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それとは無関係に・・・。
 




GITANES休止者になって3年目に入った。
日々吸いたくなる。
それとは無関係に・・・。


年末、自治会の役員の人から数回電話があった。
近所の神社の、新年のお札と箸を預かっているので
届けたい・1500円です とのこと。

大晦日にその役員さんはその札と箸を持って来てくれた。
持って来てくれたと言っても、頼んだ訳ではない。
「このあたりに住んでいる人はみんな(自動的に)氏子に
なって、毎年新年のお札とお箸を神社から貰うことに
なっています。」とのことだ。

氏子ってどんなもんなのだろう・檀家ってどんなもんだろう
と昨年から少々の興味を持っていた私は、
「そんなもん知るか!ほなこっちから勝手に箸届けたら
金くれるんかい?!」などと下品なことは言わず、
「ああ、はいはいご苦労様です。」と、素直に代金を渡した。
なにか、未知の世界を垣間見るきっかけになるかも知れないし、
第一この役員さんはちっとも悪くないのである。

それにしても、今の地区を選んで引っ越してきたのは私だから、
その神様には私から近づいたのだろうけど、宗教の末端に
入るのが、なんとあっちからのアプローチがきっかけだなんて
想像もしていなかった。こちらからはじめに寄付をしたり
祈祷料を払ったりするというスタートではないのだ。
凄いオートマチックなシステムなのである。

それまでは何の関心もなく、日々の生活にそんな習慣も
なかったが、昨年から仏壇や線香、お経やお寺お坊さんといった
存在と私の日常が非常に近くなり、それこそ私が選択した覚えが
なくても生活のちょっとした物事が勝手に仏教と関わるようになった。
そしてまた、知らぬ間に近所の神社とのつき合いが始まって
しまったようなのである。

自意識の枝を過剰に無限に広げていくと、これはお寺と神社の
私をめぐる争奪戦と言えなくもない。

などと罰当たりなことを考えるのをホドホドにして、
仏壇に線香をあげて、神社の方角にお辞儀する穏やかな私。


連日ここをお読みになっている200人ぐらいの皆様、
貴方にとって今年はいい意味で大当たりの年になり
それがずっと続きますように。






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« 正月準備 ダラダラ »
 
コメント
 
 
 
Unknown (風信子)
2008-01-03 22:08:50
明けましておめでとうございます。

・・・と、ふと使うこの言葉。
これは、何か宗教的な意味はあるのだろうか?

穏やかなSGCさんのように、
必要に迫られる時が来たら、
うちの同居人も宗教論など持ち出さずに、
ちゃんとオトナの態度がとれるだろうか。

しかし例えばナントカ学会とか
そういう新興宗教に加入している人などは、
“ここに住んだからには氏子になれ”というような、
そんな一方的な、しかし穏やかな勧誘などは、
断固として跳ね除けるだろうから、
そうすると地元の人は“あの人は変わった人だ”ということになるんでしょうね?
だけどどっちがどうなんでしょうねえ?
うーん、きちんと考えようと思うと眠くなる・・・。
 
 
 
Unknown (sgc)
2008-01-04 01:43:14
ちゃんとしたオトナなら毅然と断るような気がします。
私にとって宗教とは、「分からない物を一旦分析する
解釈の一つ」ですので、宗教自体をまったく否定したり肯定したりしないんです。
もちろん明らかにインチキな集団は決して認めませんし、昔、かなり有名な新興宗教団体と争ったことも
あります(結果的に離婚につながりました)。
あいつらの、詐欺師が思いついた狭い教えを、
物事の終点のようにとらえるところが私の考え方との決定的な違いです。終点でも結論でもなく、現段階での解釈の一つとして宗教をとらえるのが正しいような気がします。
ちょっと知ってみたいなあという一種の好奇心も湧きます。非常に不純です。

でも、面白いですよ。
昔、神道では死体は粗末に扱われていたとか、
仏の教えにそもそも死後の世界などない なんて
ことを知り、それはどういうことなんだろう?と考えたりとか。
昔からの「考え方」を知るっていう作業はそれほど
嫌いではないのだろうと自分で分析しております。
そしてそれは、その「考え方=教え」を信仰することとは全く別のことであり、考え方がマッチしなければ
「うっさいボケ、寄って来るな。」と追い払うまでであります。
般若心経の現代語訳なんて面白いです。
結構ハードボイルドです。
 
 
 
Unknown (風信子)
2008-01-06 02:00:32
私にとっての宗教とは“哲学”です。
一個人が個人的に思想して得たもの。
その個人にとっての哲学だと思っています。

sgcさんの“物事の終点のようにとらえるところ”という言葉がなんとなく心にひっかかっていました。

さきほど、NHKで民主主義について考える番組で、
イスラム教徒の人たちが色々と話し合っていました。
ある女性が“イスラム教は女は男の下だと思っている”などと論争していました。

そこで、インタビュアーが貧しい人に質問しました。
“あなたが大統領になったらどうしますか”
答えは“私ら貧しい者にはわからんよ”でした。
そしてその男性は言いました。
“私らが今このようにあるのも全ては神の思し召しなのだ”と。

私はこの言葉を聞いたときに、失望しました。
そう言われてしまっては、
いくら貧しい人々を救おうなどと考えていたって、
どうにもならないではないかと。

“全ては神の思し召し”という言葉は、
苦難に耐えて、耐える為に遣う言葉なのだと思っていましたが、
“観念”“諦念”なのかと感じてしまいました。


でも、ふと“観念する(あきらめる)”という字は
これで良いのか?と疑問に思って国語辞典で見ると、
“仏教の真理などを心に思い描き、思念すること”という意味もありました。
不思議ですね。

般若心経の現代語訳ってどんなのだろう・・・。
 
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