ワイシャツを着る利点は、胸ポケットにGITANESを入れられることだけ。
それとは無関係に・・・。
資格(があるかどうか知らんが)も持っていないし、おそらく何かしらの
コンテストにエントリーや入賞してもいないだろうが、
昨年なくなった祖父は、少なくとも文字を書くことでメシを食っていた。
「書」は彼にとって職業であり、道であり、趣味でもあり、目的でもあったと思われる。
今は法事のとき以外誰もいなくなった祖父母宅の書斎には、
書道に関する書籍がかなりあって、誰にも読まれず放置されている。
先日祖父の一周忌で訪れたとき、そのうちの二冊を自宅に持って帰って来た。
一冊は「お手本」で、昭和15年刊、紐で綴じられている。
帰宅してからこれを開き、「ちょっと書いてみよう」と思い立って、
※子どもの頃はあれほど頑なに習字を拒んでいたのに・・・。
お手本を見ながら文字を書くのだが、
まあ見事に「書けない」のである。
お手本に似せようとしても似ることはなく(コロッケと岩崎宏美ぐらい遠い)、
また、頭の中にトレースされた理想像からもかけ離れている。
簡単に言うと、なんとまあ私は字が下手なんだろうか!
もう三晩連続で、午前三時ごろまで時を書いているが、
書けば書くほど解ってくるのは、「習字」とは難しく、
そして私は字が下手だ という事実ばかりである。
※因みに、硬筆による楷書。
もう一冊は「新書道概論」という本で、こちらは比較的新しい(と言っても平成ではない)。
こちらは芸術論争に関することなども載っているが、
書の理論についても書かれている。
恥ずかしながら、体系付けられた「書き方理論」を生まれて初めて目の当たりにした。
「このタイプの文字はこう書け」とか「この姿の字は、こう書いてはならぬ」という具合に、
文字型の分類と注意事項の表が載っていた。
もちろん全ての文字を一つの理論でくくることができるわけもなく、
紹介された理論も、数多く存在するうちの一流派のものであるらしいが、
それさえも時が経つほど分類が多くなって収拾がつかなくなったことや、
時代が変わると「良し」とされる文字の形も変わってくることから
破綻してしまうらしい。
で、ひとつひとつの「文字」だけでもこの始末なのに、
「文」となると、またさらにいくつもの「作法」や「説」「理論」があるのだ。
とにかく「字」を書こうと思ったら、まず「字」を識らなければならず、
「筆順」もい理解していなければ、どんな簡単そうに見える字であっても
全く書けないのである。
「書とは、面に対する水平運動と、筆圧等における垂直運動が組み合わされた技である」
との記述があり、なるほどとは思うのだが、ますます難しく、道は遠い。
硬筆による楷書には制約があるから(筆圧の表現に限界がある)、垂直運動まで
さほど気にする必要はないだろうが、水平運動という二次元の方法でさえ、満足に表現できない。
「楷書は留まるが如く、行書は行くが如く、草書は走るが如くせよ」
なんて言われても、そんな域に達するにはあと60年ぐらいかかりそうである。
そうすると、私の年齢は100に近づき、祖父が亡くなった年齢をようやく超えることになる。
習字では私は祖父の弟子であったが(10歳で破門された)、
字を書くたびに「弱い。」「勢いがない。」と言われ続けた。
あれから27年、「勢い」どころか、まず私は「下手」だなあと実感した。
GITANESに火をつけ煙を吐き出しながら、文字に関して色々考えたが、
自分の文字など、煙草の煙が一瞬作る形程度の偶然でしかないのだ。
偶然性が「型」に近づくのは
いつになるのだろうか?
「私、少々 書を嗜みます。ウフフ」なんて言える日は、ちょっと遠すぎる。
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