4年生が小篠貯水池の見学に行きました。

2017年12月05日 | 学校生活


5日(月),4年生が小篠貯水池の見学に行きました。
ガイドを務めていいただいたのは小篠にお住いの小俣好弘さん。
小俣さんは,小篠貯水池及び用水路の維持管理を行う,小篠土地改良区の元区長さんです。


貯水池の堰堤に立つ東屋(あずまや)で説明を受けました。
貯水池の大きさやその目的,これまでの歴史について聞き取りました。
お話しを聞く中で子どもたちが驚いたのは,次のエピソードでした。
それは,ダムができてお米を作れるようになったのに,そのお米を食べることが出来なかったこと。
その原因は,日照りや冷害などではなく日本が戦争をしていた時代の「供出」によるものでした。


堰堤の西端に建てられている彰徳碑の前でパチリ。
荒れ地を豊かな美田に変えるため,小篠貯水池の建設に半生をささげた小俣孔元(こうげん)さん。
孔元さんの残した業績が語り継げられるようにと建てられた石碑です。
石碑が球の形をしている理由を2つ小俣さんは教えてくれました。
1つは,小篠の人たちが諍い(いさかい)なく穏やかにまとまるようにとの願いが込められていること。
もう1つは,孔元さんがくりっとした大きな目をしていたからだそうです。

※おまけ
小俣さんのお話の中に出てきた「供出」について少しつけ加えておきます。
たくさんの苦労の末に貯水池がようやく完成したのが1938(昭和13)年8月。
造り始めてから11年もの歳月がかかりました。
小篠の人たちは,ようやくこれでおいしいお米が食べられるようになるはずでした。
ところが,日本はその前の年に中国と本格的な戦争を始めていました。
それはやがてアメリカをも巻き込むアジア・太平洋戦争へと広がりました。
日本政府は戦争を続けるために,生産農家から主食であるお米を強制的に買い上げることにしました。
このしくみを「供出」といいます。
小篠の農家の人たちも例外ではありませんでした。
作ったお米の大半は「供出」され,自分たちが口にする分はほとんどなかったそうです。
1945(昭和20)年に日本の敗戦により戦争は終わりましたが,その後もしばらく続きました。
日本の昭和の歴史を振り返るとき,「先の戦争」のことがすべてに大きく関わってきます。
さて,昭和の歴史上,12月8日はいったい何の日だったのでしょう。
お家でも話題にしていだきたいと思います。