こんな本を読んでいる

日々出版される本の洪水。翻弄されながらも気ままに楽しむ。あんな本。こんな本。
新しい出会いをありがとう。

寂聴 般若心経 を持ち歩く

2011年08月29日 | 読書ノート
寂聴 般若心経―生きるとは (中公文庫)
クリエーター情報なし
中央公論社

  仏陀の教えのエッセンス。般若心経の解説本は,何冊か読んだが,このブログでは,新井満の自由訳を取り上げたことがある。母の死を乗り越えてリルハンメルをやりきった。それを支えた般若心経への感謝の念がこめられていた。命というものが,過去から現在,そして未来へと時空を超えて,つながっている。我々一人ひとりが,広大な宇宙の欠かすことのできない構成要素だと喝破した良書であった。

 そして,この瀬戸内寂聴の般若心経。16年前に購入して以来,何度か手に取るも,読了には至らなかったこの本。この4月,P250からP320のダイジャスト部分を切り離し,小冊子の形で,毎日の電車の行き来で,何度も何度も帰り読みしながら,読み通し,今も,通勤カバンにそっと忍ばせて持ち歩いている。

 お陰で,空で覚えてしまったので,先月25日の母親の七回忌には,般若心経を通じ母と対話した。心をこめて3度と唱えた。時空をこえつながった。それに,朝のジョギング時には,自分自身を含め家族,そして職場の面々,さらには世界の全ての人たちの幸福を願いながら,何度も何度も,心経を唱えている。

 寂聴の般若心経は,オーソドックスなものだが,煩悩から逃れるのは不可能だし,非現実的なので,そういうものから解放されるために,唱えるというのは違和感がある。むしろ,煩悩とうまくつきあいコントロールするという,解釈の方が,人の自然な営みにマッチするのではないか。毎朝,走りながら唱えているうちに,悟りを開いた仏陀なら,そういう自然な状態を望んだのではないか,日に日に,そんな思いが募っている。

 座禅を組む。屋外で子供のはしゃぐ声。そのとき,凡人は,その声に反応し心乱れ容易にはおさまらない。だが,修行僧は,凡人を大きく超える激しい反応を一瞬示,その後,波がさっと引くように,心の乱れがおさまるという。その瞬時の心を整える・コントロールする力こそ,ブッタが欲したものではないか,と最近考えている。

 無でも有でもない空こそ,その境地こそ,我々が,最も安らげる場所・空間なのではないか。そして,それが時間軸や空間軸を超えて,あるいは越えて,過去・現在・未来,個から宇宙へと,連綿と連なるのではないか,寂聴のエッセンスを読み込むうちに,或いは,ジョギングに唱えるうちに,そんな考えが芽生え始めている。
  そんなわけで,前半の248頁を読むのは,ずっと先のことになりそうである。14年先の読了なら30年越しの読書になるなあ,とわけのわからないことを思い浮かべている。果たして生きているうちに読むかどうか。無理をする必要もないと思っている。


最新の画像もっと見る