フェルメールの作品群は、ウィッキペデアで一覧できる。
晩年の作品『ヴァージナルの前に座る女』の解釈。一般には、ウィッキペデアの評ように、作家、フェルメールの衰えを象徴した作品と見る。例えば、http://www1.icnet.ne.jp/take/35.htmlのような論評がなされる。という見立てをする人が多い。
所蔵するナショナルギャラリーのキュレター(学芸員)・ヴィーゼマン女史の解説は趣を異にする。
「 彼女の表情は、意図的に無表情に、あえてミステリアスに描いていると思います。
そしてこの絵はある種の両義性を私たちの前に提示している、そのようなフェルメールの実験作ではないで
しょうか。女性は、エレガントな衣装を着てヴァージナルを演奏しています。
この楽器と音楽は文字どおり、純粋、優雅、高潔というような愛のよき面を象徴しています。
一方、背景の絵画は暗く、略されて描かれています。しかしそれには明確な理由があると思います。あえて
主人公の女性と競合しないようにとの配慮です。しかしフェルメールは、この画中画がどんな絵かわかるように
描いています。ここが重要なポイントだと思います。
この絵は、ディルク・ファン・バビューレン作の『取り持ち女』です。現在、ボストンにあります。中心的
テーマとは真逆の、春をひさぐ女性がモチーフの絵画です。
つまり、この絵でフェルメールは愛の両義性を示して、そのことに、何も気づかない若い女性の危うさを描い
ているのです。そのため、女性の表情はことさら曖昧なのです。
いくら晩年とはいえ、フェルメールにとって、どんなものでも描こうと思えばいかようにでも描けたはずです
から。そして、この両義性は、そのままこの絵を見る人々に謎をかけ、選択を迫り、暗号を解かせようとするの
です。
つまり、フェルメールは最後まで、私達を楽しませようとしてくれているのです。
私はこのようなフェルメールの実験を来館者に感じてほしいと思い、当館が所蔵する2つのフェルメールを並
べて展示することをやめてみたのです。(P144)」
福岡伸一の見立ての面白さはいずれかの機会に紹介することとして、今日は、ロンドン、ナショナルギャラリーのキュレター、ヴィーゼマン女史の企てを堪能してみる。
これまで二度訪れたロンドン、ナショナルギャラリー。ターナーや,ルーベンス、ファン・アイク、ミケランジェロやダビンチなどの作品ばかりに魅せられてフェルメールの作品など気にも留めなかったが、今度行くときは、フェルメールに的を絞って行ってみたい。そんな機会がまた訪れることを祈る。
晩年の作品『ヴァージナルの前に座る女』の解釈。一般には、ウィッキペデアの評ように、作家、フェルメールの衰えを象徴した作品と見る。例えば、http://www1.icnet.ne.jp/take/35.htmlのような論評がなされる。という見立てをする人が多い。
所蔵するナショナルギャラリーのキュレター(学芸員)・ヴィーゼマン女史の解説は趣を異にする。
「 彼女の表情は、意図的に無表情に、あえてミステリアスに描いていると思います。
そしてこの絵はある種の両義性を私たちの前に提示している、そのようなフェルメールの実験作ではないで
しょうか。女性は、エレガントな衣装を着てヴァージナルを演奏しています。
この楽器と音楽は文字どおり、純粋、優雅、高潔というような愛のよき面を象徴しています。
一方、背景の絵画は暗く、略されて描かれています。しかしそれには明確な理由があると思います。あえて
主人公の女性と競合しないようにとの配慮です。しかしフェルメールは、この画中画がどんな絵かわかるように
描いています。ここが重要なポイントだと思います。
この絵は、ディルク・ファン・バビューレン作の『取り持ち女』です。現在、ボストンにあります。中心的
テーマとは真逆の、春をひさぐ女性がモチーフの絵画です。
つまり、この絵でフェルメールは愛の両義性を示して、そのことに、何も気づかない若い女性の危うさを描い
ているのです。そのため、女性の表情はことさら曖昧なのです。
いくら晩年とはいえ、フェルメールにとって、どんなものでも描こうと思えばいかようにでも描けたはずです
から。そして、この両義性は、そのままこの絵を見る人々に謎をかけ、選択を迫り、暗号を解かせようとするの
です。
つまり、フェルメールは最後まで、私達を楽しませようとしてくれているのです。
私はこのようなフェルメールの実験を来館者に感じてほしいと思い、当館が所蔵する2つのフェルメールを並
べて展示することをやめてみたのです。(P144)」
福岡伸一の見立ての面白さはいずれかの機会に紹介することとして、今日は、ロンドン、ナショナルギャラリーのキュレター、ヴィーゼマン女史の企てを堪能してみる。
これまで二度訪れたロンドン、ナショナルギャラリー。ターナーや,ルーベンス、ファン・アイク、ミケランジェロやダビンチなどの作品ばかりに魅せられてフェルメールの作品など気にも留めなかったが、今度行くときは、フェルメールに的を絞って行ってみたい。そんな機会がまた訪れることを祈る。