。邦芳王は昭和8年(1933年)に亡くなったらしい。
 
 幸徳事件というみたいだけど、明治43年(1910年)に明治天皇の暗殺計画を企てた人たちが捕まって、そのことが発端になって、社会主義者や無政府主義者の人たちが明治天皇の暗殺計画とは関係無く、でっち上げ捜査で捕まって処刑されたらしい。
 
 幸徳秋水という人は法廷で、今の天皇は南朝の天皇を暗殺して三種の神器を奪った北朝の天皇じゃないかみたいなことを言ったようだ。南北朝正閏論というみたいだけど、南北朝の南朝と北朝のどちらが正統かみたいな議論になって、国会でも取り上げられ、明治天皇によって南朝が正統ということになったらしい。たぶんだけど・・・。今の天皇は北朝で続いてるらしい。
 
 天皇ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

三郷

2024-06-18 23:37:55 | 日記
 南北朝ですか・・・。
 
 青森県には南北朝の南朝の3代目の天皇の長慶天皇が落ち延びてきた伝説があるらしく、弘前市の旧相馬村の紙漉沢というところに上皇宮があって、長慶天皇の墓所があるらしい。インターネットで調べると、上皇宮は坂上田村麻呂が蝦夷征伐の時に宝龍権現を祀ったのが始まりということになってるらしく、宝龍権現宮や法龍宮や龍田神社ともいわれてたらしいけど、昭和40年に上皇宮にしたらしい。
 
 南北朝は南朝の4代目の天皇の後亀山天皇の時に、三種の神器が北朝の6代目の天皇の後小松天皇に渡されて、統一されたことになってるようだ。
 
 奈良県生駒郡三郷町にある龍田大社では天御柱大神と国御柱大神を祀っていて、天御柱大神は志那都比古神で国御柱大神は志那都比売神ということになってるらしい。龍田大社の摂社には龍田比古命と龍田比売命が祀られているらしい。
 
 伊勢神宮の内宮の別宮には風日祈宮があって、伊勢神宮の外宮の別宮には風宮があって、級長津彦命と級長戸辺命を祀ってるらしい。字は違っても、龍田大社の祭神と同じらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 龍田大社ですか・・・。
 
 
 火をつけるか